村の異(3)
「もうガソリンが少ない。今から引き返しても、ガソリンスタンドがある所まではもたないだろう。それに……」
また、いつあの車が襲ってくるかもしれない。おじさんがそう言いたいことが僕には分かった。
「じゃあどうするのよ!? さっきからいくらかけても携帯が繋がらないし、こんな宿も無さそうな場所で立ち往生だなんて」
「俺に聞くなよ。そもそも地図を持ってたのはお前だろうが。こうして迷ったのも全部お前のせいじゃないか!」
「なによ、あなただって……」
すすり泣くマナブの声と、怯える僕らに気づいて、おばさんは言いかけてやめた。
「ごめんなさい……。それより、今はこれからどうするか考えましょうよ」
「そ、そうだな」
その村は地図に載っているかすら怪しい、ほんの小さな集落だった。
藁葺き屋根の家が二十棟前後、広い間隔で建っていて、その間には猫の額ほどの荒れた畑が放置されていた。
村の最奥には村の地主のものだろうか、かなりの広さがありそうな館がかろうじて見えたけど、霧のせいでその全体を見ることはできなかった。
「とりあえず、車から降りたほうがいいですよね」
「確かに、ここにいてもどうしようもないしね」
比較的落ち着いているカズキの意見に、おじさんも同意する。
車に追われているときにおしっこをチビって、今も膝が震えている僕と比べて、カズキは頼もしかった。リュウジさえ、まだ顔が真っ白だっていうのに。
僕らはそろって車から降りた。
マナブだけは最後まで降りたくないとゴネていたけど、一度全員が降りてしまうと、毛布にくるまったままおそるおそる降りてきた。おじさんがその肩を抱いてやる。
おばさんが持ってきていた懐中電灯をつけたけど、月明かりで周囲の様子はなんとなく分かった。
「廃村かな? もし人がいるようなら電話を借りて、できるならどこかで少し休ませてもらおう」
僕らは最寄りの家に向かって歩き始めたけど、近づくほど、そこに人が住んでいると考えるのは絶望的に思えた。
軒下には蜘蛛の巣が張り、玄関の前には古い農具が散乱していた。もちろん灯りもない。どの家も屋根が落ち、何年も放置されていたように汚らしかった。
「誰か……いますか?」
おじさんは返事がないのを分かって、中に声をかけているみたいだった。
予想通り反応はなかった。仕方なく、僕らはその家を離れることにした。
そのとき、一番後ろを歩いていた僕の耳に、コトリ、と物音が聞こえた。
慌てて後ろを振り返ると、割れた戸の隙間からこちらを覗いている目と、目が合った。
「ひっ……!」
全身が粟だっていき、僕は声にならない悲鳴を上げた。
一瞬でパニックになり、慌ててそこから逃げようとしたけど、ひょっとすると見間違いかもしれないと考え、ほとんど無意識のうちにもう一度戸のほうを振り返っていた。
そこにもうこちらを覗く目はなく、割れた戸の先には黒々とした闇が広がるだけだった。
「気の……せい?」
僕は釈然としないまま、急いで皆のところに戻るとおじさんの手をつかんだ。おじさんは何も言わずに僕の手を握り返してくれた。
すべての家を回ったけど、どの家にも人が住んでいる気配はなく、僕らは仕方なく村の中心に位置する館を目指した。
村の総面積の五、六分の一ほどはありそうな壮大な館は、眺めるだけでその人間を畏怖させるようなオーラがあった。
村でその建物だけ洋風の造りで、趣向の凝らされた窓の向こうに、この村で唯一見つけることができた灯りが見て取れた。
「灯りがあるってことは、人がいるんだよな? まさかお化けだったりして」
「まさか」僕は内心の怯えを隠して答える。
もはや冗談に聞こえないけど、リュウジは少しずついつもの調子を取り戻しているらしかった。
心配なのがマナブで、おじさんに背負われたその顔には生気がなかった。おばさんもさっきから足元がおぼつかないようで、かなり調子が悪そうだ。
僕ら六人は、何度も後ろを気にして振り返りながら館の前に立った。館に似合った大きなドアには、ライオンをかたどったノッカーが付いていた。
「じゃあ、叩くぞ……」
そう言った後に、おじさんが唾を呑み込む音が聞こえてきた。
緊張で、汗をかいているのに体の芯が冷えているような感じだった。僕はじっとおじさんがノッカーを叩くのを待った。
ゴン、ゴン、ゴンと、村中に聞こえるんじゃないかっていう金属音が響き渡った。
中から誰も出てこないのも恐ろしかったけど、誰かが出てくるのも恐ろしかった。こんな村に一人で住んでいるなんて、きっとまともな人間じゃない。
だけど、ここでモタモタしていたら、いつさっきの車が追いかけてくるか分からないんだ。
ガちゃりと音がして内側から戸が開けられ、一瞬、僕は息を呑んだ。
予想に反し、中から姿を現したのは、別段怪しくも見えない六十前後の初老の男だった。
パリッとした服装に、肩から妙なたすきのようなものを掛けている。この屋敷の執事の正装なのかもしれない。
口ひげを整え、切れ長の目は怖かったけど、
「あなた方は?」そう言う口調は穏やかだった。
「実は道に迷って、それから変な車に追いかけられてしまいまして。ところで私たちはSキャンプ場に行く予定だったんですが、Sキャンプ場はこの近くですかね?」
「変な車……? それは物騒ですね。それに、そのようなキャンプ場は聞いたことがない。おそらく、かなり正規の道から外れてしまったようですね。もしよければ、今日はこちらに泊まっていかれては?」
正直、そう言ってもらえてありがたかった。
できればこんな気味の悪い村にいたくはなかったけど、これからまたあの山道を何時間も走ってキャンプの準備だなんて、冗談じゃなかった。
「本当ですか? それは助かります」
「それでは、何の用意もありませんが、どうぞ中へ」
僕らはぞろぞろと執事の後ろについて中に入った。
「すっげー、なんだここ! こんな家買ったらいったいいくらするんだよ」
「こ、こら!」
「だって本当にすげーんだよ。見てよ、この絵なんてさ」
「分かった、後で聞くから。今は黙ってなさい」
おじさんに注意されるリュウジだったが、リュウジが驚くのも無理はなかった。
赤いカーペット、高そうな絵、見上げるような吹き抜けの天井と、内装はとても豪華で、目を見張るものだった。
それだけにこんな廃村に建っているというのは異質で、ひたすらブキミだった。
部屋まで案内するという執事について歩いていると、しばらく黙っていたカズキが口を開いた。
「この村って、廃村なんですか?」
「人は少ないけどちゃんとした村だよ、ボク」
「でも家には誰もいなかったみたいだし、畑だって荒れ放題で……」
いつものめんどくさそうな感じとはうって変わって、カズキは興味津々といった感じだった。
「もう皆、眠っているんだよ。畑仕事だってしている家としていない家があるし」
「だってこんな村で、畑仕事もしないでどうやって生活を? 何か生産しているものがあるの? それにあの車だっておかしい。それ以前に、寝るって言ってもまださ……」
「そのくらいにしときなさい」
確かに気になるところだったけど、さすがにしつこいと思ったのかおじさんがたしなめた。なんだかこの村について深く聞いてしまうのが怖い、僕と同じでそんな思いがあったのかもしれない。
カズキは不服そうにしながらも、黙って従った。仲良くなるまでちょっと取っつきにくい感じだったけど、本当は素直な子なんだ。
案内されたのは二階の部屋だった。
部屋は隣り合わせの、二人部屋と四人部屋だった。調子の悪そうなおばさんとマナブが二人部屋に入り、残る四人が四人部屋に入った。
ベッドが四つと洗面所、トイレがあるだけのシンプルな部屋だったけど、それなりに広かった。これだけの広さの割りに手入れが行き届いているのか、埃ひとつ落ちてないほど綺麗に掃除されていた。
「それでは浴室の準備ができたら呼びますので、しばらくこちらでお休みください」
「親切にありがとうございます」
「おじさん、迷ったのにホテル代が浮いて良かったね」
「こら、またお前は!」
リュウジはおじさんに軽いげんこつを食らって、大げさに痛がっていた。マナブの家の親子と違い、こっちはすっかりいつもの調子だ。
そのおかげか、僕もようやく肩の力を抜き、落ち着きを取り戻すことができていた。
カズキは相変わらずマイペースで、怖がるというよりこの館のことが気になるようで、早くも部屋のあちこちを見て回っていた。
「夜は野生の動物も出ますので、決して外には出ないようお願いします」
それだけ言い残して、執事はさがっていった。
「じゃあ執事のおじさんが呼びに来るまで、皆で枕投げでもやろうぜ!」
もちろんそんなことを叫んだのはリュウジだ。
「あんまり暴れるなよ……でも、面白そうだな」
おじさんがにやりと笑って言い、それから僕らは執事が来るまで本当に四人で軽く枕投げをした。その間だけは僕らの顔に笑みが戻り、それはまるで胸にしつこく残る恐怖を振り払おうとする一種の儀式のようだった。
「お待たせいたしました、浴室の準備が整いました」
すぐに執事がやってきて、今度は僕らを浴室に案内してくれた。結局、部屋で休んでいるマナブとおばさんは来なかった。
浴室は泳げるほどの広さはないものの、四人で入るには十分な広さがあった。タイル張りの床はきらびやかで、この館の持ち主はよほどの財力の持ち主なんだろう。
「いろいろあったけど、ここに来れて本当に良かったよな」
「一時はどうなるかと思ったけどね」
湯船の中に隣り合って座るリュウジの言葉に、僕が答える。それを聞いていたおじさんも、機嫌が良さそうに言う。
「キャンプは残念だったけど、こんな綺麗な館に泊めてもらえたのは運が良かったな。キャンプはまた、夏休みに計画を立ててまた行こうよ。それまでにナビを買っておくからさ」
僕らはもう、そのときには朝になれば無事に家に帰れると確信していたんだ。何事もなく、朝の光を浴びて、昨日は怖かったね、なんて話ながら家に帰れると……。
浴室から出ると、すぐに一階にある食堂に案内された。執事が言うには、マナブとおばさんは先に食堂で待っているそうだ。
「こんなすごい家だからさ、きっと夕飯も豪華だよ。たぶんステーキだな。俺ステーキ好きなんだよ、カズキは?」
執事について歩く間、リュウジは心底楽しそうに、カズキに向かって言った。
「俺は魚のほうが好きかな、ユウは?」カズキが僕に振り、
「僕はグラタンが好きだよ、おじさんは?」僕はおじさんに振る。
「俺か? 俺は天ぷらと刺身だな」
「何が出てくるか楽しみだよな~」
僕らはそんなことを喋りながら、案内されるままに食堂に入った。執事のおじさんは一度も口を開かなかった。
学校の教室くらいの大きさの食堂には木製の長机が置かれていて、マナブとおばさんはもう空いた席に着いていた。
マナブとおばさんは休んで少し元気になったようだった。顔色も先ほどと比べるとずいぶんマシになっていた。
「ごめん、ちょっと心配かけちゃったね」マナブはそう言って笑うけど、その笑顔はまだ少し辛そうだった。
話をしていると、すぐに料理が運ばれてきた。
「え……?」
その料理を見た僕らは言葉を失った。
皿に乗った料理は、豆やコーン、鯖の味噌煮など、まるで缶詰にでも入っていそうなものばかりだった。
「どうぞお召し上がりください」
特にふざけた様子もなく、執事はそう言った。
「き、きっと館の主人の宗教上の理由とかで、肉が食べられないんだろう。食べてみたらきっとおいしいよ」
おじさんはそう言ってコーンをたくさんほおばったけど、それきり何も喋らなくなった。
「俺の、俺のステーキが……」
リュウジは明らかにがっくりと肩を落とし、マナブはまた理由も分からず怯えているようだった。カズキだけが気にする様子もなく豆を口いっぱいにほお張り、一気に飲み込むと執事にこんなことを聞いた。
「おじさんは、この館の執事だよね。この屋敷ってさ、主人とかはいないの?」
「……ご主人様は家を空けられています。この屋敷は今、私が一人で管理しています」
「へー、そうなんだ」
興味なさげに言うと、カズキはまた豆を口いっぱいにほお張った。美味しそうに租借し、ごくりと飲み込む。
僕も諦めて、皿に盛られた料理を食べた。案外、味は悪くなかった。料理をすべて食べ終わると僕らは部屋に戻ろうと立ち上がった。
食堂を出る直前に、おじさんが何かを思い出したように振り返って、執事のおじさんに聞いた。
「聞き忘れていましたが、この屋敷に電話はありますか? 携帯の電波が入らないようなので、電話をお借りして、キャンプ場の管理人に連絡したいのですが。断りを入れないと心配するかもしれないので」
「携帯……ですか?」そこでなぜか、彼は不思議そうな表情をした。「残念ですがこの屋敷に電話はありませんし、外部と連絡するために外へ出ることもやめた方がいいでしょう」
「なぜです? ここにそんなに危険な野生動物がいるんですか?」
執事は質問に答えず、ただ怖い顔をして、
「あなたたちの生命のためにも、決して屋敷を出ないでください」
僕の横で、赤みを帯びはじめていたマナブの顔が一気に蒼白に変わっていった。
ここは危険だ、何か不吉な予感がする。僕の本能が耳の奥でしつこくそう告げていた。