したいの?
ずっと見ぬふりをしていた問い。
今までだって、名前も知らない彼のことを知りたいと思わなかったわけじゃない。
あえて問わずにいたのは、彼を失いたくなかったからだ。
聞けば私たちの関係は終わる。
そんな予感があった。
だって、名前を知れば“秋雨”と言う男はその瞬間から消えてしまう。
私が拾った綺麗で傲慢な男は。
違う名前の見知らぬ男になってしまう……。
だから、彼の身元については考えないようにしてきた。
でも、今は聞かずにはいられない。
彼のことを知りたくてならなかった。
だって! ……あんな女に負けたくない。
「どうして、答えないのよっ。答えられないわけでもあるの? あの女の言ってたことは本当?」
「黙れっ」
殴られる。
びくりと体を竦める。
身体の芯まで響くような、まったく容赦ない平手打ち。
私はその勢いのままカーペットの上に倒れこんだ。
頬に手を当てる。
一拍おいて、打たれた部分がかっと熱くなった。
「いちいち、うるせーんだよ!」
吐き捨てるように言って、彼はテーブルを力一杯蹴飛ばした。
テーブルが横転し、ベンジャミンの鉢を直撃する。
ベンジャミンがっ!
私は悲鳴を上げて、耳をふさいだ。
鉢の砕ける鈍い音とテーブルの上にあったガラス類の割れる硬質な音が錯綜する。
彼は酷薄な目で私を見ると、寝室から褐色のシャツを持ってきて無造作にはおった。
そのまま玄関に向かう。
「待って!」
私は、慌てて彼の後を追った。
「待って、どこに行くの」
「関係ねぇだろ」
「行かないで」
「うだうだ言われちゃ、たまんないんだよ」
靴を履きながら。
本当に出て行く気だ。
私は彼の背中にすがった。
「言わないからっ」
必死に哀願する。
「もう、聞かないから、行かないで」
彼を失いたくなかった。
どうしても、今は失いたくなかった。
「お願いだから」
「どうして?」
突き放した口調。
彼は振り向いて、声と同じくらい冷たい目で私を見た。
「なんだって、俺にいて欲しいわけ?」
「だってっ! だって、あなたは秋雨でしょ? カツミなんて名前じゃなくって、私が拾った秋雨なんでしょ!? だから、なにも答えられない。そうよね? それなら、出ていっちゃダメ。私がいいって言うまでここにいなくちゃダメ! お願い……」
「……無茶苦茶な理由」
呟くように彼。
ふぅっと、瞳の酷薄な色が消え、乾いた寂寥がそれにとって代わる。
彼の魂の奥に根づく孤独と悲しみが。
鼓動が深くなるのを感じながら、私は彼を凝視した。
「行かないで」
彼は軽く肩をすくめ、
「後悔するぜぇ? きっと。あのとき、追い出しとけばよかったって」
首を縦に振る。
後悔しないなんて言わない。嘘になるから。
でも、そんなこと少しだって厭わない。
……今この瞬間、彼が、私の側にいてくれるならそれだけでいい。
「……また、秋雨って呼んでもいい?」
ぎゅっと服をつかんで、彼を見上げる。
「好きにすれば?」
投げやりな口調。
でも、彼はうなずいた!
「……よかった」
泣きそうな気分で、私は彼に抱きついた。
10
部屋に戻ると、秋雨は何もなかったかのように煙草に火をつけた。
いつもと同じ位置を選んで壁に寄りかかる彼を見ながら、窓際に立つ。
カーテンを分けて外を見下ろすと、窓の外では、街燈に照らされて細い銀針のように見える秋の雨が、闇に包まれた世界の全てを凍えさせていた。
なにもかもに平等に冷たい秋雨……。
たまらない気持ちで振り返る。
私にはわからない何かを見つめる秋雨の深遠な眼差し。
唇を噛む。
彼との隔たりがもどかしくて、私を受け入れてくれないのが切なくて。
……私など彼に釣り合うはずもないわかっていても。
でも、私だけではない。
きっと、彼の心の中には誰も入れない。
それなら……、私はそばにいられるだけでいい。
眼鏡を外して放り出す。
私は秋雨の傍らに座り、彼に凭れた。
微動だにしない冷たい身体。
彼の心と同じくらいに。
遠い雨音。
彼に凭れたまま、波間にたゆとうような感覚に溺れる。
ふっと怖くなった。
すべてが夢のような気がして。
私が名づけた綺麗な男も、“加藤蒔子”という私も、彼に凭れる今この瞬間さえもが、白昼夢に過ぎないようで。
私が夢なのならまだいい。だけど、やっとの思いで引き止めた彼が夢で、目が覚めたとたん弾けて消えてしまったら……。
埒もない空想。
しかし、それは、私の心を凍らせるには十分な威力を持っていた。
それほど私は、今、彼を失うことを恐れていた。
「……ね、しゅう…う…」
小さく呟き、彼の服をぎゅっと握る。
彼は応えない。
私を見もしない。
私は、不安になって、服を握る指に力を込めた。
これが現実だと知りたかった。
子どもっぽい空想を壊して、この不安から逃れたかった。
たとえそれが愛ゆえでなくても、彼に抱かれ、その存在を確かめたかった。
「……秋雨」
はっきりと名を呼び、彼を凝視する。
「なに」
冷たい視線を受け、私は言葉をなくした。
「言えよ」
「………私……」
服から手を放し、唇を噛む。
彼に触れたかった。
彼を確かめたかった。
なのに、なけなしのプライドを捨てて自らの禁忌を破り、彼に望みを告げることができない。
声にすることができないのだ。
情けないことにも。
口籠る私を見て、秋雨は冷酷な笑みを唇の端に刻んだ。
「なーんだ、蒔子さん、したいの? ほかの女とやったばっかの俺と?」
わざと選んだに違いない嘲るような言葉。
「違…」
「違うの?」
「………」
「したいなら、そう言えば? そしたら抱いてやるよ」
「そんなこと思ってないっ」
精一杯の虚勢を言い、顔を背ける。
「蒔子さん」
頬に触れる冷たい指先。
秋雨は手を伸ばして私の頬に触れると、自分の方を向かせた。
「……ほんとに?」
残忍な表情を浮かべてさえ、目眩のするほど色っぽい眼差し。
そのまま、綺麗な指が、私の顎のラインをたどり、首筋をなぞる。
彼に触れられただけで、熱い疼きが私の息を震わせる。
鎖骨を滑り、指は胸元でぴたりと止まった。
「このままやめてもいいわけ?」
「……秋雨……」
私は、彼の胸に手を当て、縋るように見つめた。
「秋雨……お願い……」
「言えよ、ちゃんと」
胸元で遊ぶ指先。
「……お願い、して……」
声にした途端、しなやかな指が服の下にもぐり込んだ。
※Rが付くほどの展開でなくてごめんなさい(笑)