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悲しみの卵  作者: 朔良
第一章 あきさめ
11/32

したいの?

 ずっと見ぬふりをしていた問い。

 今までだって、名前も知らない彼のことを知りたいと思わなかったわけじゃない。

 あえて問わずにいたのは、彼を失いたくなかったからだ。

 聞けば私たちの関係は終わる。

 そんな予感があった。

 だって、名前を知れば“秋雨(しゅうう)”と言う男はその瞬間から消えてしまう。

 私が拾った綺麗で傲慢な男は。

 違う名前の見知らぬ男になってしまう……。

 だから、彼の身元については考えないようにしてきた。

 でも、今は聞かずにはいられない。

 彼のことを知りたくてならなかった。

 だって! ……あんな女に負けたくない。

 

「どうして、答えないのよっ。答えられないわけでもあるの? あの女の言ってたことは本当?」

「黙れっ」

 

 殴られる。

 びくりと体を竦める。

 身体の芯まで響くような、まったく容赦ない平手打ち。

 私はその勢いのままカーペットの上に倒れこんだ。

 頬に手を当てる。

 一拍おいて、打たれた部分がかっと熱くなった。

 

「いちいち、うるせーんだよ!」

 

 吐き捨てるように言って、彼はテーブルを力一杯蹴飛ばした。

 テーブルが横転し、ベンジャミンの鉢を直撃する。

 ベンジャミンがっ!

 私は悲鳴を上げて、耳をふさいだ。

 鉢の砕ける鈍い音とテーブルの上にあったガラス類の割れる硬質な音が錯綜する。

 彼は酷薄な目で私を見ると、寝室から褐色のシャツを持ってきて無造作にはおった。

 そのまま玄関に向かう。

 

「待って!」

 

 私は、慌てて彼の後を追った。

 

「待って、どこに行くの」

「関係ねぇだろ」

「行かないで」

「うだうだ言われちゃ、たまんないんだよ」

 

 靴を履きながら。

 本当に出て行く気だ。

 私は彼の背中にすがった。

 

「言わないからっ」

 

 必死に哀願する。

 

「もう、聞かないから、行かないで」

 

 彼を失いたくなかった。

 どうしても、今は失いたくなかった。

 

「お願いだから」

「どうして?」

 

 突き放した口調。

 彼は振り向いて、声と同じくらい冷たい目で私を見た。

 

「なんだって、俺にいて欲しいわけ?」

「だってっ! だって、あなたは秋雨(しゅうう)でしょ? カツミなんて名前じゃなくって、私が拾った秋雨なんでしょ!? だから、なにも答えられない。そうよね? それなら、出ていっちゃダメ。私がいいって言うまでここにいなくちゃダメ! お願い……」

「……無茶苦茶な理由」

 

 呟くように彼。

 ふぅっと、瞳の酷薄な色が消え、乾いた寂寥がそれにとって代わる。

 彼の魂の奥に根づく孤独と悲しみが。

 鼓動が深くなるのを感じながら、私は彼を凝視した。

 

「行かないで」

 

 彼は軽く肩をすくめ、

 

「後悔するぜぇ? きっと。あのとき、追い出しとけばよかったって」

 

 首を縦に振る。

 後悔しないなんて言わない。嘘になるから。

 でも、そんなこと少しだって厭わない。

 ……今この瞬間、彼が、私の側にいてくれるならそれだけでいい。

 

「……また、秋雨って呼んでもいい?」

 

 ぎゅっと服をつかんで、彼を見上げる。

 

「好きにすれば?」

 

 投げやりな口調。 

 でも、彼はうなずいた!

 

「……よかった」

 

 泣きそうな気分で、私は彼に抱きついた。


10

 部屋に戻ると、秋雨は何もなかったかのように煙草に火をつけた。

 いつもと同じ位置を選んで壁に寄りかかる彼を見ながら、窓際に立つ。

 カーテンを分けて外を見下ろすと、窓の外では、街燈に照らされて細い銀針のように見える秋の雨が、闇に包まれた世界の全てを凍えさせていた。           

 なにもかもに平等に冷たい秋雨(あきさめ)……。

 たまらない気持ちで振り返る。

 

 私にはわからない何かを見つめる秋雨の深遠な眼差し。

 

 唇を噛む。

 彼との隔たりがもどかしくて、私を受け入れてくれないのが切なくて。

 ……私など彼に釣り合うはずもないわかっていても。

 

 でも、私だけではない。

 きっと、彼の心の中には誰も入れない。

 それなら……、私はそばにいられるだけでいい。

 眼鏡を外して放り出す。

 私は秋雨の傍らに座り、彼に凭れた。

 

 微動だにしない冷たい身体。

 彼の心と同じくらいに。

 遠い雨音。

 彼に凭れたまま、波間にたゆとうような感覚に溺れる。

 

 ふっと怖くなった。

 すべてが夢のような気がして。

 私が名づけた綺麗な男も、“加藤蒔子”という私も、彼に凭れる今この瞬間さえもが、白昼夢に過ぎないようで。

 私が夢なのならまだいい。だけど、やっとの思いで引き止めた彼が夢で、目が覚めたとたん弾けて消えてしまったら……。

 埒もない空想。

 しかし、それは、私の心を凍らせるには十分な威力を持っていた。

 それほど私は、今、彼を失うことを恐れていた。

 

「……ね、しゅう…う…」

 

 小さく呟き、彼の服をぎゅっと握る。

 彼は応えない。

 私を見もしない。

 私は、不安になって、服を握る指に力を込めた。

 これが現実だと知りたかった。

 子どもっぽい空想を壊して、この不安から逃れたかった。

 たとえそれが愛ゆえでなくても、彼に抱かれ、その存在を確かめたかった。

 

「……秋雨」

 

 はっきりと名を呼び、彼を凝視する。

 

「なに」

  

 冷たい視線を受け、私は言葉をなくした。

 

「言えよ」

「………私……」

 

 服から手を放し、唇を噛む。

 彼に触れたかった。

 彼を確かめたかった。

 なのに、なけなしのプライドを捨てて自らの禁忌を破り、彼に望みを告げることができない。

 声にすることができないのだ。

 情けないことにも。

 

 口籠る私を見て、秋雨は冷酷な笑みを唇の端に刻んだ。

 

「なーんだ、蒔子さん、したいの? ほかの女とやったばっかの俺と?」

 

 わざと選んだに違いない嘲るような言葉。

 

「違…」

「違うの?」

「………」

「したいなら、そう言えば? そしたら抱いてやるよ」

「そんなこと思ってないっ」

 

 精一杯の虚勢を言い、顔を背ける。

 

「蒔子さん」

 

 頬に触れる冷たい指先。

 秋雨は手を伸ばして私の頬に触れると、自分の方を向かせた。

 

「……ほんとに?」

 

 残忍な表情を浮かべてさえ、目眩のするほど色っぽい眼差し。

 そのまま、綺麗な指が、私の顎のラインをたどり、首筋をなぞる。

 彼に触れられただけで、熱い疼きが私の息を震わせる。

 鎖骨を滑り、指は胸元でぴたりと止まった。

 

「このままやめてもいいわけ?」

「……秋雨……」

  

 私は、彼の胸に手を当て、縋るように見つめた。

 

「秋雨……お願い……」

「言えよ、ちゃんと」

 

 胸元で遊ぶ指先。

 

「……お願い、して……」


 声にした途端、しなやかな指が服の下にもぐり込んだ。

 

※Rが付くほどの展開でなくてごめんなさい(笑)

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