遺書
面識はあった。いつだったか、柊が、彼のことを親友だと紹介してくれたのを覚えていたから。
しかし、私を死の淵から連れ戻したのは、何の用があったのかわざわざ部屋まで訪ねてきた彼だという事実を教えられた後では、柊の親友だということを差し引いても、到底いい顔のできる相手ではなかった。
もとより、現実の世界には生きていない私に、お愛想笑いができるはずもない。
彼もそれを望んではいないようだった。
奇妙に明度だけが高い病室で、食事を取らない事への戒めとして点滴を受けている私の青白い顔をしばし凝視した後、速川純朗は無言で便箋を差し出した。
迷った末受け取る。
自由な片手で不器用に便箋を開いた私は、思わず目を見張った。
柊の字だ。
細い優しい書体。
見間違えるはずがない。
速川…さんの顔を見る。
厳しい視線に促されるまま、私は文字を目で追った。
嘘を重ねながら生きていくのに疲れました。
自分の中に生きていたいと思うほどのものもないのに、愛想笑いを浮かべ続ける“茅島柊”と言う男には、吐き気がします。
すみません、父さん、母さん。
ごめん、速川。約束はやっぱり守れない。
だれかが悪いのではなくて、自分が弱いだけなのです。安易な道を選ぶことを許してください。
なぜ、今になってまで、その一言一句をはっきりと思い浮かべることができるのだろう。
署名すらない、短すぎる別れの手紙。
ぎゅっと瞼を閉じた。
深い疲れがゆっくりと身体に浸透していく。
「加藤さん……」
名を呼ばれて、彼の存在を思い出した。
視線を巡らすと、彼は紙片を手に身を起こすところだった。
渡された柊の遺書が手に無い。
知らぬ間に落としてしまっていたらしい。
「茅島が死んだのは、君のせいじゃない」
きりりと心臓が痛む。
「……えっ?」
「………君のせいで、茅島が死んだわけじゃない」
殺したくなるくらい冷静な口調。
炙られたように頬が熱くなった。
「これを読んだのなら、わかるでしょう」
「……」
抑えようもなく身体が震えた。
唇を噛もうにも、歯の根が合わない。
……柊!
本当に、そうなの? 柊……。
認めたくなかった。否定したかった。
私が柊にとって取るに足らない存在だなんて、……そんなはず、ない。
「でも、電話…が」
震える声で、必死に言い募る。
「電話? ………ああ、最初私に連絡が取れなかったのでね、そちらにかけたんでしょう。私と連絡が付いたから、その後はかかってこなかったでしょう?」
「……」
「茅嶋を救うことが出来なくって申し訳なかった。あなたにそれを謝りたくて来たんです」
「…私……」
「あいつの自殺を止められなかったのは私の責任だ。あなたが気に病むことはない。…現に、茅嶋の最後の手紙にもあなたを責めるような言葉はないでしょう?」
「違うわ! 私が…私が、柊を…」
「いえ、あなたは関係ありません」
断罪にも似たその言葉。
速川純朗の言葉に反論する術を私は持たなかった。
……柊の手紙に私の名前はない。
別れの言葉ももらえなかった人間が今更何を言えるというのか。
瞬間、強烈な怒りが胸を焦がした。
あまりも理不尽な、身勝手すぎる怒り。
柊の裏切り者!
どうして私を。
大好きなのに、大切なのに、あなたのいない世界では生きていくことの意味すら見失うほどに。
愛してるのに、柊。
あなたに生きていて欲しかった。
傍に寄り添って憂いを消したかった。
それが出来ないのなら、せめてあなたの死に関わりたかった。
どこまでも身勝手な憤りが胸を焦がす。
でも、最初にあなたの手を振りほどいたのは私……!
自分でも収拾がつかないほど錯綜する意識。
はっきりしているのはひとつだけだ。
柊が死んだのは、私のせいではない。
彼にとって私の存在はその他大勢のうちのひとつでしかなかったのに、私の言葉などで彼が死を選ぶはずがない。
私が柊を殺したなんて、傲りに過ぎないのだ。
“自分は柊の側に寄り添うことを許されていた”
その確信さえ今は曖昧なものに溶ける。
あれも彼流の優しさ……、彼の言う、嘘のひとつだったかもしれないのだ。
どうして……柊。
なぜ、死を選んだの?
なにが、死を選ばざるを得ないほど、あなたを苦しめたの?
あなたの優しさは、全部嘘なの?
くしゃりと顔を崩す大好きな笑顔も、なにもかも?
あなたにとっては、だれの存在も意味がなかったの?
……あなたにとって、私は何だったの?
疑問符の羅列。
すべての答えを持ったまま、彼は黄泉路へと旅立ってしまった。
「蒔子っ!」
母の声。
肩を揺すられてはっとした。
「蒔子、どうしたの?」
私、醜態を……。
しかし、速川純朗の姿は、既に病室から消えていた。
「大丈夫? こんなに震えて……」
「………」
どうすればいいのかわからなかった。
血を分けた親に縋ることすらできず、私はただ震え続けた……。