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黒猫センチメートル。  作者: 三番茶屋
13/56

3cm/h

 玄関の扉を開けて、ただいまと独り言を小さな声で呟く。

当然誰かが返事するはずはなく、誰かが家の中にいるはずもない。

そんな孤独な生活はおよそ四年間続いていて、一人暮らしには余りに余る一戸建ての家が僕の住居である。

 家族はいない。

いや、過去に家族と呼べる者はいたが、それは保護者であって血縁関係のないただの家族だった。

こんな異質な目を所持しているが、勿論僕も人の子で正しく母親から生まれてきた人間だ。

最初から父親はいない。

父親の顔は見たことがないし、声も聞いたことがなかった。

それは僕が出生するまでに他界したという意味でも、離婚したという意味でもなく――僕が人工的に作られたということを意味している。

そう言えば、人造人間のような聞こえになってしまうけれど、そうではなく。

ドナーから提供された遺伝子によって人工授精が成功した結果生まれたのが僕、ということだ。

優秀な遺伝子を提供する、謂わばバンクからそれを高値で買ったのだ。

物覚えのついた頃に母親が自殺したということもあって、僕の父親と呼べる『誰か』のことを詳しく知ることはできなかったが、この目を見る限りそれはアジア系の人種ではないようだった。

欧米かどこかの遺伝なのだろう。

自分でも感じるが、この左目だけでなく、顔つきも日本人離れしている。

左目さんや楽座さんからは美少年扱いされる所以(ゆえん)はそこに起因しているものだろう。

 母親が自殺した理由は知らない。

四年前、保護者が失踪した理由も知らない。

だけど心の何処かで、きっと僕のせいだと感じることができた。

僕の異質さに気づいた母親は――。

僕の異常さに気づいた保護者は――。

僕を見捨てて、諦めたのだと思う。

千尋くんの言葉を借りるなら、そんな生い立ちこそが僕を虐めているのだと思う。

 



『おかえり』

 どうやらこの日、僕が学校から帰宅して玄関の扉を開けて独り言ように呟いた「ただいま」という言葉は一匹の猫に届いたらしい。

玄関マットの上で座った青い色の猫は黒い瞳で僕を見つめて、そう言い返した。

僕にとってそれは初めての経験で、戸惑いを覚えつつもどこか胸が高鳴った。

感動したと言ってもよかった。


 

        ◆



『疑問が一つ、お前はこんな生活嫌だと思わないのか?』

 青猫の彼女は自室に入る僕の後を尻尾を動かしながら、そう言って付いて来る。

どうしようか、と思ったけれど僕は素直に扉を開けて、先に彼女を招き入れた。

「こ、こんな生活って、あなたは僕の何を知って…」

『お前のことなら何でも知ってるよ』

 と、彼女は豪快に笑う。

口を閉じた猫が喋りかけてくるという光景は不気味に思えた。

いや、猫自身の存在すら不気味で奇妙だが、猫とは違う何かと会話しているような感覚だった。

頭の中で響く少女のような声はどう考えてみても、猫が発するものとは思えない。

違和感が全身を襲うが、彼女は続ける。

『お前の複雑な生い立ちや、その左目も、そして虐められていることも全部知ってる。全部知っているからこそ、私はお前の願いを叶えてあげようと思う』

「願い…」

『ただ、お金が欲しいとか、車が欲しいとか、そういった物理的な願いは叶えることが出来ないけど。痩せたいとか、綺麗になりたいとかも無理。まぁお前はそんなもの要らないか』

 僕は少しの間沈黙する。

 お金と言えば、生活費や授業料などは四年前に去った保護者であろう人から受け取っている。

毎月一定額が口座に振り込まれるが、それは高校生では使い切れそうにもないほど多額だった。

だから今ではその口座に、自分でも数えるのが億劫になるほどの残高があるのだった。

保護者の記入が必要な書面はファックスで保護者『だった』人に送ったり、学校の先生に免除してもらったりしている。

知っているのは電話番号だけで、住所は知らなかった。

 けれどそんな生活の方が気楽で良かったりもする。

誰にも囚われない、家の中じゃ誰にも虐められない。

その代わり――。

そんな孤独の生活の代償として――。

虐めのストレスを誰にも言うことができず、誰にも知って貰うこともできず。

復讐という形で発散させるしかなかったのだ。

八つ当たりもいいところだろう。

幸いだったのが、無関係な人を巻き込んでいないということなのかもしれない。

いや――僕はすでに千尋くんと左目さんを巻き込んでしまっている、か。

『例えば、やり直したい過去があったとしよう。それを私は叶えることができる』

「………」

『例えば、お前がこんな生活を送っているのも、お前が学校で虐められるのも、全ては生い立ちと家庭環境の問題だろう。お前の内面を作り上げたのも、そんな残酷な環境のせいではないか?』

「………」

 図星だった。

だから僕は答えない。

沈黙は肯定を意味するのかもしれなかった。

『例えば、お前がもっと積極的で、もっと真っ当な人間だったのなら、お前の友達ともより一層仲睦まじい関係を築くことができるんじゃないか?』

『例えば、お前の性別が変われば、好きな人と恋人になったりできるんじゃないか?』











『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――『例えば――』









 


 



頭の中で彼女の声が反響して聞こえて、僕ははっと目を覚ました。

携帯を開いて時刻を確認する。

また遅刻することになりそうだった。









 階段を一気に降りて、洗面台で寝癖のついた髪を()かして――そこで気づく。

鏡に映る自分を見て、持っていた(くし)と音を立てるドライヤーを床に落とした。

鏡越しに映る自分の顔を見て。

鼻を見て。

唇を見て。

耳を見て。

眉を見て。

睫毛を見て。

見下ろして、ふっくらとした胸元のを見て。

そして――。

左右の黒い左目を見て。

 僕は自覚する。

認識する。

混乱した脳で理解する――。











 ――どうやら僕は女の子になってしまったらしい。

嬉しいことか、残念なことか、より一層女の子らしくなっただけで、顔立ちそのものは大して変化していなかったようだけれど。

手間取りながら女性の下着を身につけて、肌寒いままスカートを穿いた。

どうしてか、違和感は無かった。

その意味は後々知ることになるが、今はあまり気にしないでおこう。

心境がポジティブになっているということにも自覚しないまま、僕は身支度を終えて玄関の扉を開けた。

「いってきます」と言った。

左目さんの期待には偶然にせよ、応えてしまった。


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