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悲しみの卵  作者: 朔良
第一章 あきさめ
10/32

緋色のパンプス

09

 やっと待ち侘びていた瞬間が来たときには、目眩がするかと思った。

 朝礼を聞いていた時は、今日は残業してでも仕事を片付けるつもりだったのだが、とてもそんな気にはなれない。

 それ以上は出来ないほどの早さで身仕度をして、慌てて会社を出る。

 それで少しでも早く帰れるなら、電車の中で足踏みをしてもいいくらいだった。

 駅を出ると脇目も振らずに家路を急ぐ。

 雨に濡れるのも厭わずに。

 待つ相手などなかった一人暮らし。こんなに急いで家に帰ったのは初めてだ。

 毎日記録を取っていたとしたら、帰宅にかかる時間の最短記録を更新してただろう。

 チャイムは押さずに、ドアノブに手をかける。


「ん?」


 無用心なことにも、鍵はかかっていなかった。

  

「ただいま。……」

 

 それには、すぐに気づいた。

 緋色の華奢なパンプス。

 光沢のあるエナメルのそれに残る水滴。 


 私のじゃない。

 私は、こんな派手な色のものは身に付けない。

 動悸が激しくなる。

 部屋の中には人の気配。

 そして相変わらずの濃厚なアルコール臭。


 ……どういうこと?

 不吉な予感に怯える身体をなだめ、無言で部屋の中に入る。

 そこには、見知らぬ女が胡座をかいて座っていた。

 身に付けているのは、あろうことか黒いキャミソール一枚。

 安香水の甘すぎる香りが、ぷんと鼻をついた。

 緋色のパンプスに似つかわしい女。

 長い茶色の髪、目鼻立ちのはっきりした人目を引く顔立ちで、恐れを知らぬ年頃の……。

 この部屋で何が行われていたか、一瞬で悟る。

 女を連れ込んでそして……。

 リアルに脳裏に浮かぶ醜い……しかし的確であろう妄想に、私は嫉妬で気が狂いそうだった。

 秋雨の綺麗な身体に頬をすりよせていたであろう女が、私が彼のために用意した朝食をつついているのを見て、かっと頭に血がのぼる。


 彼女は平然とした面持ちで私を見ると、物憂く、

 

「アンタ、誰?」

 

 それはこっちのセリフだ。

 怒りで身体が震える。

 怒鳴りつけてやりたいが、喉が凍りつき声は出てこない。

 両手を握りしめて、肩で息をするのが精一杯だ。

 

「なによ……アンタ……」

 

 女は気味悪そうに眉を寄せると、

 

「ちょっとォ、カツミ? どうなってンのぉ?」

 

 カツミ? 耳慣れない名前。


 その名で呼ばれて寝室から出てきたのは、やはり秋雨だった。

 ……しかも半裸で。

 ジーンズしか身に付けていない。

 大切な“秋雨”という名前が、、音を立てて砕ける。 

 彼は、いつもどおりしたたか酔っぱらっているらしく、ドアに寄りかかってにやりと笑うと、

 

「よう、おかえり、蒔子さん」

 

 陽気に片手を挙げてみせる。

 

「……どういう……こと?」

「そーゆうことだよ」

 

 残酷な笑み。

 長めの前髪の間からのぞく、こんなときでさえこの上もなく色っぽい眼差し。

 それが私の神経を逆撫でする。

 

「蒔子さんの、想像してるとおり」

 

 楽しそうでさえある口調。

 

「どういうつもりよ…」

 

 叩きつけるように怒鳴ったつもりが、声にしてみれば、それは泣きそうにも聞こえた。

 

「さあ?」

 

 悪びれた様子もない。

 私の部屋に女を連れ込んで、この態度?

 許せないっ!

 身体中で高温の怒りがたぎる。

 灼熱にあてられて、私は激怒のあまり再び言葉を失った。

 

「やぁだ、なにぃ? ここって、この人の部屋?」

 

 私たちのやり取りを聞いていた女は、顔をしかめて立ち上がった。

 しげしげと私を見、うすら笑いを浮かべる。

 

「ふぅん。……ねえ、女の趣味、悪くなったんじゃない? カツミ、面食いだったのに」


 私は女を睨んだ。

 こんな女に言われる筋合いはない。

 

「うるせーな」

 

 不機嫌そうに彼。

 

「帰れよ」

 

 切り捨てるように言う。

 

「なぁによぉ、自分が呼び出しといて」

 

 散らばった服を緩慢な動作で身に付けながら、女は、

 

「……それにしても、あんたって相変わらず最低だね、カツミ。また、女騙してんの?」

 

 肩をすくめて私を見ると、

 

「ね、オバサン。アンタもさ、やめたほうがいいよォ? こんな男。カツミに捨てられて自殺した女だっているんだから。……アンタは知らないんだろうけど」

 

 優越感をちらつかせながら、横目で私を見る。

 自分は彼にとって特別な女だとでも言いたいのだろうか。

 やっとの思いで息を整える。

 私の空間を荒らし彼との関係をひけらかす、殺しても飽き足りない女に対して、

 

「出ていって」

 

 ようやくそれだけ言った。

 

「言われなくっても、出ていくわよ」

「早くッ!」

「こっわーいっ」

 

 わざとらしい甘い作り声。

 

「カツミ? この女と手が切れたら、また電話して」

「早く出てってったら!」

「じゃあねぇ」

 

 女は優越感たっぷりの笑みを浮かべると、バッグを振り回しながら、部屋を出ていった。


 ……どうして、こんな目にあわなくちゃならないの?

 情けなくてで涙が出そうだった。

 私の部屋で……私の大切なお城でこんなこと。

 なにもかもを目茶苦茶にしてしまいたい。

 そんな衝動を抑えて、彼を見る。

 昨日は……今朝までは近いところにいたはずの、名前も知らない男は、壁に寄りかかり素知らぬ顔で煙草をふかしていた。

 憎らしいほど綺麗な横顔に刻まれるのは、世の中すべてを憎む笑み。

 ……世の中すべてに疲れた笑み。

 それを見た私に、憤りよりも深く悲しみが襲いかかった。

 たぎっていた感情が急速に冷えていく。

  

 ひとつ息をついて、私は彼をまっすぐに見た。

 怒りは冷めても、尋ねずにはいられないことは残る。

 問いはふたつ。

 まずひとつめ。

 

「どうして、あんな女を部屋に入れたの?」

 

 どうして、私の大事なお城で、こんなこと…。

 

「……雨が降ってるから」

 

 気のない返事。

 

 雨の日に、ひとりではやりきれない。

 明け方の彼の言葉を忘れていたわけではない。

 でもだからって……。

 やっぱり、休めばよかった。

 炎のような後悔が身を焼く。

 こんなことになるとわかっていたら、会社になんか行かなかった。

 後悔の辛酸を口腔に噛み、ふたつめの問いを投げる。

 

「……カツミっていうのが本当の名前?」

「………」

 

 彼は黙したままだ。

 私の声など聞こえないような横顔。

 

「ねえ……、聞こえないの?」

 

 頑固な拒絶。

 一瞬は忘れた憤怒が再び沸き上がる。

 

「あの女には教えても、私には言えないの?」

「うるせぇな」

 

 押さえた掠れ声。

 乱暴な仕草でテーブルの上のグラスに酒を注ぎ、それをあおる。

 

「答えてよっ」

 

 女を連れ込まれたことよりも、私は彼のことを何も知らないのだと思い知らされたことのほうが、遥かにショックだった。

 しかも、あんな女に蔑まれさえして。

 嫉妬で身体中が焦げそうだった。

 彼の腕をつかんで、

 

「本当の名前は? 年は? ねえ!」

「うるさいっていってんだろっ」

 

 唸るように言い、邪険に私を振り払う。

 

「…教えて。あなたは誰?」

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