紫煙
01
長い夏がようやく去っていく。
それとともに恋の季節も終わった。
時は、憂鬱な秋に差しかかろうとしていた。
通りすがる人々すべてが幸せに見えるような繁華街を無意識に避けて、川沿いのうらぶれた飲み屋が連なる通りを選ぶ。
「やってらんない」
夕暮れの裏通りで小石を蹴飛ばし、声に出してそういったら、余計にやりきれない気分になってきた。
友達や同僚の結婚式の帰りほど、侘しいものはない。
一回目はいい。
素直に相手の幸せを願うことができる。
二回目もまだ。
次は私だって思うことができる。
でも。
五回目だけはどうにもやりきれない。
二度あることは三度とごまかすには遅すぎ、七度転んで起き上がるには早すぎる。
いくら潤沢な秋と言ったところで、私には何の救いにもならない。
恋人は同僚との結婚を選び、私はひとり取り残される。
それが現実だ。
もっとも、今日、神の前でたったひとりの相手への永遠の愛を誓った彼、葛城怜志は、“恋人”とはいっても“元”がつくやつで、かなりのブランクがあってのことだから、今更私が口を挟めることなどないし、そのつもりもない。
第一、もう五年以上も前になる彼との破局の原因は、私のほうにこそあるのだ。
彼の幸せを願うことは、やぶさかではない。
だから、苛立ちの原因はそんなところにはない。
今日結婚式を挙げたのが、ほかの誰かであったとしても、私は同じ疲れを引きずっていたに違いないのだ。
しかし、たとえ原因がそこにはないとはいえ、二次会の空疎な騒ぎに加わる気に、どうしてなることができよう?
披露宴に参列しただけでも、大幅な譲歩だ。
世間体さえ邪魔しなければ、結婚式で渡した祝儀が、私の厚く積もった憂さを晴らすための焼け酒と焼け食いの資金になるはずだったのに。
帰路沿いのゴミ集積所に放り出した引き出物とその他一式を蹴飛ばしたのが、唯一の気晴らしなんて、虚しすぎて涙が出そうだ。
神との折り合いが悪いときは、とことん不幸に見舞われるようで、もうひとつ現実が降ってきた。
秋に相応しい、疲れた女の白い髪のような細い雨が、一張羅のワンピースを濡らし始める。
雨は嫌いではないが、こんなときは御免被りたいものだ。
見る間に眼鏡に水滴が散り、視界が歪んでいく。
眼鏡を外して、バッグに放り込む。
多少近眼気味だが、眼鏡なしでは視界に困るというほどではない。
それよりも、不用意に人を近づけないための牽制の意味のほうが強い。
私は目を見て会話をするのが苦手な憶病者だ。だから私にとっての眼鏡は真意を隠すスクリーン。
纏いつくように降る老練な雨。
傘を買う気にもなれなかった。
私は、バッグを振り回しながら、半ば焼け気味に、しとどに降る雨の中を濡れて歩いた。
勤続八年を目前にして無遅刻無欠勤。
しかも、有給さえほとんど使わず会社に返すような堅物で面白味のない女、隙を見せない可愛げのない女と評判の、この加藤蒔子さんが、ざまぁない。
…雨はだんだん激しくなる。
天を仰ぐ。
肌を打つ雨粒。
息苦しくなるような曇天。
押し潰される錯覚にとらわれそうな鉛色の雲から視線をそらし、べっとりと張りついた髪をかきあげた私は、前方に気になるものを見つけた。
雨の間を縫うように天に環っていく細い紫煙。
そして、その煙草の主を。
彼は、雨など別の世界で降っているかのような態度で、川沿いのフェンスに長い脚を持て余すようにして寄りかかり、紫煙を燻らせていた。
世界に自分の意に従わぬものがあることを知らない年頃の傲慢さが、身体中にあふれている。
その証拠に、煙草さえ、そんな主人に倣うように、雨に気付かぬふりで煙を立ち上らせ続けているではないか。
一瞬気後れするほど端正な顔に浮かぶのは、世の中のすべてを嘲るような表情。
頬には頽廃の影が濃く刻まれている。
そして。
長めの前髪からのぞく瞳は恐ろしいほど色っぽかった。
思わず足を止めて、明らかに年下の男に見惚れる。
細身の褪せたジーンズと褐色のシャツが、こんなに色気のあるものとは知らなかった。
夕闇に包まれ雨にけぶる世界の中で、彼のいる部分だけが、色を持っているように私には見えた。
一瞬、彼の瞳が私の姿を映すことを願う。
……それとともに怖くなった。
このまま彼の前を何事もないような顔をして通って行けるだろうか。
自信がなかった。あの目で見つめられたらどうなるかわからない。
次の瞬間思い直す。
なんて、バカなこと考えてるんだろう。
いい年して、そんな子供みたいなこと。
今時、中学生でも、この程度のことで動揺したりはしない。
そのまま歩き出す。
まっすぐ通りすぎれば、それで終わりだ。
帰って一晩寝れば、なにもかも忘れる。
それだけが私の知っている自分を慰める方法だ。
なのに…、彼の前を通る瞬間、私はちらりと彼に視線を走らせた。
なぜだかはわからない。
タブーを犯したがるのが人間の常だ。たとえそれが自ら課したものであっても。
刹那。
彼と目が合う。
悪魔のように色っぽい眼差し。
鼓動が、いつもよりも深いところで鳴り始める。
濡れた前髪の間から、一瞬私を見た瞳の、その、深淵をのぞきこむのにも似た、疲憊と悲愁との混じりあった色。
ぞくぞくした。
私は、身体の奥から沸き上がる初めての衝動を抑えようとしながら、それでも、彼の前で足を止めてしまった。
目があったのはつかの間で、興味なさ気に視線を逸らして空中を睨んでいた彼は、私が立ち止まったこと気付き、ちらりと視線を上げた。
「なに? 男に飢えてんの、相手してあげようか、お姉さん」
嘲るような表情。
皮肉な口調。
言葉で打たれたように、頬が熱くなる。
かぁっと頭に血が上った。
冗談じゃないわよっ!
こんな男に見惚れた私が馬鹿だったんだ。
顔をそむけてそそくさと歩き出す。
しかし…。
「……拾ってよ、今夜の寝床がないんだ」
独言めいた呟き。
憤怒の塊は、それが凝固したのと同じスピードで融解した。
私は足を止め、唇を噛んで振り向いた。
あんなことを言われてもなお、彼に魅かれていた。
彼は自信に満ちた薄笑いを浮かべて私の出方を待っている。
…見透かされてる。
「……」
言葉はなにも出てこなかった。
だから、私は彼に向かって右手を差し出した。
夏の終わりの話なので、転載始めてみました。
これも古めの作品なので時勢に合わない部分はごめんなさい。
こちらは、同じく転載中の「永遠の旅路」と違って、不定期更新になります。