村の異(6)
「リュウジを無理やり起してくるよ」
食堂に入るなり、そう言ってカズキは部屋に戻っていった。その間、僕はマナブを落ち着かせ、僕らが眠っている間にあの家で何があったのかを聞き出した。
時間をかけて聞いてみると、やっぱりカズキの予想通り、おじさんがおばさんとマナブを連れて館から逃げようとしたところを、老婆に見つかってしまったらしい。おじさんは僕と同じように、絶対に館から出るなという執事の言葉を不審に思って助けを呼びに行こうとしていたそうだ。
そして無理やり老婆に家の中に連れて行かれ、抵抗したおじさんとおばさんは包丁で刺され、殺されてしまった……。
話を聞くうちに、僕は今自分が置かれている状況に対して激しい恐怖を感じたけど、それと同じくらい困惑もしていた。
なぜ老婆はそんなことをするのか。あの老婆と同じように他の家から出てきた男たちは誰なのか。そもそもこの村は何なのか。
そんなことを考えていると、カズキと一緒にリュウジが戻ってきたので、彼が寝ている間に起こった話を簡単に聞かせた。彼の寝ぼけていた顔はみるみる青く変わっていった。
「そんな、嘘……だろ?」
「本当のことなんだ。本当に妙な老婆たちに襲われて、おじさんとおばさんはもう……」
「そんな……」
「とにかく、今から執事のおじさんに知っていることを話してもらう」
カズキがちらりと、すでに座っている執事を見やると、執事のおじさんは頷き、眉間に深い皺を寄せて話をはじめた。
「あの女性たちがこの村であんな生活をしているのは私の……私たちのせいなんだ」
執事はまずそんなことを言った。何かを悔やんでいるような、沈痛な面持ちだった。
「分かるように、最初から説明してくれよ」
カズキがすぐに突っかかって言う。
「……あぁ、すまない。あの村に老婆がいたのを見ただろうと思う。彼女は磯村多恵子といって、かつては日本一で有名な預言者だった」
「預言者ですか? 水晶とかで未来の光景を見たりする、あの」
僕は意外に思った。彼女の容姿は、どちらかといえば中世で魔女と呼ばれていた老婆に近いように感じた。別に魔女に汚らしいイメージがあるわけじゃないけど、預言者というのは、もっと高貴で、清潔な印象があった。
「彼女の予言は私が知る限り一度も外れたことがなかった。そして、彼女の能力を利用しようと考えたのが、当時、連合軍と戦争状態だった大日本帝国政府だった」
「戦争っていうと太平洋戦争?」今度はカズキが聞く。
「当たり前だ」なぜか、少し怒ったように執事は答えた。
「政府――というよりは当時権力を握っていた軍の上層部だな――は彼女を呼びつけ、大日本帝国の未来を予言させた」
そこまで聞いた時点で、僕の頭はピンと閃いた。
「あのお婆さんは日本が勝つと予言したけど、外してしまったんだ。だからこんな場所に幽閉されているんでしょ?」
第二次世界大戦で、日本はアメリカ等の連合国に負けたと授業で習ったことがあるはずだ。
「違う。彼女の予言は当たったんだ。だが、誰もその予言を信じようとはせず、彼女は売国奴の烙印を押され、激しく迫害されるようになった」
「つま、そのり磯村多恵子って女は日本が負けると予言してしまったわけだ」
カズキの言葉に、執事が頷いた。僕らの困惑を察したのだろう、カズキが分かりやすく僕らに説明してくれる。
「つまり、当時の日本じゃ日本が負けるって言うヤツは皆、悪者扱いされたんだよ。それがどれほど正確な予言だったとしてもな」
「その通りだ。そして、既に暴走を始めていた軍部は人心を惑わせた罪でタエコの処刑を決定した。それを担当したのが私だった……」
「え!?」僕の口から自然と声が漏れた。
彼の姿はまだ六十前後に見えた。だとすると大戦当時は相当に若かったはずだ。そもそも、彼はどうしてこんな村の館に一人で住んでいるんだ? 主人がいると言っていたけど、その主人はどこに行っているんだ?
ぐるぐると、疑問点ばかりが僕の頭に浮かんでは消えていった。質問する間もなく、執事のおじさんは話の続きをはじめてしまった。
「私はどうしても彼女を処刑できなかった。独房に入れられた彼女と接するうちに、私の胸には恋心が芽生えていたんだ」
特に恥ずかしがるでもなく、ただ事実を告げるように執事は言った。つまり、彼は恋する人を処刑しなければいけなかったんだ。
「私は悩んだ末に、タエコを絶対に見つからない場所に匿うことにした。彼女が身ごもっていた、私の子と共に。そして目を付けたのが、当時、廃村になったばかりの……」
「この村っていうわけか」カズキが納得したように頷いた。
マナブに目をやると、今にも気を失いそうなほど目がうつろだった。
リュウジは不安そうな表情を浮かべ、真剣に話を聞いていたけど、話についてきているかどうかは怪しかった。
「彼女をここに匿ったまでは良かったが、私との仲を引き裂かれた彼女の絶望は、自分を差別し中傷した人間全体に対する憎しみは、私が考えていた以上に大きかった。彼女は他の場所との交流の全くないこの場所で次第に正気を失っていき、自分の子と、また子を作り、村に迷い込んだ人間を襲うようになっていった」
「戦争が終わってもう何十年も経つのに、こんな村でどうやって暮らしてきたんだよ。例えば食べ物なんかは……」
カズキの言葉に、執事は首を振った。
聞かないほうがいい、ということだろうか。僕は道に迷い、軽トラックに襲われたことを思い出し、背筋がひやりと冷たくなるのを感じた。ひょっとすると、彼女たちはやってきた人間を気まぐれにあの武器で襲い、食べていたのかもしれない……。
僕は彼女たちの妙に出っ張ったお腹を思い出した。極度に栄養が偏ると、確かあんな体型になるんじゃなかっただろうか。
「私は帝国軍人を代表して、彼女たちに償いをしたかったのだ。そして私の償いというのが――不器用なやり方だとは重々承知しているが――彼女たちにこれ以上罪を重ねさせないことだった」
「だからこうしてこの館に暮らして、迷い込んできた僕たちのことを助けてくれたんですね」
確かに不器用な方法かもしれない、でも彼にとってはそれが本当に唯一の償いなんだろう。
「この館も本当は彼女に、彼女と私のために密かに建てさせたものだったんだ。彼女は最後までここに住むことを拒んだがね。この館の本当の主人は磯村多恵子だったんだ」
話を最後まで聞いて、僕はただひたすら悲しい気持ちになった。
おじさんとおばさんが殺されたにも関わらず、自分も殺されかけたにも関わらず、タエコさんのことをかわいそうに思った。
でも、今はここから逃げ出すことを考えないといけない。僕らはいつまでもここにいるわけにはいかないんだ。
「僕たちはここから出たいんです、何かいい方法はないでしょうか?」
僕は乗り出して聞くけど、帰ってきた答えは喜ばしいものではなかった。
「ここに来たものは、私が止めるにも関わらず館から逃げ出し、必ずと言っていいほど襲われている。近くに村や町もない。無事に逃げ出すのは難しいだろう」
「じゃあこれから何年も、ここから出られないの? 助けが来るまでここでじっとしてないといけないの!?」
マナブが立ち上がり、ほとんど叫ぶような声で言った。目にはみるみる涙がたまっていく。
「心配すんなってマナブ。俺たちが行方不明になってることはすぐに分かるんだから、警察が助けに来てくれるよ」
マナブを励まそうとしているのかそれが素なのか、リュウジの声に緊張感はなかった。
だが執事は空気が読めないのか、きっぱりとした口調で、
「本当にこの近くにキャンプ場はないですし、今までここに警察が来たことはありません」
マナブは何を言っているのか分からないといった表情を浮かべていた。僕も全く同じ気持ちだった。あのリュウジですら言葉を失っているようだった。
「警察の助けを待つ必要なんて問題ねーよ」
場の暗い雰囲気を切り裂くような、自信満々といった感じで言ったカズキの声に、僕らは逆に当惑した。
「どうしてさ。今の話、聞いてたでしょう? 僕らには武器もないし、ここから出ると必ず襲われるんだよ。この村にあんな奴らが何人いるかも分からないわけだし」
「大丈夫、おばさんの悲鳴が聞こえたときに、この村はヤバイと思ったから助けを呼んであるんだ」
「助けって……携帯は通じないんじゃないの?」
この村には電波がきてないし、この屋敷には電話もなかったはずだ。
「こういうときのために、過保護の兄貴から非常用情報ツールを持たされてるんだよ。衛星通信を使った通信装置でどんな山奥にいても……」
カズキが言いかけたところで、外から激しい爆発音が聞こえてきた。
二発、三発と、丹田に響くような低い爆発音が聞こえ、僕は食堂の窓に張り付いて外を見た。
「何だあれ……?」
カーテンを閉めた窓から覗くと、村の中央にあった家の屋根が吹き飛び、大きな火が出ていた。その隣の家も壁が崩れ、中の柱や床が剥き出しになっている。
「詳しい説明は後だ、今しかチャンスはない。ついて来てくれ。執事のおじさんも悪いけど、俺たちは何が何でも逃げる。そのためにタエコさんを傷つけることになってもな」
カズキは言うなり、マナブに肩を貸して食堂から出て行った。
迷っているヒマはなかった。ここはカズキを信じて飛び出すしかない。彼と知り合って日は浅いけど、彼が頼りになるっていうことを僕は知っているんだ。
リュウジと並んで食堂を出るとき、ふと執事のおじさんに目をやると、彼は外の光景に驚いていると同時に、何かを諦めたような虚脱した目をしていた。
僕らがここから無事に逃げ出せば、すべてが白日の下にさらされるだろう。彼にとってそれは、決して都合のいいことではないはずだ。
「おじさん……」
「もたもたするな、早く行くぞ!」
リュウジに引っ張られるようにして、僕は走り出した。
入り口の扉の前で、カズキとマナブは僕らを待っていた。カズキは扉に耳を当てて外の様子を探ろうとしていたけど、散発的に起きる爆発音や、家が崩れていくような音のせいでおそらく何も聞き取れないだろう。
「仕方ない、一斉に飛び出して逃げるしかない。これだけの騒ぎだから、あいつらの注意はよそに行ってるだろう」
「ほんとに、ほんとに誰かが助けに来てくれたの?」
真っ青な唇で、マナブは震える声を出した。
「間違いない、外に出たら助けに来た黄色いスポーツカーが停まってるはずだから、振り向かずにひたすらそこまで走るんだ」
僕とリュウジ、そして少し遅れてマナブが頷いた。
「じゃあ行くぞ……」
鍵をひねると同時に激しく扉を開ける。
外ではあちこちに火が燃え移っているようで、開けた瞬間に外の熱気が流れ込んできた。
「いた、あれだ!」
半信半疑だったけど、すぐに入り口から百メートルほど離れた場所に黄色い車が停まっているのを見つけた。
あれがカズキのお兄さんだろうか、車のそばでは百キロ以上はありそうな体の大きな男の人が、こちらに向けて大きく手招きしていた。
その口は何かを叫んでいるようだったけど、木が燃えるぱちぱちという音のせいで、何て言っているかは聞き取れなかった。
ざっと見る限り、タエコさんやその子どもたちの姿はないようだった。
一番前に立っていた僕がに外に出て、車に向けて駆け出そうとした瞬間、左肩に衝撃が走り、体が軽くなったと思うと目の前が真っ赤になった。
「ぐぁあぁッ!」
激しく頭から地面に倒れこみ、なんとか顔だけでそちらを向くと、憤怒の表情をした全裸の男が、こちらに向けてこん棒を振り上げていた。
さっきのカズキのお兄さんの行動が脳裏をよぎる。
ひょっとしてあれは手招きじゃなく、『館に戻れ』というジェスチャーだったんじゃ……。
男は痩せていたものの、若く、力がありそうだった。木を削ったこん棒は丸太のように太く、僕の頭は完全に潰れてしまうだろう。
僕は襲い来る衝撃を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
次の瞬間、ぱぁん、と乾いた音が当たりに響き渡った。
目を向けると、まだ三十前後に見える全裸の男の眉間には穴が開いていた。白目をむき、こん棒を取り落としたと思うと、男はその場に倒れ落ちてしまった。
振り向くと、カズキやマナブの後ろに、執事のおじさんが立っていた。その手には穴の先から煙を吐き出す、古そうな小銃を構えていた。
「走れ!」
おじさんの大声にびくりと反応し、僕らは再び走り出した。
走り出してすぐに、左肩を動かすたびに激痛が走ることに気づいたけど、僕の怪我に気づいたリュウジに支えられて、燃えるような痛みに耐えながら懸命に走った。
足が地面に着くたびに、目の前がちかちかして気をしっかりもたないと倒れこんでしまいそうだった。
「までぇぇぇぇええぇぇぇぇッ!」
そんな、獣のような雄叫びが聞こえたと思うと、左側に建っていた家から老婆が現れた。右手には血のついた包丁を握り締めていて、僕は激しい怒りと恐怖に押しつぶされるようだった。
とっさにカズキが拳くらいの大きさの石を投げ、石はタエコさんの額を割り鮮血が噴き出した。
「ああああぁぁああぁあああぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁっ!!」
顔を振り、涎を撒き散らし、もはや人間のものとは思えない声を出しながら、なおもタエコさんは僕らを追おうと細い足を引き摺っている。
僕はこんな状況にも関わらず、こうまでして人間を恨むタエコさんに同情しないわけにはいかなかった。
タエコさんは僕らに追いつくことはできなかった。
他にも数人の裸の男たちが、藁葺き屋根の家から出てきたけど、僕らは必死で石を拾っては投げていき、汗だくになりながら走り続けた。
何本も男たちの手が伸びてきたが、ギリギリのタイミングで僕らは二人乗りの黄色いスポーツカーの前にたどり着いた。
「早く、早く乗って!」
大学生くらいだろうか、カズキのお兄さんが叫んでから、運転席に巨体を押し込んだ。
次いで助手席に僕とリュウジ、それからカズキとマナブが折り重なるように乗ると、助手席のドアを閉めた。
次の瞬間、車に追いついた裸の男がこん棒を振り下ろし、助手席のガラスが砕け散った僕らの頭に降り注いだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」車内がそんないくつもの悲鳴で満ちた。
もう一度男がこん棒を振りかぶっていたので、とっさに手で頭を守ると、その上からさらに粉々になったガラスが降り注いできた。
裸の男はドアを開けようと割れた窓ガラスに手をかけたけど、その男を引き摺って、黄色いスポーツカーは一気に加速した。
男は慌てて手を放し、ごろごろと転がって動かなくなった。
その後ろで、館の一部が激しく燃え盛っているのが視界に入った。きっと火が燃え移ってしまったんだろう。
「助かった……?」
ひとりごとのようにつぶやき、深く息を吐き出してから、車内に目を向けてみる。
マナブは車が発進するなり意識を失っていた。リュウジはじっと館を振り返り、さすがのカズキもほっとしたように天井を見上げていた。
猛スピードで、僕らはその『村』を抜けていった。
どん、どぉん、と続いて爆発音が聞こえ、無理やり首を伸ばして後ろを向くと、館の二階部分にまで火は達していた。
執事のおじさんはどうなっただろう……それだけがひどく気になったけど、引き返すわけにはいかなかった。
カーブを曲がると館は高い木に隠れて見えなくなってしまった。
村が遠ざかっていき、恐怖感が少しずつ消えていくとともに、僕の頭の中には山ほどの疑問が浮かんできた。
「カズキ、あの爆発はいったい何なのさ!?」
「そこのソウタっていう、俺の兄貴がやったんだ」
「ビックリさせてごめんね。でも、ウワサじゃ暴力組織が麻薬を密造してるっていうから……」ソウタさんは申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、じゃねーんだよデブ。こんなにあちこち爆破しやがって!」
「ごめんよ、カズキ~」ソウタさんが情けない声を出す。弟には弱いのかもしれない。
「でも暴力組織じゃないのなら何だったの? えらく原始的な雰囲気だったけど……」
何も分かっていない様子のソウタさんに対して、カズキが代表してこの村で起こったすべてを説明した。
ソウタさんは時どき質問をはさみながら、器用にハンドルをさばいていった。
「境遇には同情できるけど、それにしてもタチが悪いな、迷い込んだ人間を無差別に……だなんて」
僕はマナブのお父さんとお母さんのことを思い出して気分が悪くなった。マナブ君が目を覚まし、落ち着いた後のことを考えると、さらに胸が痛くなった。
それでも、村人たちがあのまま炎にまかれて死んでしまったとしても、それが自業自得だとは僕はどうしても思えなかった。
「それでさ、さっきの爆発だけど、何でお兄さんにはそんなことができるの?」
僕が座席の下から顔を出して言うと、カズキがその疑問に答えてくれた。
カーブでぶつけるたびに左肩に激痛が走り、額に脂汗が浮かんでいたけど、どうしてもそれだけは聞いておきたかった。
「兄貴は中学でいじめられて、それからずっと家に引きこもってたんだ。それから俺たちの両親は事故で死んだんだけど、それでも家から出たくなかった兄貴はダメ元で、家で石けんを作ってネットで売り始めたんだ」
「それが大ヒット」ソウタさんが口を挟む。
「大ヒットしたのはいいけど、何を考えてるのか石けんを作るときに使うグリセリンで爆弾を作り始めて、今じゃ犯罪者の仲間入りさ」
「『ファイト・クラブ』は観た? 最初は爆弾でクラスメートに復讐するつもりだったけど、爆弾を作るだけでなんだか自信がついてきて……もういいかなって。今じゃ夜だけは外出できるようになったんだ。外出っていってもコンビニに立ち読みに行くかドライブするかくらいなんだけど」
ソウタさんは自慢げだったけど、僕には外に出ることの何がすごいのかよく分からなかった。それにしても爆弾を犯罪や復讐に使わなくて本当に良かった、僕はそう思った。
それから、車の中に沈黙が訪れた。
無理もなかい、あんな悲惨な目にあったんだ。皆、心身ともに限界まで疲れ果てている。
そういう僕も限界のようだった。僕は目をつむり、その暗闇に身を任せようとする……と、静寂を切り裂いて、激しいエンジン音が聞こえてきた。
顔を伸ばして後ろを見ると、村に入るときに追ってきたボロボロのワゴンが猛スピードで追ってきていた。
「おいデブ、あの車は村の奴らものもだ。あの車に追われて、俺たちは村に入ったんだ」
ソウタさんが、バックミラーでちらりと後方を確認した。
スポーツカーが乗員オーバーなのか、ワゴンに物凄いエンジンを積んでいるのか、ワゴンはスポーツカーのわずか二メートルほど後ろに迫っていた。
「ぶつける気だ!」リュウジが叫んだ。
ソウタさんはアクセルを踏み込むと同時に、激しくハンドルを左に切った。
僕は皆の足元を転がるように移動した。ぶつけた肩が千切れるように痛かく、僕は必死になって歯を食いしばった。
後ろの車を振り切れなかったのだろうか、ソウタさんは舌打ちすると、
「カズキ、ダッシュボードの中の発炎筒をこすって、窓から投げてくれ」と叫んだ。
言われた通り、カズキが僕の頭の上で発炎筒をこすって後方に投げると、次の瞬間、目がくらむような光が辺りを覆った。
僕はとっさに腕で目を守り、数秒待ってからゆっくりと目を開けると、同時に後方で激しいクラッシュの音が轟いた。スピードを出しすぎていた車と大木が思い切り衝突したような、激しいクラッシュの音だった。
運転席のソウタさんはいつの間にかサングラスをかけていて、
「こんなこともあろうかとね、スタングレネードさ」僕に向かって笑ってみせた。
「見てよ、前」
しばらく黙っていたリュウジが前方を指差した。
ふらふらとしながら頭をあげてそちらを向くと、いくつもの回転する赤いランプが見えた。
「僕が呼んでおいたんだ。バックレる予定だったけど、カズキの友達のご両親が亡くなっているのを見つけてしまったら、そういうわけにもいかないから」
ソウタさんは神妙な顔で言うと、スポーツカーを路肩に寄せた。
「発炎筒は俺が拾ってくるよ。ほかに証拠は残してないだろうな?」
カズキが言うとソウタさんは親指を上げて、
「ぬかりはないよ」と答えた。
やってきたパトカーに、僕らは無事に保護された。連なって現場へと向かう何台もの消防車とすれ違った辺りで、疲れ果てた僕は眠ってしまった。
気が遠くなるほど長い夜だった。僕がはじめて『異空間』に足を踏み入れた事件は、こうして終わりを迎えたのだった。