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悲しみの卵  作者: 朔良
第一章 あきさめ
4/32

妄想

「癖なの。してないと落ち着かないから……」

「……ふうん」

 

 自分が聞いたくせに、秋雨(しゅうう)は興味がなさそうに鼻を鳴らした。

 

「で、何時に出るわけ?」

「?」

「俺も一緒に出るからさ。そうしないと困るだろ?」

 

 そうしないと困ったのは、誰?

 彼の背中に見え隠れする、たくさんの女の影。

 

「……そのことなんだけどね」

 

 私は化粧をする手を止めず、何気ない調子で言った。

 

「あなたの服、まだ乾いてないの。だから、もうしばらくここにいたら?」

「………」

 

 秋雨は、黙ったまま答えない。

 彼のような男が、私の側にとどまる気になるはずがない。

 そう思いながらも、

 

「なんだったら、ずっといてもいいわ。あなたさえよかったら」

 

 私は思い切って彼を見た。

 意外なことに、秋雨も食い入るように私を見ていた。

 長い間をおいて、彼が、

 

「……あんた、変わりもんだね」

 

 ぽつんと呟く。

 肯定でも否定でもない答え。

 左手首の時計をぎゅっと握る。

 

「……」

 

 私は諦めて立ち上がった。

 カーテンを開ける。

 雨は上がっていた。

 晴天は望めそうもないが、雲は高い位置で渦巻いている。

 明るくなった部屋をぐるりと見回す。

 目的の物はすぐに見つかった。

 ベッドのクールピンクのシーツの上に乗っている眼鏡。

 眼鏡をかければ、それだけで気分が引き締まる。

 いつもの加藤蒔子の出来上がりだ。

 気を取り直してショルダーバックを肩にかける。

 

「……無理にとは言わない。好きにすればいいわ」

 

 ローボードの上に鍵を置く。

 

「ここに、鍵おいてくわね。出ていくなら、鍵を閉めて郵便受けに入れといて。朝食も出せなくて悪かったわ、代わりに、冷蔵庫のもの好きに食べていいから。……じゃあね」

「待てよっ」

「なに?」

「……そんなに信用しないほうがいいぜ。俺のことなんかなんにも知らねーくせに。……ひとりで部屋に残して、俺があんたの物持ち出して逃げたらどうすんだよ」

「そうね。そんなこともあるかもね」

 

 私は、おかしくなって、くすりと笑った。

 だって、たくらんでいる人は、そんなこといわないはず。

 

「そうしたかったら、すればいいわ」

 

 私はしかめっ面の秋雨に手を振って、クリーニングに出してみることにしたワンピースの入った紙袋を抱え、部屋を出た。

 まだ濡れた歩道をいつもより軽い足取りで駅に向かう。

 しっとりした朝の空気と雨上がり特有の匂いが気持ちいい。

 鼻唄でも歌いたいような、妙にさばさばした気分だった。

 私を玩具くらいにしか思っていない年下の男のしかめっ面が見れたのが、無性に嬉しかったのだ。

 

 ……秋雨と名付けたあの男のことを信用したわけではない。

 一番信用に値しないタイプの男だ。

 

 でも、私はそうしたかった。

 あの部屋には私のすべてがある。通帳や印鑑さえもそのままだ。

 最悪、一文無しで、財布の中身が全財産になってしまうかもしれない。

 それでもよかった。いくらなんでも、部屋ごと持っていくことはできないだろうし、合鍵は持っているから、最低寝床には不自由しない。

 通帳や印鑑がなくなっていたら、それはその時考えればいいことだ。

 いくらでも対処の方法はある。

 それよりも、こうしたいという自分の気持ちが大切に思えた。

 

 だから、私はそうした。

 初めて覚えた悪いことを楽しんでいる子どもみたいな気分で。



04 

 会社には定刻通りに着いた。

 口の中だけでもごもごと挨拶をし、タイムカードを押して席に着く。

 

 机上の書類の束を見て、軽くため息。

 有給休暇を使って他人の結婚式に行った次の日がこれじゃ、やってらんない。

 代わりにできる人がいない類いの仕事ではないはずだが、最近入社したお嬢さんがたは、仕事を覚えようという気がないらしい。

 ひとつづつやっていくほかあるまい。

 書類に目を通していたら、無責任なひそひそ話が耳を打った。

 

「加藤主任、案外元気じゃない?」

「そう? 空元気でしょ? だいたい、杉下さん……もう、葛城さんになったっけ? も、よくやるよね。いくら上司とはいえ、ダンナの元恋人を結婚式に呼ぶなんてさぁ」

「ねえ。……中途入社ったって、知らなかったじゃすまないわよ」

「怖いよぉ。結婚式で交わす笑顔の下の憎悪っなんつって。……昼メロじゃないってね」

「あるある。平気そうな顔してる分さあ」

「マジメで面白味がない分、執念深そうだもんねえ」

「だから、別れちゃったんじゃない?」

「図星だったりして」

「あの葛城係長と主任が付き合ってたって聞いたとき、ありえないと思ったもんね」

「ねーっ」

 

 書類をチェックしているふりをして、くちさがないお喋りスズメたちを黙殺する。

 心の中では溜息をひとつ。

 せっかく、忘れてたのに……。

 浮上した気分が台無しだ。

 だいたい、あんな大きな声で内緒話ができるとでも思っているのだろうか。

 なにを言っても構わないが、せめて本人の耳に届かないところで話すくらいの配慮があってもよさそうなものだ。

 

 それでも、不機嫌にはならなかったのは、結婚式や陰口など男を拾ったことに比べれば些細に思えたからだ。

 あんな魅惑的な男を連れ帰り、一夜を過ごしたことに比べれば、日常の些事などすべて色を無くしてしまう。

 内緒話を耳からシャットアウトして、私はいつも通りにてきぱきと仕事をこなした。

 

 仕事の途中でも、秋雨のことは頭をちらついた。

 もしかしたら、まだ部屋にいるかもしれない。

 ……私の帰りを待っててくれるかもしれない。

 どんな理由でもいい。

 いてくれるなら。

 私を気に入ったからとか、そんな甘い理由じゃなくても、次の寝床を見つけるのは面倒だからって。

 そうじゃないなら、例えば……。

 

 繰り返すごとにリアルになっていく妄想。

 今まではひとりきり過ごしてきた部屋で、男が私の帰りを待っているかもしれないという考えは、かなり私の心を弾ませた。

 

「めずらしー。加藤主任、もう帰ってるよ?」

「やっぱ、空元気だったんだよぉ」

 

 と言う声などどこ吹く風、私は残業は止めにして定刻通りに退社した。

 帰る途中で、駅ビルに寄り道する。

 私の想像の中では既に部屋で待っていることが確定している秋雨のために、手頃な服や下着類、生活用品を選ぶと、浮き浮きした気分のまま家路を急いだ。

 

 高揚が途切れたのは、最寄の駅を出てからだった。

 秋の日が落ちるのは驚くほど早い。

 甘く染められた黄昏を抜け、街燈が自己主張を始める路地を急ぐ。

 マンションが近くなるにつれ、私は憂鬱な気分に襲われた。

 

 帰りたくない。

 帰りついて、マンションの自分の部屋を見たとき、そこに明かりがついてなかったら……。

 私は、どうすればいいんだろう。

 ……なんで夢みたいなこと考えたりしたんだろう。

 秋雨みたいな男が私の元にとどまるはずがないことくらい、最初から知っていたのに。

 物色されひっくり返された部屋の様子の方が、私を待つ秋雨の姿よりも、容易に想像できるではないか。

 そう考え始めると同時に、手に持った袋の中身が石塊のように思え、足取りも重くなる。

 霧のような不安が私を包み、外側から心を蝕んでゆく。

 湿気の多い場所に置いた砂糖菓子が次第に浸食され、ぐずぐずに溶けていくように。

 

 きっと、彼は今頃、違う部屋で違う女をあの素晴らしく色っぽい目で見つめているのだ。

 新たに違う名前をつけさせて、その女と夜を過ごすのだ。

 私には、その艶やかな眼差しはおろか、架空の女の愉悦の表情さえ目に見えるようだった。

 

 そんなの、イヤっ!


 ぶんぶんと強く頭を振って、嫉妬まみれの情けない妄想を振り払う。

 それでも喉から込み上げる苦味。

 胸が焦げそうな気がした。

 べとついた醜い感情が胸の中を占め、息苦しささえ感じる。

 先刻までの弾んだ気持ちがまるで嘘のように、陰鬱な考えが次から次に脳裏を横切っていくのを止めようもない。

 最悪の場合の衝撃を和らげるために、自虐的な想像を繰り返しながら、残りの距離をうつむいて歩く。

 ようやくマンションの前にたどり着いた私が、顔を上げて自分の部屋を確かめるのには、それでも、少し時間が必要だった。

 痛いほど拳を握り、思い切って顔を上げる。

 

 明かりは……。

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