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悲しみの卵  作者: 朔良
第一章 あきさめ
9/32

悪い想像

 秋雨(しゅうう)は、カーテンを透かして雨粒が見えているような顔で、窓のほうを見ている。

 その憂鬱そうな横顔を、私は黙ったまま見つめた。

 決して“本当”をさらけだそうとはしない秋雨。

 彼にとって、私は何?

 

 “あなたにとって、私は……”

 

 私にとっての最大の禁句が脳裏を横切る。

 

 その時、悲鳴のように寝室の目覚し時計が鳴った。

 はっとして、音のしたほうを見る。

 それから、眠るときもはずしたことのない腕時計の針を。

 もうそんな時間になっていたなんて、全然気付かなかった。

 

 ……秋雨は、遠い眼差しのまま、煙草をふかしている。

 初めて会ったあの日のように、ゆったりと燻る紫煙。

 頬に刻まれる諦めにも似た倦怠。

 

 私は……。

 私は、きゅっと唇を噛むと、寝室に戻って目覚し時計を止め、手早く身仕度を始めた。

 着替えて、髪を梳かし、手軽な朝食に取りかかる。

 時間が来れば、習慣通り身体が動き出す自分に、我ながらあきれてしまう。

 スクランブルエッグを菜箸でかき混ぜ、ウィンナーとともにフライパンで炒めながら、バターをたっぷり塗ってパンを焼く。

 最後に赤いトマトを櫛切りに。

 コーヒーはインスタントだから、それらを皿に盛れば出来上がりだ。

 これまでなら簡単な弁当も一緒に作っていたが、秋雨を拾って以来ほとんど料理なんてしていないから、最近のお昼はもっぱらコンビニのおにぎりだ。

 今日もそれですますことにする。

 今は、弁当を作る時間より朝食を摂る時間を優先したかった。

 テーブルの上を片付けて皿をおく。

 料理する音が聞こえないはずがない、匂いがしないはずがない。

 なのに、秋雨は私の方を見もしない。

 何本目かの煙草をふかしているだけだ。

 

「出来たわよ、どうぞ」

「いらねーよ」

 

 相変わらずの拒絶。

 視線を合わせてもくれない。

 

「……御飯くらい食べてって、頼んだじゃない」

「食欲ねーもん。……だいたいさ、食べてほしけりゃ、もっとうまそーなもん作れば?」

 

 もうッ。どうしてこの男は、人を怒らすようなことばっかりいうんだろう。

  

「なら、勝手にして」

 

 私は諦めて、ひとりで食事を始めた。

 味の感じられないスクランブルエッグやウィンナーを口の中に押し込み、パンをコーヒーで無理やり流し込む。


「………蒔子さん」

「なに?」

「今日も仕事に行くわけ?」

 

 言って、秋雨はちらりと私を見た。

 こんな時でさえ、私の鼓動をひとつ深くする艶やかで鋭い瞳。

 

「そのつもりだけど」

 

 多少睡眠不足だが、それだけで会社を休むわけにはいかない。

 第一、私の机には、昨日や一昨日定刻ぴったりに帰ってきたツケの書類がたまっている。

 

「……じゃ、いいや」

 

 秋雨は、不機嫌そうにぷいと横を向いた。

 ……すねてる? 

 いてほしい……のかしら?

 秋雨から「行くな」と言われたら、休んだかもしれない。

 真直ぐに私を見て「今日は家にいたら? 蒔子さん」なんて…言わないか。

 それがどんな意地の悪い言葉であったとしても、彼の艶やかな瞳に見つめられたら、きっと私は逆らえなくなってしまう。

 

 でも……。今日はダメだ。

 どうしても、会社に行かなければ。

 上司の目も厳しくなってきたところだ。

 ウチみたいな零細企業は、少ない社員を精一杯こき使って当然と思っている節がある。急ぎの仕事を終わらせてからじゃないと、有給休暇など取らせてもらえない。

 だから私は、あえて彼に言葉の意味を問うことはせず、口紅をぬって、部屋にいるときは外すことに決めた眼鏡をかけ直した。

 気を引き締める。

 

「タバコとお酒買ってあるから。……じゃ、行ってきます」

 

 こちらを見ようともしない秋雨に言いおいて、ドアを開ける。

 

 外はどしゃ降りの雨。

 秋の雨は春の雨よりも冷たい。

 一向に降り止む気配を見せない身を切るような雨の中、私は会社に向かった。

 気持ちは部屋に残したまま。


08

 時間は遅々として進まなかった。

 気持ちを切り替えて出勤したつもりが、秋雨のことが気にかかって、仕事も上の空だった。

 書類をチェックしていても、目が文字を追うだけで、頭の中で意味を成さない。

 ただ、苛々しながら、何度も時計を確かめる。

 そして窓の向こうで、泣き続けている空を。 

 日々エスカレートしていく陰口すら耳に入らないのだから、その重症のほどがわかるだろう。

 仕事ははかどらないし、苛立ちばかりがつのる。

 せっかく会社に出勤しても、これでは何もならない。

 とんだ給料泥棒だ。与えられた仕事を正確に素早くこなせるということだけが、私が会社に居座り続けるための武器だったのに。唯一の長所が見る影もない。

 

 どうしよう。

 ……いっそ、早退して帰ったほうがいいかしら。

 それは妙案に思えた。

 ただ上司に頼む勇気がないだけだ。

 私のお城にいるときは……秋雨といるときはそうでもないのだが、会社での私はどうにも堅物すぎる。

 ……正当な理由なしには、会社を早退することすらできないのだ。

 たとえ、どんなにそれを望んでいても。

 

 秋雨のために帰る。

 私の拾ってきた男のために。

 

 それはこの上もなく魅力的な考えだったが、所詮、架空の世界から足を踏み出そうとはしない妄想だった。

 私の正当な理由とは、これもまた堅いことに、せいぜい病気や冠婚葬祭くらいのもので、色恋はその範疇になかった。

 ……第一、秋雨と私の関係は、色恋ですらないのだ。

 この上は、定刻まで歯を食いしばるしかないだろう。

 自分を許す術さえ知らない私には、そうするしか方法は残されていない。


 それなのに、ここぞとばかりに悪い想像が次々に頭を掠めていく。 

 悪い想像…。

 自暴自棄になった彼はなにをするかわからない。

 そんな気がする。

 たかが雨が降ったくらいで大げさな、と自分を笑い飛ばせないのは、多分、明け方の夢の話のせいだけではない。

 部屋を荒らすとか、物を壊すとか、そんなことならいくらでも好きにすればいい。

 でも、そうじゃなくて……。

 悪い想像を導く昏い暗示が、彼の言動には内包されている。

 それが私を不安に陥れ、余計に苛立たせるのだ。

 降り止む気配すら見せない雨のせいもある。

 憂鬱な雨音が、加速度的に私を昏い考えに追い込んでいく。

 吐き気がするほどの焦燥。

 

 ……私、いつかこんな焦燥を味わったことがある。

 

 ふっとそんな考えが脳裏を横切り、私ははっとした。

 いつかって……いつ?

 自問とともに心の深底で頭をもたげる悪夢を、左手首の時計をぎゅっと握りしめて押さえ込む。 

 私は唇をかみ締め、今日ばかりは這うように進む時間の経過をひたすら待った。

しばらくサボってました…。

またよろしくお願いします^^;


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