柊 2
05
その日も同じだった。
友人たちとの待ち合わせ場所に向かう途中で不在着信に気付く。
着信の番号をじっと見つめた後、私は携帯を耳にあてた。
メールではなく留守番電話に伝言が残されていた。
伝言の主は、長い沈黙の後、
『……茅嶋です。マキちゃん、あの……。また電話します』
久しぶりに聞く柊の声に心が動かなかったといったら嘘になる。
すぐにかけなおすことだってできた。
でも私は、そのまま約束の場所に向かった。
連絡するのはいつでもできると思ったし、多少意地悪な気持ちがあったことは否定できない。
そして……。
明け方部屋に戻った私に、それ、を告げる役目をしたのもまた、留守番電話だった。
携帯はわざとマナーモードにしてあった。
部屋に帰るまで、バッグから出すことすらしなかった。
確認すれば、柊に電話してしまうと分かっていたから。
私は、もう少しだけ、自分をなだめるための時間が欲しかった。
その癖、部屋に帰るなり着替えるのももどかしく携帯を確認する。
着信が複数。
しかし柊ではない番号だ。
そして、残されたメッセージが一件。
見知らぬ相手からの着信をいぶかしみながら、伝言を再生した私はただ呆然とした。
だって、到底信じられる内容ではなかった。
誰かが私を騙そうとしていると思った。
柊が死ぬなんて……自殺するなんて、あっていいはずがない。
慌てて、病院に駆けつける。
最悪の出来事を自分で確認した瞬間、私は世界にひびが入る音を聞いた。
涙さえ出てこなかった。
ただ身体が重く、どこからどこまでが現実かわからなかった。
彼の死を確認した後、自分がどうやってアパートの部屋に戻ったのか、少しも覚えていない。
私はただ、アパートの部屋で膝を抱えて座り、抜け殻のようになって、ひたすら自分を責め続けた。
私が悪いのだ。
柊を助けたいと思っていたのに……結局、傷つけてしまった!
しかも、自分のエゴで。
……あの一言を口走らせた原因がどこにあるのか、本当は自分ではわかっていた。
あの日。
柊と最後に会ったあの日の昼間。
私は、すっかり女子大生になってしまった高校の同級生と、昼下がりの学食で一緒にランチをつつく機会に久しぶりに恵まれた。
楽しそうに男友達の話をしていた彼女は、
『ふぅん。』
柊と私はお互いを信じ思いやってるのだ力説する私の声を遮るように、鼻を鳴らした。
『でも…』
髪を掻き揚げる度に香る、甘い香水。
『それってさ、恋人ってゆーより、親子っぽくない? なーんか、甘えてるよその男。蒔子のことハハオヤかなんかと間違ってたりして』
『そんなことないよ』
思わず声が大きくなる。
『ジョーダンだよ、ジョーダン。ムキなることないでしょ?』
両手を振って、彼女はそれを冗談として煙に巻いた。
でも、私にとっては、冗談で終わらせられる言葉ではなかった。
彼女の一言は、抜けない刺のように私の胸にいつまでも疼痛を残した。
柊が私をどう思っているか。
彼がそれを言葉にしたことはない。
私が柊から得たものは“マキちゃんの側にいるとほっとできる”それだけだ。
私は…。
安心したかった。
“柊は優しくない”と拗ねて見せて、彼から甘い言葉と愛されているという確証を得たかっただけなのだ。
そんなエゴのために、柊を傷つけてしまった。
そしてあの伝言。
聞いた時、すぐにかけなおしていれば…。
あの時ならまだ間に合ったかもしれないのに。
柊をとめることができたかもしれないのに。
ちゃんと向かい合って話をして、「傷つけてごめんなさい」と謝っていれば。
でも私は、柊に謝るチャンスを自分で踏みにじってしまった。
話していれば、彼を苛む陰りの原因を聞き、力になることだって出来たかもしれないのに。
全部全部、私が!!
狭い部屋に膝を抱えて閉じこもり、己の罪状を暴き、責め苛む日々。
気づいたら、ナイフを握っていた。
皮膚の下に透ける青白い血管を、うっとりとして見つめる。
これを切れば、死ねる。
……柊に謝りに行ける。
柊のいない世界では、生きていることに意味を見出せなかった。
ベッドの上でナイフを手首に当て、そのまま引いた。
ためらいもなく。
痛みはほんの一瞬だった。
焼かれたように熱くなった傷口から、重い液体が流れていく。
私の中に眠る罪の果実と同じ色をした液体が、とろとろと。
そして、体内から流れ出す罪の分、身体が軽くなっていく。
ベッドに横たわり、手首を下に垂らして心臓より傷口を低くする。
姑息な知識。
痛みより疲れに襲われ、私は意識の混沌に落ちていった。
果てのない空間。
限り無く白い暗闇。
どこまでも墜ち、そして昇って行く。
たくさんの何かと一緒に、どこかを目指して。
身体中を満たす至福。
今までなかったほど心は凪いでいる。
どこかへ、どこかへ。
名も知らぬ目的地を、ただひたすらに目指し、思いのままに進んで行く。
しかし、私は、“どこか”に辿り着く寸前に、蠢く触手に足をつかまれた。
声にならない悲鳴。
途端に浮力も引力も失い、突如現れたエアポケットに飲み込まれる。
他の何かから引き離され、私だけが。
そして、再び意識の混沌。
次に目が覚めたとき、私は見知らぬ部屋にいた。
なぜこんなところにいるのか訝しみながら、霞む目で、視界の範囲を緩慢に探る。
白い天井……薬の匂いと白衣で、そこが病院らしいことは理解する。
たくさんの顔が周りにあったが、識別できたのは、涙で歪んだ母のそれと唇を引き結んだ父のそれだけだった。
「どうしてこんなこと……っ」
「蒔子、この馬鹿者が!!」
「落ち着いてください。……普通、手首を切るときは、二、三度試しに手首に刃を当てたりして、小さなためらい傷ができるもんなんです。……蒔子さんにはそれもなかった。もう少し遅かったら助からなかったくらいの深い傷がひとつだけだ。よっぽど辛い思いをしてるんです。今は本人を責めるより……」
遠く掠れる現実の声。
私……死ねなかった?
……助かってよかったなんてとても思えなかった。
あのまま混沌の底に沈みたかった。
“どこか”に辿り着きたかった。
そこにはきっと彼がいる。
誰よりも大切な、柊が。
柊さえいれば、流刑の地でも、無明の荒野でも、永久に責め苦の続く地獄でも、私はそこに辿り着いたことを喜んだだろう。
悔しい。
もっと深く切ればよかった。アルコールでも飲めばよかった。いっそ頸動脈にすればよかった。
残るのは悔いばかり。
それからしばらくの間、私はいつ死んでもおかしくない状態だった。
察した母や病院の人間に見張られていて身動きが取れず、確実に死を選び取れる方法がわからなかったので生きていただけだ。
腰までの浅瀬でも溺れ死ぬ自信があった。
ひたすらに退院を待った。
その日を私の最後の日にするために。
そんな私の前に現れたのが、速川純朗だ。
年内はここまで。来年もよろしくお願いします。
だらだら更新ですみません^^;
最後までちゃんとUPしますので、ご容赦を。