なまぬるい雨
07
雨の音がしていた。
秋の雨には似つかわしくない、天の憤りのような激しい雨。
カーテンを透かして、瞼の奥に残る稲妻の青白い光。
時折空気を震わせる落雷の音。
嵐のような天候に揺さぶられて何度も目を覚まし、しかしその都度睡魔の腕に溺れる。
秋雨が弾かれるように飛び起きたのは、明け方近くだった。
忙しなく息を繰り返し、首を振る。
つられて浅い眠りから醒め、薄く目を開けた私には、暗闇の中、綺麗な顔が苦渋に歪むのが見えた。
がさごそと服のポケットを探ったあと、秋雨はベッドから出て隣の部屋に行ってしまった。
明かりが目に刺さり、瞬きをする。
ドアが閉まりすぐに部屋の中には闇が戻った。
……どうしたのかしら。
どこか普通と違った。
彼との付き合いは二三日のものでしかないけど……でも。
いつも強気な態度を崩さない不遜な彼の、想像すらしなかった、あんな……怯えたような顔……。
ベッドサイドの明かりで、目を細めながら腕時計を確かめる。
午前四時…。
逃れがたい心地好い睡魔の腕。
……でも。
やっぱり、気になる。
名状しがたい不安にかられた私は、優しい睡魔の誘惑を振り払い、枕許の眼鏡を手に秋雨の後を追った。
寝室のドアを開けると、秋雨ははっとして顔を上げた。
害敵を見る目で私を睨む。
近づけなくなるような冷たく鋭い視線。
明白な拒絶の意志に敢えて気付かぬふりをし、
「……どうしたの?」
私はできるだけ穏やかに聞いた。
「怖い顔、してる」
私から視線をそらし、秋雨は煙草に火をつけた。
深く煙を吸い込む。
自分でも持て余すような苛立ちを静めるため、そうせざるを得ないという顔で、苦い薬を飲み込むように。
ゆっくりと煙を吐き出してから、もう一度私を見た。
「……蒔子さん、灰皿、ちょーだい」
私は、無言で灰皿代わりに使っている縁の欠けた小鉢を渡した。
「サンキュ」
秋雨の向かいに座る。
「ね…大丈夫?」
「なんで?」
「顔色悪いわ…」
「……」
「気分が悪いの?」
「……」
「それとも、なにかあった?」
「……」
言葉の代わりに沈黙が返る度、雨音が激しくなっていく。
「……雨は苦手だ」
秋雨がぽつりと呟く。
「いやな思い出でもあるの?」
「……」
まただんまりだ。
そのせいか、外はどしゃ降りに近い雨。
「あのさ…」わずかに逡巡し「蒔子さん、人が死ぬ瞬間見たことある?」
「えっええ」
突然妙なことを聞く男だ。
でも、奇妙な話題だとしても、会話が成立しないのよりはいい。
「祖母を病院で見取ったのは、五年くらい前よ。……でも、それくらいかな。お葬式には何度も参列してるけど」
人間、生きていれば、それなりに人の生死は経験する。
望まなくても。
でも、人が死ぬ瞬間なんて、そうそう見るものじゃない。
「ふうん。幸せな人生じゃん。……俺がさ、初めて人が死ぬのを見たのは、中学んときだったよ」
煙草を口にくわえたまま、秋雨はぽつぽつと話し始めた。
「……なまぬるい春先の雨が降ってた。冷たくはないけど、どしゃ降りで、遠くに雷の音が聞こえた。……どうやって入り込んだのかは今でもわからねぇんだけど、気付いたらその女は庭にいた。淡いワンピースに長い髪を振り乱して、雨に濡れそぼって立っていた。学校から帰ってきたばかりの俺が、なぜ庭に出たのかも覚えてない。……このことについちゃ、ひどく記憶が曖昧なんだ。
覚えてんのは……いや、忘れられねぇのは、目があった瞬間の女の顔だ。稲妻の青い光に照らされたの見て、こりゃ、絶対に絞め殺されるって確信したもんな。半ば狂気混じりの鬼みたいな顔してた。でも……」
言葉を探すように、軽く目を細める。
秋雨が自分のことを話すのなんて初めてだし、口を挟まれるのは嫌だろうから、黙ったまま待つ。
眠気はとっくにどこかに消え去っていた。
彼は煙草を小鉢にギュッと押し付けてから、
「……すぐに笑った。他にできる表情がなくてそうしたようにさ。そんで……。
『……あんたのパパいる?』
地の底から響くみたいに低いしゃがれ声だった。俺は、絞め殺されそうだという確信が薄れず、正直に応えた。
オヤジが昼間から家にいることなんかない。……仕事を終えてすら帰ってこねーような男だ。
女は、薄く微笑んだまま、
『じゃあ……あんたが伝えて。もう待てそうにないから……』
疲れ切った様子でそう言った。長い前髪からのぞくどこか見据えたふうな目が気味が悪くって、俺は何度もうなずいた。
『憎んでるって』
一言。
聞いただけで呪われそうな調子で言い、隠し持ってたナイフで首をすっぱりだ。
…すごかったぜぇ 蒔子さん知ってる? あれってほんとに血が噴き出すんだ。映画みたいに勢いよく飛び散る。
……俺も当然血まみれ。すくんだまま動けもしねぇの。まだ、ガキだったしね。馬鹿みたいに突っ立って、女が倒れるの見てた。
……あのころ雇ってた家政婦のばーさんが、すっげえ悲鳴上げて俺を引っ張ったとき、初めて目の前で何が起こったのか分かったよ。そんでいきなり気分が悪くなった。それまでは、感覚が麻痺しちまって平気だったのにさ。
……それ以来、雨は苦手なんだ。特に雷や稲妻なんかのおまけが付くと最悪だ。眠っててもあの時のことが夢に出てくる。……怖かぁないけど、気持ち悪い。血の匂いも苦手だ。あの時のこと思い出して吐き気がする」
「……ひど…」
あまりの内容にそれ以上の言葉を失う。
「……だから、雨の日にひとりでいるのはやりきれねぇの。……自分もあの女みたいになりそうな気がしてぞっとする」
意外なつぶやき。
“あの女みたい”に?
愛に疲れて死を選ぶってこと?
あまたの女性に、愛の恨みを買っていそうなあなたが。
再び目の前で誰かが死ぬことではなくて、自分が愛を恨むことのほうを恐れているっていうの?
そんなこと、ありえない。
……もしあったとしても、私が……。
「大丈夫よ。あなたはそんなことにはならないわ」
慰めになどならないかもしれないが、そう頷く。
彼の全身に漂う、倦怠とも言うべき負の空気は、この凄惨な経験によるトラウマのもたらすものかもしれない。
ところが、
「……蒔子さん、本気にしてんの」
突然、秋雨が、耐えられないというふうに喉を鳴らしてくくっと笑った。
「スナオだなー。ほんと、カワイイよ」
冗談?
「ウソ、なの?」
秋雨は新しい煙草に火をつけながら、斜めに私を見、
「そーんな昼メロみたいなことが、本当にあると思ってんの?」
完全にバカにしてる。
でも、それにも関わらず、私は彼の言葉がすべてフィクションとは思えなかった。
真実の響きが混じっているような気がしたのだ。
ちいさな破片かもしれないけれど。