卵の夢
01
視界はぼんやりしていた。
紗がかかったみたいにほの白く、幻覚の曖昧さですべてが構成されていた。
私は台所に立っていた。
乳白色の世界に孤島のようにぽつんとたたずむ、よく磨きあげられた銀色のキッチン。
その、染みも汚れも傷もない、まっさらなステンレス。
新婚生活を始めるなら、大好きな人のためにこんなキッチンで甘いたまごやきを焼いてあげたいと思う。
素敵なキッチン。
たまごやき、たまごやき。
そう考えていたせいか、蛇口をひねると卵が生まれてきた。
大理石の手触りを持つ純白の殻で包まれた、手のひらサイズの卵。いつの間にか、左手には菜箸。
たまごやき。
ひんやりとした卵を手に取り、キッチンの角に打ちつける。
空気でできた透明なボールの上で、私は真っ白な卵の殻を割った。
中から出てきたのは。
とろりとした液体。
それと。
笑顔の、柊が。
雛鳥程の大きさの柊が浮かべる、久しく見たことのない屈託のない笑顔。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
柊の笑顔を見られたことがあまりにも幸せで、泣いてしまいそうなくらい胸が痛くなる。
「柊」
私は湿った声で呟いた。
言葉はそのまま形になる。
てのひらサイズだった柊は等身に戻り、それとともにまっさらなキッチンも溶けて消える。
もちろん、せっかくの笑顔も。
私は、深闇色の壁に寄りかかって片膝を抱えている柊の側に膝をつき、彼の顔をのぞき込んだ。
横顔を蝕む、いつの頃からか彼に染みついた、昏い影。
きつく握りしめていた菜箸が手のひらの中で膨らむ。
手のひらを上に向けると指を押し上げて林檎に変わった。
蝋細工のように不自然なほど艶やかな、真っ赤な林檎。
林檎を彼の目の前に差し出し、私は、もう一度名前を呼んだ。
「柊」
柊がゆっくりと顔を上げる。
どこまで堕ちても底にたどり着けないほどの闇をたたえた、深淵のような瞳。
その深すぎる絶望が、彼を傷つけ、私を苦しめる。
「どうしたの?」
私は、言葉で柊を抱きしめるように、穏やかにそう尋ねた。
「ごめん、今はかまわないでくれる?」
「うん」
そっけない拒絶が私の胸に残す傷の深さを、彼はきっと知らない。
だれにでも優しい彼が、私の傷にだけは気づかない。
近くに寄り添うことを許されている故の、苦しくも嬉しくもある現実。
私は…、自分に向けられる彼の優しい言葉が聞いてみたかった。
他の誰にもそうしているように、優しくして欲しかった。私にも。
腹の底で澱んだ醜い願い。
でも、彼の苦しみの深さが、口腔まででかかった醜い願いを再び嚥下させる。
「マキちゃんといるときが、一番ほっとするよ」
泣き出す寸前のような薄い笑み。
とどめの一言を受け、手のひらの上の赤い果実が、さらさらと崩れていく。
楽園に住んでいた遠い昔からの罪の果実が、触れた途端砂塵と消える死海の林檎のように。さらさらと。
私は自らの欲望を腹の奥深くに飲み込み、ただ、柊を緩く抱きしめようと、手を伸ばした。
なのに。
触れた途端に、彼までもが砂塵と化す。
乾いた砂のごとく、さらりと崩れて消えてしまう。
戸惑う間に、世界を構成するすべては強酸を浴びたように異臭を放ちながらぐずぐずと溶け消る。
空っぽの闇に取り残されるのは私ばかり。
「柊」
空っぽの腕の中を見つめ、茫然として彼の名を呟く。
周囲に彼を捜す。
最初は戸惑いがちにゆっくりと、次には不安に憑かれたように死に物狂いで。
必死に辺りを見回す。
「柊っ!」
いた!
でも、前か後ろか区別もつかぬどこかに向かう彼の後ろ姿は、刻々と遠ざかりつつあった。
進む先の荒野は、嘘くさい白い光で煌々と照らされ、そして、足元には……。
「待って、柊っ!」
声の限りに叫ぶ。
だめよ。 そっちに行っちゃいけない。
彼の目指す先になにがあるのか、私は瞬時に理解した。
引き止めなきゃ。
懸命に走る。
しかし、床が軟体動物の不安定さで行く手を阻み、目には見えぬ透明な壁が彼と私を分かつ。
壁を力の限りに叩きながら、
「そっちはだめよっ、行かないでっ!柊っ!」
血を吐くような叫び声に、彼はようやく足を止めた。
「柊、私よ、蒔子よ。そっちに行っちゃダメ、戻ってきて、お願いっ!」
柊は。
もどかしいほどゆっくりと振り向いた。
「私のところに、戻ってきて」
私を物のように見る冷ややかな眼差し。
それを見ただけで、心が絶望に染まる。
彼は私を許してくれない。
今も、まだ。
「マキちゃんにも、他のみんなと同じようにしなくちゃいけないよね」
かつて私を夜毎に殺し続けたその言葉。
私の力ではヒビすら入らない壁が、彼の言葉で容易に砕ける。
言葉は勢いを殺されぬまま私の胸を刺し、砕けた透明な破片が無数に私の体に食い込んだ。
心のどこかを殺すほどの深い傷。
どんな名医でも見えぬ欠片を摘出はできない。
生涯癒えることなく疼き続けると決定されている傷から、とろとろと血が流れていく。
胸に眠る罪の果汁が朱の筋を引いて。
久しく忘れていた何万回目かの衝撃を耐え切れず、私は、真っ黒なリノリウムの床に両膝をついた。
柊は再び、寒々しいほど明るいどこかに向かって歩き始めている。
その先が、奈落であることを知っているのに、私には止める術がない。
自分を殺した者の行く先は、地獄しかないと知っているのに。
「柊」
なす術もなく、呟く。
いつの間にか、私を包み込む漆黒。
濃度を持った罪の残滓。
私は、その重さに耐え切れず、リノリウムの床に沈んでいく。
深い深い底に。
そして、私は、身体を丸める。
卵のように、丸くなる。
外皮を真っ白な殻に変え、孵化することのない無精卵に。
何もかもを忘れて眠るため、卵に、なる。
02
ジリリリリ……
夢を破ったのは無粋な目覚し時計のベルだった。
はっとして飛び起き、八つ当たり気味にスイッチを叩く。
隣りに秋雨の寝顔を確かめた私は、長い時間をかけて息を吐いた。
ちらりと、せっかくの夢を破った目覚し時計を睨む。
幸せな夢。
覚醒した直後さえも、夢の世界は、薄衣に包まれているようで、はっきりとは思い出せない。
かつて夜毎見ていた夢と同じだということは感覚でわかっても、意識に残っているのは柊の笑顔と重すぎる罪悪感だけだ。
それでも、あの頃の私にとって、これは柊の笑顔を見ることができたというだけで、胸が痛くなるほど幸せな夢だった。
今でもそうだ。
覚めたのを恨むくらいに幸せな夢。
たとえ、覚めた後に、死にたくなるほどの悲しみと後悔を伴うとしても。
私は甘くて苦い夢の余韻を口腔に噛み、
「柊……」
低くそう呟いた。
風化する事なく、リアルな痛みを胸にもたらすその名前。
今でも、呟くだけで、生乾きの傷を深くえぐり、癒える日が来ることなど決してないのだと、私に思い知らせる。
かつて私の世界の大部分を占めていた柊。
どうして忘れることができたんだろう。
あんなにも大切だった彼のことを。
なのに、今でも記憶は遠く、彼の笑顔と、名前のもたらす痛み以外のものは不確かだ。
ベッドの上で半身を起こしたまま、軽く瞼を閉じる。
「………茅島、柊……」
彼の名を声にし、私は曖昧な記憶を過去に向かって辿り始めた。