緋色のパンプス
09
やっと待ち侘びていた瞬間が来たときには、目眩がするかと思った。
朝礼を聞いていた時は、今日は残業してでも仕事を片付けるつもりだったのだが、とてもそんな気にはなれない。
それ以上は出来ないほどの早さで身仕度をして、慌てて会社を出る。
それで少しでも早く帰れるなら、電車の中で足踏みをしてもいいくらいだった。
駅を出ると脇目も振らずに家路を急ぐ。
雨に濡れるのも厭わずに。
待つ相手などなかった一人暮らし。こんなに急いで家に帰ったのは初めてだ。
毎日記録を取っていたとしたら、帰宅にかかる時間の最短記録を更新してただろう。
チャイムは押さずに、ドアノブに手をかける。
「ん?」
無用心なことにも、鍵はかかっていなかった。
「ただいま。……」
それには、すぐに気づいた。
緋色の華奢なパンプス。
光沢のあるエナメルのそれに残る水滴。
私のじゃない。
私は、こんな派手な色のものは身に付けない。
動悸が激しくなる。
部屋の中には人の気配。
そして相変わらずの濃厚なアルコール臭。
……どういうこと?
不吉な予感に怯える身体をなだめ、無言で部屋の中に入る。
そこには、見知らぬ女が胡座をかいて座っていた。
身に付けているのは、あろうことか黒いキャミソール一枚。
安香水の甘すぎる香りが、ぷんと鼻をついた。
緋色のパンプスに似つかわしい女。
長い茶色の髪、目鼻立ちのはっきりした人目を引く顔立ちで、恐れを知らぬ年頃の……。
この部屋で何が行われていたか、一瞬で悟る。
女を連れ込んでそして……。
リアルに脳裏に浮かぶ醜い……しかし的確であろう妄想に、私は嫉妬で気が狂いそうだった。
秋雨の綺麗な身体に頬をすりよせていたであろう女が、私が彼のために用意した朝食をつついているのを見て、かっと頭に血がのぼる。
彼女は平然とした面持ちで私を見ると、物憂く、
「アンタ、誰?」
それはこっちのセリフだ。
怒りで身体が震える。
怒鳴りつけてやりたいが、喉が凍りつき声は出てこない。
両手を握りしめて、肩で息をするのが精一杯だ。
「なによ……アンタ……」
女は気味悪そうに眉を寄せると、
「ちょっとォ、カツミ? どうなってンのぉ?」
カツミ? 耳慣れない名前。
その名で呼ばれて寝室から出てきたのは、やはり秋雨だった。
……しかも半裸で。
ジーンズしか身に付けていない。
大切な“秋雨”という名前が、、音を立てて砕ける。
彼は、いつもどおりしたたか酔っぱらっているらしく、ドアに寄りかかってにやりと笑うと、
「よう、おかえり、蒔子さん」
陽気に片手を挙げてみせる。
「……どういう……こと?」
「そーゆうことだよ」
残酷な笑み。
長めの前髪の間からのぞく、こんなときでさえこの上もなく色っぽい眼差し。
それが私の神経を逆撫でする。
「蒔子さんの、想像してるとおり」
楽しそうでさえある口調。
「どういうつもりよ…」
叩きつけるように怒鳴ったつもりが、声にしてみれば、それは泣きそうにも聞こえた。
「さあ?」
悪びれた様子もない。
私の部屋に女を連れ込んで、この態度?
許せないっ!
身体中で高温の怒りがたぎる。
灼熱にあてられて、私は激怒のあまり再び言葉を失った。
「やぁだ、なにぃ? ここって、この人の部屋?」
私たちのやり取りを聞いていた女は、顔をしかめて立ち上がった。
しげしげと私を見、うすら笑いを浮かべる。
「ふぅん。……ねえ、女の趣味、悪くなったんじゃない? カツミ、面食いだったのに」
私は女を睨んだ。
こんな女に言われる筋合いはない。
「うるせーな」
不機嫌そうに彼。
「帰れよ」
切り捨てるように言う。
「なぁによぉ、自分が呼び出しといて」
散らばった服を緩慢な動作で身に付けながら、女は、
「……それにしても、あんたって相変わらず最低だね、カツミ。また、女騙してんの?」
肩をすくめて私を見ると、
「ね、オバサン。アンタもさ、やめたほうがいいよォ? こんな男。カツミに捨てられて自殺した女だっているんだから。……アンタは知らないんだろうけど」
優越感をちらつかせながら、横目で私を見る。
自分は彼にとって特別な女だとでも言いたいのだろうか。
やっとの思いで息を整える。
私の空間を荒らし彼との関係をひけらかす、殺しても飽き足りない女に対して、
「出ていって」
ようやくそれだけ言った。
「言われなくっても、出ていくわよ」
「早くッ!」
「こっわーいっ」
わざとらしい甘い作り声。
「カツミ? この女と手が切れたら、また電話して」
「早く出てってったら!」
「じゃあねぇ」
女は優越感たっぷりの笑みを浮かべると、バッグを振り回しながら、部屋を出ていった。
……どうして、こんな目にあわなくちゃならないの?
情けなくてで涙が出そうだった。
私の部屋で……私の大切なお城でこんなこと。
なにもかもを目茶苦茶にしてしまいたい。
そんな衝動を抑えて、彼を見る。
昨日は……今朝までは近いところにいたはずの、名前も知らない男は、壁に寄りかかり素知らぬ顔で煙草をふかしていた。
憎らしいほど綺麗な横顔に刻まれるのは、世の中すべてを憎む笑み。
……世の中すべてに疲れた笑み。
それを見た私に、憤りよりも深く悲しみが襲いかかった。
たぎっていた感情が急速に冷えていく。
ひとつ息をついて、私は彼をまっすぐに見た。
怒りは冷めても、尋ねずにはいられないことは残る。
問いはふたつ。
まずひとつめ。
「どうして、あんな女を部屋に入れたの?」
どうして、私の大事なお城で、こんなこと…。
「……雨が降ってるから」
気のない返事。
雨の日に、ひとりではやりきれない。
明け方の彼の言葉を忘れていたわけではない。
でもだからって……。
やっぱり、休めばよかった。
炎のような後悔が身を焼く。
こんなことになるとわかっていたら、会社になんか行かなかった。
後悔の辛酸を口腔に噛み、ふたつめの問いを投げる。
「……カツミっていうのが本当の名前?」
「………」
彼は黙したままだ。
私の声など聞こえないような横顔。
「ねえ……、聞こえないの?」
頑固な拒絶。
一瞬は忘れた憤怒が再び沸き上がる。
「あの女には教えても、私には言えないの?」
「うるせぇな」
押さえた掠れ声。
乱暴な仕草でテーブルの上のグラスに酒を注ぎ、それをあおる。
「答えてよっ」
女を連れ込まれたことよりも、私は彼のことを何も知らないのだと思い知らされたことのほうが、遥かにショックだった。
しかも、あんな女に蔑まれさえして。
嫉妬で身体中が焦げそうだった。
彼の腕をつかんで、
「本当の名前は? 年は? ねえ!」
「うるさいっていってんだろっ」
唸るように言い、邪険に私を振り払う。
「…教えて。あなたは誰?」