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悲しみの卵  作者: 朔良
第二章 ひいらぎ
18/32

二通の手紙 1

06

 それから。

 私は、死に焦がれることをやめた。

 自殺なんて、二度としない。死んでもなんにもならない。

 たとえ後を追っても、柊は待っていてはくれない。

 憎まれているのならまだいい。

 罵られたとしても、なにか言ってくれるのなら。

 でも、私の存在など忘れていたら?

 素知らぬ笑顔で「君は誰?」と誰何されたら?

 私は地の底ですら行く先を失ってしまう。

 柊を失った悲しみをさえ凌駕する絶望。

 心のやわらかな部分に死に到る傷を負った私は、現実を遠くに眺め、病院のベッドで末期の患者のように日々を過ごした。


 何度も夢を見たのはこのころだ。

 柊の笑顔が見られたというだけで痛いほど切なくなる“幸せな夢”に、何度も何度も殺され続けたのは。

 身体の傷が癒えても、退院はなかなか許可されなかった。

 自殺か栄養失調による再入院の可能性の高さに、主治医が許可を渋ったのだ。

 現実を受け入れようとはしないベッドの上の私を姿を見れば、懸念も当然と言わざるを得ないだろう。

 夢と現の狭間をたゆとうて二週間。

 

「お願い、一口でもいいから食べてちょうだい、蒔子。もう自殺の理由なんて聞かないから。せっかく助かったのよ、二度と死のうなんてしないで」

 

 心労で私よりも頬のこけた母に泣いて縋られた。

 

 いつまでも夢に逃げ込んでいるわけにはいかない。

 生きるか死ぬか。それを決めるときだった。

 

 ……死ぬことはできない。

 真実を確かめるなんて恐ろしいこと、私には無理だ。

 それならば、柊のいない世界で生きることを選ぶしかなかった。

 母に促されるままに食事を取ることで、私は選択を決定的なものにした。

 心は死んでも身体は生きているのだ。残念なことに。

 

 食事を取り始めたことで、病院側の対応が変わった。

 ようやく退院を許された私は実家に戻って生活を始めた。

 それまで借りていたアパートはとうに引き払われていたし、戻る気にもなれなかった。

 手首の包帯が取れるのを待って大学に復学する。

 腫れ物に触るように扱われたのは最初だけで、私はあっけなく平凡な日常に飲み込まれていった。

 学校側の厄介払いという名の温情と友人のノートに縋りながら規定の単位数をクリアして卒業し、何の希望も夢も持っていなかったのが良かったのか、学生課の事務員に勧められるままに面接を受けた無数の会社から郵送されてきたたくさんの不採用通知の中に紛れ込んでいた内定を大事に握りしめて、就職まですることができた。

 いつしか仕事がルーチンに変わり、通勤の不便さに辟易して家を出、再び一人暮らしを始めるころには、私の中から柊の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。

 眠るときも時計を外すことができなくなった以外には、何の障りも残さずに。

 

 そうやって私は柊を忘れた。

 彼に関する記憶を白く硬い殻で幾重にも包み込み、死んでしまった私の心と一緒に意識の淵の冷たい水底に深く沈めて。

 柊の存在自体を無かったものとして自分を欺いた。 

 人間とは便利なものだ。便利で、薄情で、身勝手なものだ。

 自分の都合の悪いことは忘れられるようになっている。

 ……柊の記憶を抱えたまま生きていくのは、その時の私には難しすぎた。

 就職と転居という環境の変化が、過去を切り捨てるのを助けてくれた。

 

 それから…、私は一人きりで無味乾燥な日々を生きてきた。

 傷も記憶も封印して、心の底に沈む白い殻に包まれた何かには、決して触れないように細心の注意を払って。

 …いや、泡のような恋に身をゆだねようとしたことがなかったわけではない。

 でもそれは所詮無理な話だ。

 愛することも信じることも出来ない欠陥品が、誰かと深い関わりを持てるはずがない。

 だから私は、一人きりの孤独なお城を観葉植物と自己愛で埋めて、さみしくなどないと虚勢を張って生きていくしかなかった。

 これまでも、これからも、ずっとずっと。

 自分で選んだとはいえ、そのあまりのわびしさに唇をかみ締め、膝を抱える。

 裸の膝に紙片の当たる感触。

 

「……?」

 

 手紙……。

  

 これが送られてきた日のことを、今ならはっきりと思い出すことができる。

 実家から転送されてきた封書の裏に記された、知らないはずの不吉な名前。

 普段なら知らない相手からの手紙など、ダイレクトメールと一緒に捨ててしまっただろう。

 だけどその手紙だけはどうしても捨てることが出来ず、持て余した挙句私は、これから先使う可能性のない香水の箱に押し込んだ。

 障らずやり過ごすために、見えない場所に祟り神を封じ込め、何食わぬ顔をして忘れて生きてきた。

 

 褪色した封書をじっと見つめる。

 早川純朗(はやかわすみお)

 記されているのは二度と見聞きしたくないと思っていたその名前。

 

 手を伸ばして……、一瞬躊躇する。

 

 息苦しくなるほど躊躇った末、私は結局、封筒に手をかけた。

 どうせなら、今がいい。

 もう十分自分の醜さや身勝手さは思い出した。

 記されているのがどれだけひどい糾弾でも、今なら甘んじて受け入れることができるだろう。

 ペーパーナイフも使わず、そのまま封を引きちぎる。

 

 ※


 この手紙をあなたに渡すのが、こんなに遅くなったこと詫びる。

 しかし、茅島の自殺直後の君にこれを渡せば、あなたが再び自殺しそうな気がして渡せなかった。

 ……いや、嘘をつくのはやめよう。

 私は、茅島の心に近づけたあなたに嫉妬していた。

 彼に最後の手紙を託されたのが、唯一無二の親友のはずの私ではなく、あなただったことが許せなかったのだ。どうしても。

 いくら謝罪してもすまされることではないとわかってるし、許されたいとも思っていない。

 しかし……同封の手紙を読んで、茅島の死が彼の縁者になにをもたらしたのか知りたくなったら、いつでも、連絡してほしい。

 それしか、私があなたに対してできる償いはないと思う。

                          速川


 ※

 

 硬質な文字で綴られた淡白な文章。

 

 ……なに、これ。どういうこと?

 

 訝しりながら、同封されていた色の違う便箋を開くと、そこには。

 ……忘れようもないその文字。細く優しい…。

 ぎゅっと胸が締めつけられる。

 一度、きつく瞼を閉じる。

 すぐに目を開けると、私は、恐る恐る文字を追った。

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