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悲しみの卵  作者: 朔良
第二章 ひいらぎ
15/32

柊 1

 これは……。

 

 こちらにも開封した跡はない。

 宛名は加藤蒔子、差出人は……速川純朗(はやかわすみお)

 二度と見聞きしたくないと思っていたその名前。

 

 手がひどく震え、瓶と手紙を落としそうになる。

 どうしてこんなときに限って、これが……。

 逃げることは許さないと、謀ってる者がいるとしか思えない。

 公正で無慈悲な断罪を司る神か、精神を切り刻むための鋭いメスを持った、私の中の誰かが。

 醜い自分から逃げようとする私を糾弾しようとしている。

 

「………」

 

 無言で封書を見つめる。

 何が書いてあるのかに興味はある。

 だが、読めば、先刻は投げ出した残りの思い出も、連鎖してすべて意識に表出してくるだろう。

 私の気持ちなどはお構いなしで。

 それでも、やはり、開けなければならないのだろうか。

 ……長い間記憶の淵に沈めていたものを、今更引き上げてどうなるというのか。

 忘れるにはそれなりの理由があるはずなのに。

 

 とにかく。

 ……今は、この香りから逃れたい。

 

 私は、封書を空き箱の中に押し込んで、香水の瓶を開封した。

 強烈な芳香。

 これが本来の薫りなのか、しまいこんでいた間に変質したのかはわからないが、印象的な薫りが漂う。

 私は、明るいオリーブイエローの雫を無造作に振り散らした。

 部屋中を鮮やかな薫りが満たす。

 これで残り香が消える。

 ……女の残したもののうち五感の認識する範囲のものはすべて消えてしまうだろう。

 

 息をつくと、私は、封書はそのままにして寝室に戻った。

 秋雨(しゅうう)の声が聞きたかった。

 どんなに冷たくてもいいから、私に向けて発せられる言葉が欲しかった。

 “現実”に足を踏みとどめさせるなにかがないと、暗く深い淵からあふれる記憶に今にも捕らえられそうだった。

  

 でも。

 秋雨は眠っている。

 

 苦渋に満ちた寝顔。

 見ているのは悪い夢?

 だったら起こしたほうがいいのかしら。

 自らの願望も孕んだ甘い誘惑。

 起こせば、秋雨は不機嫌になるだろうけど、目が覚めれば少なくとも悪夢は終わる。

 悪い夢なんて現実にはならない。良い夢がそうならないのと同じように。

 それに、私は彼の声を聞くことができる。

 

「秋雨……」

 

 頬に手を伸ばす。

 指が触れる寸前。

 

「……さ…え」

 

 秋雨が溜め息のように声をもらした。

 

 ……目を覚ました様子はない。

 なにを呟いたのか、寝言の内容は聞き取れなかった。

 最後の音は僅かに聞こえたが、彼がなにを言いたかったのかはわからない。

 改めて彼の端正な顔を見つめた私は、表情が苦渋とは微妙に違うことに気づいた。

 

 これは悲しみだ。

 ……悲しすぎて、苦しい。そんな顔。

 

 悪夢は覚醒と同時に消える。

 目を覚まして、息をつくことが許される。

 それなら……悲しい夢は……?

 

「……」

 

 彼を起こすのはやめ、私は寝室を出た。

 

 ……なに“さえ”どうしていれば?

 そうすれば、あなたの願いは叶ったの?

 それは現実で……? それとも夢でしか……。

 

 夢。

 過去の記憶を管理し、罪人に咎を贖わせ、現実には叶わぬ願いを形することができる、無意識に操られた幻想。

 柊の夢を見ていた私は、どんな顔をしていたろう。

 幸せな笑みを?

 悔いを噛んだ渋面を?

 それとも、悲しい顔をしていただろうか。

 秋雨みたいに………。

 

 なぜ……、夢など見てしまったのだろう。

 なぜ、思い出してしまったのだろう。

 永遠に夢にまどろんでいられるならいい。

 どれだけ深い傷を受けようとも、柊と会えるならそれだけで報われる。

 でも、覚めれば。

 残るのは苦しみだけなのに。

 

 散らかった部屋を見回して溜め息をつく。

 片付ける気にはなれなかった。

 せいぜい、横転したテーブルを起こし、割れたグラスの破片を始末するくらいだ。

 死にかけたベンジャミンを助けるのさえ、億劫だった。

 鉢が割れ、土がこぼれているのに。

 放置すれば遠からず枯れゆくであろうベンジャミンを横目に、飾り棚の側に立つ。

 香水の空き箱に手を伸ばし、しかし、私は、弾かれたように指を止めた。

 

 ……これを手に取ったら、もう逃げられない。

 

 それでも……やっぱり………。

 細かく震える指をゆっくりと伸ばし、封書を取り出す。

 私はそのまま壁にもたれて座り込んだ。

 やっと覚悟が出来た。

 今思い出すべきなのだ。

 怖くても。悲しくても。

 そして。

 封書を胸に当てる。

 これを読むべきなのだ。

 私は、傷を隠すベールを、痛みに堪えてゆっくりとめくり、“そして”の続きを思った。


04

 ……直接の原因は他愛もないことだった。

 日曜の約束がどうこうという程度の、子どもっぽいものだったと思う。

 問題は原因ではなく、私の中で張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったことにあった。

 

「……。どうしてそうなの? 私のことはどうでもいいの? (しゅう)はいつもそうね、他の人のことばっかり気にして、私のことは全部後回し。」

「…マキちゃん?」

 

 柊の傷ついた表情を見た瞬間後悔した。

 でも、声にした言葉は二度と取り消せない。

 私は半ばヤケになって、残りの言葉をも柊に叩きつけた。

 

「……みんな、柊は優しいって言うけど、本当は優しくなんかないのよ。人に嫌われるのがイヤだから優しいふりをしてるだけ。結局ずるくて憶病なんだわ。他人の目しか気にしてないから、隣にいる私がこんなに寂しくて気付かない。気付こうともしてないのよ!」

 

 今でも悔やんでやまないその言葉。

 どうして、憤りをぶつける前にもう一度考えなかったんだろう。

 それがどれだけ柊を傷つけるか、わからないはずはなかったのに。

 

「………」

 

 長い沈黙。

 

「ごめん、マキちゃん」

 

 柊は、一目で作り物と知れる笑みを顔に張りつけ、片手で顔の半分を覆った。

 

「ごめん。僕、甘えすぎてたね。……君のことをないがしろにしたつもりはなかったんだ。でも……。そうだよね、マキちゃんにも他の人と同じように…ううん、もっと優しくしないと駄目なのにね」

 

 違うの、そうじゃなくて!

 甘えてくれるのはいいの。

 でも、それだけじゃなくて、もっと…。

 もどかしい。

 はがゆい。

 本当に言いたいのは、もっと違うことなのに、どうして私は…。

 

「……僕ってやっぱり駄目だなぁ…。ホント、なってないや」

 

 妙に明るい口調。

 傷ついた瞳が痛々しくて、私はなにも言えなくなる。

 

「私…」

「ごめん、今は何も言わないで。今日は帰るよ。帰って反省する。……じゃあ」

「柊…」

「また、連絡する。ホント、ごめんね…」

 

 軽く手を挙げて踵を返す柊。

 私は言い知れぬ不安を足元に感じながら、影の薄い柊の後ろ姿を見送った。

 

 それからしばらくの間、私は箍が外れたように、華やかな友人を選んで夜毎の火遊びを続けた。

 私は悪くない。

 だって、ずっと我慢してきたもの。

 私に辛い思いをさせたのは柊のほうだもの。

 悪くないんだから、家に閉じこもる必要はないのだ。

 なのに、ひとりでいると、柊の昏い顔が思い出されて、胸が苦しかった。

 だから、私は殊更派手に遊び回っていた。

 噂が柊の耳に届いたかどうかは、今となってはわからない。

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