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悲しみの卵  作者: 朔良
第三章 たまご
23/32

卵の中

 平手の衝撃を覚悟する。

 

 その時、

 

「八つ当たりすんなよ。こいつは関係ねーだろ」

 

 秋雨(しゅうう)が冷たく言い放った。

 彼女は振り下ろさんばかりだった腕を止め、怨嗟のこもった視線で秋雨を睨んだ。

 

「それに、あれは俺とお前じゃなくて、俺と恵の問題だ」

 

 一言で彼女を切り捨てる。

 

「カツミ…」

「…恵が死のうが生きようが、今更知ったことじゃない。気に入らなきゃどこにでも訴えろ」

 

 そして、私の肩にとんと手を置き、

 

「帰ろうぜ」

 

 あんまりな言葉に茫然としていた彼女が低く唸った。

 

「殺してやる……」

 

 本気の響き。

 

「お前にできればな」

 

 嘲弄口調。

 

「本当に殺してやるからッ!」

「やめなって、江美子! 落ち着いてよっ」

「お客さま……」

 

 飛びかからんばかりの彼女を、店員と友人が必死でなだめる。

 

「……」

 

 私は斜め上を振り返り、秋雨を見上げた。

 平然とした表情を浮かべる綺麗な顔の中で……唯一その心を映す深い瞳を。

 秋雨は私の視線から逃れるように横を向き、

 

「蒔子さん、帰るんだろ?」

 

 何事もなかったかのように促した。

 

「え、ええ」

 

 秋雨の言うとおりだ。

 とりあえずこの場から離れたほうがいい。

 

「待ちなさいよ、カツミ! 逃げる気なの? 卑怯者! 一生呪ってやるからッ!」

 

 呪詛の叫びを背に受けながら、秋雨は堂々とした態度で喫茶店の扉を開けた。

 

 店を出ると外は変わらずの雨。

 世の中のすべてを呪うような雨。

 

 すっかり暮れた空は、夜の闇のせいだけではなく、暗くどんよりと垂れこめている。

 ネオン瞬く繁華街の喧噪を遠く眺めながら、私たちは無言でタクシーに乗った。

 不景気そうな顔のドライバーは、幸いにも至極無愛想だった。

 私たちも、行く先を告げたきり、一言も発せずにタクシーに揺られる。

 ライトに照らし出される細い針に似た雨が、責めるように車窓を打つのを聞きながら。

 

 外界から隔離されてた卵の中……私の部屋に帰ってからも、秋雨は一言も口をきかなかった。

 いつものように壁に寄りかかって無言でクラスを傾ける。

 どんどん酒量が増えるのを見ながら、私は何も言えずにいた。

 暗い陰の落ちる綺麗な横顔、いつもにもまして厭世的な表情。

 ……見ているだけでも辛くなって、言葉をなくしてしまう。

 

 がしゃん。

 

 突然、秋雨がテーブルにグラスを叩きつけた。

 

「……寝る」

 

 ぼそりと呟き、頽然として壁に寄りかかりながら、秋雨は寝室に消えた。

 

 後ろ姿を見送る。

 私はたまらない気持ちになって、彼の後を追った。

 ベッドにもぐりこんだ彼の傍らに立つ。

 

「秋雨……」

 

 秋雨はまだ起きていた。

 

「……んだよ」

 

 獣が唸るような声。

 

「……一緒に、寝てもいい?」

 

 彼は一瞬、ぞっとするほど冷たい目で私を見た。

 酔いなどどこかに吹き飛んだ、鋭い眼差しで、蔑むように。

 

「……いいぜ、おいでよ、蒔子さん」

 

 自嘲と嫌悪に彩られた尖った声音。

 

「違うわ」

 

 私は、祈るような気持ちで秋雨に微笑みかけた。

 

「抱いて欲しいんじゃない。一緒に眠りたいだけ。……あなたが寒そうだから。私も、ひとりじゃ寒いから、一緒に眠りたいの」

 

 そんなに傷つかないで。

 さっきのことは忘れてしまって。

 ここは卵の中で、私たちは誰でもない未分化な塊。

 あなたを責めるものはないから。

 どうか振り払わないで。

 あなたに手を差し伸べさせて。

 私にも、まだ誰かを救う手があるのだと、信じさせて。

 

 精一杯の思いを込めて見つめる。

 ふっと、秋雨の瞳の激しさが緩んだ。

 右手でまぶたを押さえる彼に、

 

「一緒に、寝よう」

 

 私はもう一度言った。

 秋雨は、当惑して、私をまじまじと見た。

 迷子の男の子みたいに途方に暮れて。

 

「ね?」

「………いいよ」

 

 そっぽを向いて、秋雨は囁くように低く答えた。

 

 私はにっこり笑ってベッドに入り、彼に寄り添った。

 酩酊状態にあってさえ、冷たい身体に。

 少しでも、この凍えた心を暖められることを祈りながら。

 寝室にまで微かに響く雨音。

 子守歌のようなそれに包まれながら、私は深い眠りに落ちていった……。

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