嫌な男
彼は雨に濡れて火の消えた煙草を投げ捨て、ゆっくりとした動作で私の手を取った。
雨のせいだけではなく、ぞっとするほど冷たい手。
そのまま私の手の甲に唇を押し当てる。
冷たい唇が肌に触れた途端、私の身体に電流が走った。
なんて、平凡な、呆れるくらい月並みな言い回し。
でも、本当にそうだった。
感電したときと同じ感覚。
思わずさっと手を引く。
うろたえた私を見て、彼はくくっと喉を鳴らして笑った。
「カワイイね、あんた」
イヤな男っ!
すっかりプライドを傷つけられて踝を返した私の腕を、彼の冷たい手がつかむ。
「待ってよ」
「放してっ。失礼ね」
「俺を拾ってくれんじゃないの? どうせなら、あんたがいい」
私は、唇を曲げたまま、渋々振り向いた。
ぞくぞくするほど色気のある昏い瞳が私を射る。
それとともに、抑えつけたはずの欲望が、再び頭をもたげた。
正直に言ってしまおう。
彼を見た時から、私は欲情していた。
この男と寝たい。
それ以外のことが考えられなくなっていた。
「無理にとはいわない……けどさ」
どうする?
濡れた髪をかきあげ、彼が視線で決断を促す。
私が断れば、彼は次の女に声をかけるだろう。
それでもダメなら、また次に通りかかる女に。
今夜の宿を得るためだけにきっと何人もの女に声をかける。
それははっきりしている。
許せない気がした。
彼を誰にも渡したくなかった。
「…あんたなんて呼ばないで。名前があるわ」
精一杯の虚勢。
「なんて呼ばれたいわけ?」
「……蒔子」
頼りなげに雨音に吸い込まれる私の声。
「あなたは? なんて呼べば……」
「お好きなように」
男の呼び名を決めるなんてこと、普段の私にはとてもできない。
でも今は違う。
雨のヴェールが辺りを覆い私たちはふたりきり。
そして彼は、私が拾った男。
「じゃ、行きましょ。しゅう……秋雨」
「驟雨?」
「違うわ。そうじゃなくて、秋の雨」
「ヘンな名前」
「いいでしょ。あなたが好きに呼べっていったんだから」
私は挑戦的に言った。
一拍おいて、彼は肩を竦めながらうなずいた。
02
私が住んでいるのは、郊外にあるマンションの一室だ。
ひとり暮らしを始めて以来、一度も転居したことがない。
住み始めたときは築五年だったこのマンションも今では築十三年、そろそろリフォームが必要かもしれない。
その古ぼけたマンションの三階、2DKの一室が私の部屋だ。
玄関から入って、左に浴室とトイレ、右側の壁の向こうが寝室。
寝室には奥にあるキッチンとダイニングにつながる一室から入ることができる。
あとは小さなベランダ。
これが私の大事なお城のすべてだ。
最寄りの駅から歩いて二十分。
駅の近くにはスーパーも歓楽街もある。
マンションの周辺は閑静さが取り柄で、住み心地はまあまあといったところだ。
タクシーでマンションの前まで乗りつける。
ずぶ濡れの私たちを見て、運転手は露骨に厭な顔をしたが、長距離ということでなんとか乗せてもらった。
タクシーを使うことなど年に何回もないが、今日は電車に揺られる気にはなれなかった。
鍵を開けて、秋雨と名付けた男を部屋の中に招き入れる。
「濡れたまま入るのはやめてっ。タオルあげるからっ!」
秋雨は私の制止など意にも介さず、雨のしずくをぽたぽた滴らせてブルーグレイのカーペットを所々濃く染め変えながら、部屋の中に入っていった。
「ふうん」
ジーンズの後ろのポケットに親指を引っかけたまま、部屋中をぐるりと見回して、鼻を鳴らす。
「狭くてけち臭い部屋。片付きすぎててつまんねーの。おまけに観葉植物ばっかなんて、少女シュミ」
ひとしきり辛辣な批評をぶち上げる。
余計なお世話だ。
観葉植物が好きで何が悪い?
生活費を切り詰めて少しずつ自分好みに変えていった部屋をけなされて、私は少なからず不機嫌になった。
「こっちは?」
寝室のドアを開けようとする。
「そっちは寝室っ!」
「へえ」
「濡れたままで入らないでったらっ!」
秋雨は中には入らずに寝室をのぞき込み、
「ピンクの花柄か、やっぱ少女シュミだね。顔に似合わず」
「もうっ」
腹立ち紛れに、秋雨の背中にタオルを投げつける。
まったく、イヤな男だ。
「シャワーを浴びて。そのまま部屋の中に座ったら、許さないからっ」
「おーこわ。よっほど欲求が不満してんじゃねーの? 蒔子さん。イライラしてっと、オトコから逃げられるぜぇ」
「シャワーはあっちよっ!」
声を荒げてそれ以上のおしゃべりを封じ込める。
秋雨は肩をすくめて、浴室に向かった。
まったく、とんでもない男を拾ってしまったものだ。
魔が差したとしか思えない。
秋雨がシャワーを浴びている間に、私は濡れた服を着替え髪を拭った。
ついでに、バッグから取り出した眼鏡をかけ、雨に濡れてぐちゃぐちゃになったシフォンのワンピースを検分する。
クリーニングでどうにかなるものかしら。
思わずため息をつく。
こうやって駄目になった服を眺めていてもしょうがない。
予期せぬ事態に気持ちが高ぶっているのか、私は、いつにない切り替えの早さで動き始めた。
今のうちに……と、秋雨が洗面所兼脱衣所に脱ぎ捨てた服を洗濯機に放り込み、濡れたカーペットを乾いた雑巾で手早く拭く。
そうしている間に、水音がやんだ。
秋雨が、風呂場から顔をのぞかせる。
引き締まった痩躯を見て、心臓が跳ね上がる。
目があうと秋雨はにやりと笑った。
「働きもんだね。蒔子さん」
揶揄するような口調。
どうして、こんな調子でしかしゃべれないんだろう?
綺麗な顔をしている分、性格と悪口で帳尻を合わせようとしているに違いない。
私は気にせずに、あらかじめ用意しておいたガウンを示した。
「悪いけど、男ものの服なんてないから、それで我慢して」
何かの折りにもらってから、一度も袖を通したことがないものだ。
2DKのお城にナイトガウンもなにもあったものじゃない。
一言あるかと思ったが、秋雨は黙ってガウンを取った。
そのまま羽織る。
「くくっ」
堪え切れずに笑う。
女ものSサイズのガウンは、背の高い彼には短すぎる。
「笑うな」
仏頂面で秋雨。
「ごめん」
「着ろって言ったの、あんただろ」
軽く私を睨んで、肩をすくめ、心底残念そうに、
「蒔子さんに、男っ気がなくて残念だよ、まったくさ」
「ごめんってば。……私もシャワー浴びるわ。好きにしてていいけど、あまり散らかさないで」
釘を刺して、私は、着替えを手に洗面所を兼ねた脱衣所に入った。
まずは眼鏡、そして服、ひっつめ髪を解いてから、最後に時計をはずして浴室に入りシャワーのコックをひねる。
熱めのシャワーを浴びながら、私はほうっと息を吐いた。
やっと人心地がついた。
それにしても…。
なんであんな男を拾う気になったのか。
疑問が心を横切ったが、答えなんか知りたくもなかったから、深く考えるのは止めにする。
シャワーを止めて、着換えと時計を身に付ける。
頭にタオルを巻いたまま脱衣所のカーテンを引くと、部屋の明かりが消えていた。