一喜一憂
06
退屈な仕事。
仕事を退屈だと感じるなんて久しぶりだ。
他にすることがなかったら、単調な仕事が退屈だと感じる感覚すら麻痺してしまうものだ。
「ほーらぁ! 見て見て、加藤主任っ。すっかりやつれてるじゃん」
「やだ、ほんと。クマができてるよぉ。泣き明したのかな」
「泣いてたんならいいけど、藁人形でも打ってたりして」
「うっわぁ、怖すぎる。……でもでも。真面目な人って、思い詰めたらなにするかわかんないよねー」
「でしょ。あの仕事一筋の加藤主任が、なんか仕事中もぼーっとしてるしさ」
「だねぇ」
相変わらずの口さがないおしゃべり。
もちろん今日も黙殺だ。
どうせ、こんな噂に悩まされるのもあと二、三日だ。
その頃には、彼女たちも新しい話題を見つけているはず。
七十五日も同じ話ができるほどの忍耐強さは、彼女たちにはない。
それがあれば、もう少しは仕事の要領だって覚えているはずだ。
入社二年で、上申書や稟議書の処理も満足にできないなんて、会社に遊びに来ているとしか思えない。
言いたいことはいくらでもある。
しかし、私の性格は、彼女たちと争うのには向かないし……。
事を荒立てるよりは、黙っていたほうがいい。
そうやって黙々と仕事をこなし、定刻を待って早々に退社した。
残業は今日もナシだ。
電車に揺られて、泣き出しそうな空が暮れていく街にたどり着く。
足取りが軽いおかげか、マンションまでの距離が縮んだような気さえする。
途中で煙草をワンカートンと酒を一本買った。
マンションの前に立って…部屋を見上げる。
「……」
待望の明かりは、ちゃんとついていた。
ほぅっと息を吐く。
帰りつくべきところを与えられた、そんな喜び。
本当に嬉しかった。
私は、この安堵の分だけ、彼を疑い、そして信じたがっていたわけだ。
三階までを弾む足取りで上り、チャイムを押す。
……反応はなかった。
鍵を開けてくれる気配もない。
一抹の不安。
明かりだけついて、中には誰もいなかったりして。
いかにもありそうだが、そんな裏切られかたをした日には、しばらく立ち直れなくなりそうだ。
……いつの間にそんなに弱くなったのか、自分でも意外だが。
自分で鍵を開けて中に入る。
「ただいま。……秋雨」
恐る恐る呼ぶ。
しかし、返事は返らない。
部屋の中はしんとしている。
嘘寒い光が、部屋を煌々と照らすだけだ。
アルコールの匂いが充満しているのは同じ。
テーブルの上が散らかっているのも同じ。
秋雨のために買ってきた荷物を開けた形跡はある。
でも、彼はいない。
「どこに、いるの?」
半分の期待と半分足らずの絶望。
……もしかして。
一縷の望みをかけて、寝室をのぞく。
部屋の中でそれを見つけた私は、長い時間をかけて身体中の息を吐いた。
「……よかった」
秋雨はベッドの中でぐっすりと眠っていた。
寝室まで酒臭いということは、今日もかなり飲んだらしい。
アルコールのせいもあるのか、呼んでも起きないほど熟睡している。
明かりをつけても身動きすらしない。
ごめんなさい。
心の中で彼に謝る。
信じていなかったことに対してではなく、勝手な期待を押しつけたことに対して。
私がひとりで一喜一憂しているだけで、出ていくも行かないも秋雨の自由なのだ。
自分でもそう言ったのに。
……信じてすらいない相手の行動に、私はどんな夢を見ようとしていたというのだろう。
私は秋雨を信じてなんかない。
彼に限らず、だれかを信用しようなんて思ってない。
信用なんかできない。
だれも、なにも。
人なんて儚い。
愛しても、いつ裏切るかわからない。
慈しんでも、いつ死んでしまうかわからない。
たとえ、どれほど愛していても、どれほど慈しんでいても、そのときが来れば、捧げられた想いになど、見向きもしないで、消えてしまう。
ペットまでもがそうだ。
恋の季節になると、飼い主を裏切り、伴侶とともに消えていく。
裏切らないのは植物だけだ。
愛情を注いでも応えるだけで、返してはくれないけど。
でも、決して裏切らない。
……淋しい人間が観葉植物を好むというのは、本当かもしれない。
だから私は、ドラセナを買い、ベンジャミンを買い、パキラを買い、部屋を緑で埋めていったのだろうか。
そうせずにいられなかったのだろうか。
傷つくのが怖くて、だれも心に入れることができないくせに、ひとりでいるのは……なにも愛さずにいるのは、淋しすぎて。
『……大丈夫なの? こんな男を家に入れて。また傷ついたらどうするの? 致命傷になるくらい深い傷を負ったら。今ならまだ、追い出せるわ。日常の生活に戻ることができる』
“加藤蒔子”らしい台詞。
しかし、私は、耳元で囁かれる警告にあえて首を振った。
もう、遅すぎる。
……今、彼を失うことはできない。
あの深遠な瞳に魅入られた今、彼を失うことは。
傷ついたら……。
いや、日常の平穏ではなく彼を選ぶならば、その言葉は仮定ではすまない。
確実に未来の傷を言い当てることができる。
その時は……。
「サボテンでも、買うわ」
今は、ここにいてくれるだけで十分。
それ以上は望まない。
それ以上は望めない。
私は、自分の中の嵐を深呼吸で抑えつけ、眼鏡を外してベッドサイドにおいた。
そして秋雨の寝顔を見つめる。
本当にそこにいるのか確認するように、綺麗な横顔を。
大丈夫。大丈夫。
気を取り直して、彼に布団を着せかけようとした私は、彼の左手を見てふっと手を止めた。
私を思うままに翻弄する彼の冷たい手のひら。
そのしなやかな指に銀色に光るものを見つけたのだ。
小指に光るリング。
「………。」
彼の綺麗な指には、指輪も案外似合う。
明かりを消して寝室からでると、両手で頬を軽く叩いて気分を入れ換えた。
「よしっ」
自分に発破をかける。
まずは、ありあわせのもので軽い夕食をとり、私は雑然としてしまった部屋の片付けに取り掛かった。
あるべきものを、あるべきところへ。
ひとり暮し歴の長い私だもの、負担になるようなことではない。
すべてはあっという間に秩序の中に組み込まれていく。
最後に観葉植物の手入れだ。
棚の脇にあるひとりで暮らし始めて以来の付き合いのベンジャミンや、冷蔵庫の上のテーブル椰子、棚の上のアシアンダム、パキラ、ドラセナ、他にハーブがいくつか。
可愛がってきた植物達にひとつずつご機嫌を聞く。
水をあげるのは朝だが、夜じゃないとゆっくり眺めたりする時間がない。
すべてのことをできるだけ静かに終えると、私はシャワーを浴びてパジャマに着替えた。
片付いた部屋を見回して……そして、出かかった欠伸を噛み殺す。
いつもなら、テレビの嘘寒い声だけを頼りに、夜が更けるのを待っている時間だが、今日はその必要はないようだ。
布団に入る前に、もう一度秋雨の寝顔を見る。
……静かな寝顔。
見ているのはどんな夢?
夢におびえない人は、悪人じゃない。
だから、秋雨は……。
なんてね。
希望的観測かしら。
小さく笑う。
眠っている秋雨を起こさないように、私は静かにベッドに身体を横たえた。