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悲しみの卵  作者: 朔良
第二章 ひいらぎ
14/32

香水

03

 時間を追いかけるように慌ただしく過ごした学生時代、柊に初めて会ったのがいつだったのか、私は覚えていない。

 それは、サークルのコンパの席とか、同じ講義を取った教室とか、至極平凡な出会いだったのだろう。

 だから、初めて言葉を交わすころには、お互い相手の顔と名前が一致する程度の面識はあった。

 まず、意外と話が合うことに驚いた。

 それから、初めて話す彼の側で、妙に寛いでいる自分に気づいた。

 人と接するのに高い壁を作らないではいられない私の心を、柊は一度で和ませてくれた。

 恋に落ちた……というより、もう一度会いたいというのが、正直な感想。

 幾度かの逢瀬を重ねるうちに、私は、決められた運命を踏襲するように、ゆっくりと彼に魅かれていった。

 優しい人柄や、幾漠かの陰りを内包する、私の知らない何かを映す深遠な瞳に。

 

 砂の上に建てた塔の最上階を目指すような、危うく……だからこそ夢中にならずにはいられない恋。

 それまでの、出会った途端新しい初恋をくり返すような子どもっぽい恋とは違うそれは、静かで穏やかな分、お互いの魂の底に触れるくらいの深さを持っていた。だれが……自分が傷つくことすら厭わないほど。

 ……少なくとも私はそう信じていた。

 恋の渦中に周囲を見る余裕があるはずもない。

 あるのは、体細胞のひとつひとつに浸透していくような幸せ。

 柊の側に寄り添って、私は幸福を呼吸する日々を送った。

 

 しかし、彼との関係が密度を増すにつれ、私はひとつの不満を抱えるようになった。

 優しい……優しい柊。

 人を傷つけるよりも、自分が傷つくほうを選んでしまう優しい柊。

 だが、彼はいくつもの傷を抱え続けるには繊細で弱すぎたのだ。

 

 それでも、出会ったころはまだ、笑っていた気がする。

 目を細くしてくしゃりと顔を崩す大好きな笑顔。

 それに陰りが見え始めたのは、就職活動の波をかき分け、やっと息をついた晩秋のころだ。 

 陰りの原因は、人間関係への疲れだけではなかったように思う。

 他人の痛みを計ることができる者などいない。

 ましてや、今となってはあれは失われた過去。私には推測することしか出来ないが、あの優しい人を苛んでいたのはそんな単純なものではなかった。

 そう思う。 

 悩み落ち込んでいる柊を見るのは辛かった。

 他人といるときは、変わらぬ優しい自分で居続ける柊が痛々しくてならなかった。

 彼には、心を解放できる場所が必要だった。

 それは当然私に与えられるべき役目だと思ったし、事実そうなっていった。

 

 ……最初はよかった。

 ふたりのときは柊が暗く打ち沈んでいても。それは心を許してくれているからだと思えば、かえって嬉しかった。

 彼との恋は、たったひとりの相手だからこそ相手の前で本当の自分をさらけ出す、堅実なものだと思えた。

 

 だが、そんな気持ちは永くは続かなかった。

 優しい、……彼女にだけはとっても優しい友達の恋人達。

 夜中のお迎えも、突然のデートも、どんな我儘も笑って聞いてくれる、オールマイティな恋人。もちろん、見栄や誇張も多分に含まれていたのだと思う。そんな夢のような恋人、現実にはいやしない。

 他愛ない嘘を鵜呑みにしてしまうほど不安で…、いや、その頃から私は愚かだったのだ。今と同じように。

 ひとりで鬱々とせず、素直に甘えれば、あの優しい人のことだ、頼めば嫌な顔ひとつせずに同じことをしてくれただろう。

 でも、私は彼に負担をかけたくなかった。

 それに、頼んでしてもらっても意味がない。

 私は、彼に“そうしたい”と心から思われたかったのだ。

 

 一晩毎に相手を取り替える、蜂蜜のようなうたかたの恋の話をする彼女たちを、自分とは違う世界の住人と思いながらも、心の内側で私は、いつしかひどく羨み始めていた。

 いくつもの恋を掌上の宝石みたいに転がしたかったのではない。

 唯一の不満。

 私は、甘い言葉を聞きたかった。

 優しくされたいと願わずにはいられなかった。

 他の誰からではなく、柊に。 

 ……それは、平凡な願いだったのかもしれない。

 心の奥に隠し続けず、言葉にすればよかったのかもしれない。

 でも……。

 

『マキちゃんといるときが、一番ほっとする』

 

 その薄い微笑みが、傷ついた眼差しが、私の中の醜い思いを殺す。

 柊を傷つけたくなかった。


「……ん。私も。」

 

 ただ柊を抱きしめて自分の気持ちと折り合いをつけ、誤魔化し続ける。

 それが私にできる精一杯だった。

 柊の側にいるためには、そうやって感情の臨界点を引き上げ続けるしかなかった。

 それが、爆発するときの破壊力を強大にするだけで、何の解決にもならないとは気付かずに。

 そして………。

 

 そして?

 

 鋭い痛みを伴う記憶が、いくつもフラッシュバックし、私は左手首をきつく握って身体を前に折った。

 

 怖い。

 身体が震え、胸に氷塊を押し当てられたように、呼吸すら困難になる。

 怖かった。

 思い出したくないのではなく、ただ無性に怖かった。

 何度もかぶりを振り、思考も思い出も、頭の中にあるすべてを振り払う。

 目を固く閉じて、私は、冷たくなった身体の芯が、温もりを取り戻すのを待った。

 

 鼓膜を打つ遠い雨音。

 選ばれた聴衆のためだけにメロディを奏でる、静かで揺るぎない陰雨。

 思考を散らす雨音に感謝しながら、私はそろそろと顔を上げた。

 

 いつの間にか、窓の外は白み始めている。

 カーテンに遮られ薄暗い朝の光を頼りにして、枕許に転がっていた腕時計を手に取り、ベルトを左手首に巻いた。

 やっと息をつく。

 これ以上思い出さないほうがいい。

 そんな確信があった。

 

 秋雨はまだ眠っている。

 昨夜の睡眠時間が少なかったせいか、思ったより眠りは深いようだ。

 

 ……よかった。

 彼には、なにも知られたくなかった。

 例えその断片に気付いたとしても、私の過去など知りたがるはずがないことはわかっているから、これはただの杞憂に過ぎないが。


 彼を起こさないようにベッドを出る。

 陰雨のせいでわかりにくいが、生産的な社会はとっくに動き出している時間だ。

 私は始業時間まで待ち会社に電話をかけた。

 休暇の申請だけすると、苦言は聞かず一方的に通話を切る。

 昨日のような思いは二度としたくない。

 もし私が出勤したら、ひとり残された秋雨はまた誰かを連れ込むだろう。

 同じ女か違う女かはわからないが、誰かを必ず。

 ……雨が降っている限りそれは決定事項だ。

 あんな夢を見、苦すぎる思い出を半ばまでとはいえ辿ったあとに、もう一度他の女を部屋に連れ込まれるなんて、想像するのも耐えられそうになかった。

 ならば、会社を休むか、てるてる坊主を吊して神頼みするしかあるまい。

 でも、神などいないことは既知の事実。

 仮にいたとしても、不心得者の願いなど聞き届けはしまい。

 

 久しぶりの休日も悪くはない。

 寝室に戻ってもう一眠り……。

 今度は夢もない眠りに落ちることを願いながら、踵を返す。

 鼻をついたほのかな花の香りが、私の足を止めた。

 否、花じゃなくて……もっと若い自分に自信のある女の好む香り。

 

 緋色のパンプス。

 

 ふいにその言葉が頭に浮かび、それとともに、昨夜の女の優越感に満ちた嘲笑が鮮明に浮かんだ。

 記憶のフィルターにかけられ何倍にも誇張されたその笑みに、ぎりりと歯噛みする。

 もう消えてしまったと思っていたのに。

 香水の香りの残ったシーツはベッドに入る前にゴミ袋に突っ込んでしまった。

 情事の後の残るシーツなんて使えない。

 だから、香水の匂いも消えたと思っていた。

 なのに部屋にしがみついた残り香が、女の代わりになって私を嘲笑う。

 

 アンタはただの遊び。

 彼に釣り合うところなどひとつもないと。

 

「余計なお世話よ」

 

 低く呟く。

 私は、永らく開けたことのない飾り棚の、引き出しの奥を探った。

 確か、ここに……。

 箱に手が触れる。

 あった。もう何年も前に海外旅行のお土産に貰ったきりしまいこんでいた香水。

 まっさらなままだ。箱を開けて中身を確かめはしたが、興味がなくて瓶自体は開封もしなかった。

 逆さにして瓶を出す。

 一緒に違うものも落ちてきた。


 ……褪色した一通の封書が。

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