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旧校舎の異(7)

 走り出してすぐに、僕は違和感に気づいた。でも感じることはできても、なかなかその違和感の正体をつかむことはできなかった。

 児童館から小学校までは、人通りの少ない道を五分ほど走る。電灯の間隔の遠い、寂しい雰囲気の坂道だった。

 ようやく半分ほどきたかと僕が気を抜きかけたところで、不意に、前方からキョウコさんの声が飛んできた。


「いい、振り向かないで。絶対に振り向いちゃダメよ!」


 僕と、僕のすぐ前方を走っていたユウカさんはその声に驚いて足を止めた。

 その瞬間に、僕はようやく違和感の正体に気がついた。

 僕とユウカさんが立ち止まった瞬間に、僕の後方でほんの一歩分だけ足音がした。僕の後ろには誰もいないはずなのに……。

 足音がひとつ多い。それがさっきから感じていた違和感の正体だったんだ。

 気づけば肩で息をする僕の耳元から、同じようにはぁはぁという荒い息遣いが聞こえていた。僕のすぐ後ろにある気配は、男のもののような女のもののような、老人のような子供のような、掴みどころがなくなんとも気味の悪いものだった。


「走らなくていいから、ゆっくり歩いて。いい、絶対に振り向いてはダメよ」


 前を向いたまま言うキョウコさんに向けて、僕は涙目になりながら何度も頷いた。

 僕から一メートルも離れていないところに、誰かが立っている。あんまり怖くて、僕はすぐにでも振り返ってそこに何がいるか確認したかった。

 僕は震える歯を必死に食いしばって、そのままゆっくりと歩き出した。

 足音はずっと、僕らと同じペースで僕の真後ろをついてきた。

 気味が悪かったけど、遠くに校門が見えてくるまでは、こちらに何かをしてくることはなかった。

 校門が見えた瞬間、僕は焦って歩く速度を速めた。すると、それを追うようにして後ろから低い男の声が聞こえてきた。


「待って……ちゃんと飛び込んだはずなんだよ。光が近づいてきたから思い切り飛び込んで、確かに頭が潰れた感触があったんだ、そう、まるでトマトみたいにさ。ならどうして、僕はこうして歩いているんだい? 頭が無くなっても人間はこうしてあるけることができるかい? 振り返って、見てみてよ。僕がどうなっているのか。見て……」


 僕の肩のほとんど横に、誰かの顔があるのが分かった。僕は浅い呼吸をし、鼻水を垂らしながらゆっくりとその顔を……


「見てはダメ!」


 キョウコさんが傘で地面を叩く音に、僕はハッとなった。


「目をつむって、頭の中に巨大な鐘をイメージして。教会の鐘でも、寺の鐘でもいいから」


 僕はキョウコさんの言うとおりにする。目を閉じた瞬間、誰かが僕の顔を覗き込むのが分かった。

 ぽたり、ぽたりと地面に滴る水音が聞こえてきた。


「頭の中その鐘を鳴らすの。ゆっくり三回、響きの震動にまで意識を行き届かせて……」


 ごぉーぅんぅんぅんぅ……、と僕の頭の中で三度鐘が鳴った。

 気がつくとあれほど強かった気配が嘘のように消えていた。ゆっくりと目を開けると、キョウコさんがこちらに近づいてきているところだった。


「簡単な魔よけよ。絶対に効くという保障はないけど、うまくいったようね」


 僕はキョウコさんに心から感謝した。キョウコさんがまた慌てて走り出すので、僕もそのあとを追った。

 三人揃って学校の中に入った。

 校舎のわきを抜け、雑木林に差し掛かった辺りから、ユウカさんの様子がおかしくなった。


「何よ、何なのよこれ……」


 ユウカさんは急にそんなことを呟いたかと思うと、歯をがたがたと鳴らしはじめた。

 最初は奇妙に思ったけど、僕にもすぐに彼女が取り乱している理由が分かった。旧校舎が見える位置まで来た時点で、僕にさえもその校舎が放つまがまがしい雰囲気を感じられたんだ。

 きっと異世界へ通じる扉を敏感に察知できるユウカさんさえ、こんな扉を目の当たりにするのははじめてのことなんだろう。

 そんな中でキョウコさんだけが、いつものように飄々として僕らの先頭を小走りで旧校舎へ向かっていた。僕もユウカさんも、彼女がいなければもうとっくに引き返してしまっていただろう。

 旧校舎の上にはまだ月が出ていて、闇の中に薄ぼんやりと古びた校舎を浮かび上がらせていた。


「時間がない、入るわよ」


 少し額に汗を浮かべたキョウコさんが言い、僕とユウカさんも決心してキョウコさんに続いて旧校舎の中に入る。

 入った瞬間、ひんやりと冷たい空気が肌に絡み付いてきた。


「例の件はどこにいたの?」

「図工室です。一階の廊下を右にずっと進んだところにあります。僕が案内します」


 そう言ってから、僕はキョウコさんの前に出た。心から怖かったけど、そうしないわけにはいかなかった。いつまでもキョウコさんに一番危険な前方を歩かせるわけにはいかない。

 キョウコさん何も言わずに僕の後ろをついてきた。

 何かに呼び寄せられるように、僕は廊下を疾走した。

 廊下の隅にうごめく黒いものがある気がしたけど、僕はそちらに視線をやらないようにして、ようやく図工室の前についた。

 図工室の前に立つと、部屋の中からゆらゆらとした明かりが漏れているのが分かった。もう旧校舎に電気はきてないはずだから、ろうそくの明かりか何かだろう。

 間違いない。あそこに開きつつある異世界へ通じる扉があり、カズキがいるんだ。まさかもう、生贄も一緒に……。


 僕は振り返ってユウカさんとキョウコさんに頷いて見せると、思い切り図工室の扉を開いた。


「……!!」


 目に飛び込んだ光景に、僕は息をのんだ。

 相変わらず血にまみれ、異臭に包まれた図工室の中央に女の子が倒れて、女の子を中心にろうそくが等間隔に立てられている。

 その傍らに憮然とカズキが立っていたんだ。大ぶりのナイフを手に握ったままこちらを向いて。


「よう、来たのか」


 カズキは家に遊びに来た友達に言うみたいに言った。

 図工室の窓からは雲に隠れようとしている満月が見え、その仄かな光によってカズキの表情までは分からなかった。


「その子は……」


 床に倒れた子を見て、僕は息を呑んだ。少女は僕と同じ飼育係で、一緒に旧校舎に忍び込んだユキコさんだった。

 僕の後ろでキョウコさんはただカズキを睨みつけ、ユキコさんは信じられないという表情を浮かべ手で口を押さえていた。


「まだ生きてるよ、旧校舎に忍び込んでいたから眠ってもらってるだけだ」


 ユキコさんはひょっとすると、旧校舎に忍び込んだとき僕が図工室で何か見ていたことに気づいていたのかもしれない。だから旧校舎にまだ小動物たちがいる可能性を捨てきれずに、一人で調べようとしてカズキに捕まったんだ。


「彼女を生贄にするつもりなの?」

「なんだ、そこまで分かってるのかよ。そういえばユウも件の予言を一緒に聞いてたしな」


 カズキは僕に向かって答えると、腕に巻いたG-SHOCKをに目をやった。


「あと十分だ。十分でまた兄貴に会えるんだ。そのとき、悪いけどこの女には……」


 カズキはユキコさんを見下ろし、微かに顔を歪めた。

 その表情は、カズキがユキコさんを傷つけることにためらいを覚えているようにも見えなくもなかった。小動物でなく、人間を傷つけることに対して、まだ覚悟を決め切れていないのかもしれない。


「ハッキリ言うけど、もしソウタさんに会えたとしても、それは決してソウタさんじゃない。ソウタさんとは違う別の何かよ。それを呼び出すことは、同時にソウタさんの尊厳を傷つけることになるわ」


 キョウコさんの痛烈な言葉に、カズキが激昂する。


「うるせぇよ! お前に訳の分からない世界に取り込まれた挙げ句、犬に喰い殺された兄貴の気持ちが分かるのかよ。俺のせいで、俺のせいなんだよ……」


 僕はうつむくカズキの姿を見てはじめて、彼がこんなことをする理由を理解した。

 カズキは自分を責めてるんだ。たった一人の、最後の肉親を守れなかった自分のことを。考えればそれも当たり前のことだ、カズキは自分の目の前で、たった一人の大切なお兄さんを亡くしてしまたのだから。


「ソウタさんがああなったことにあなたに責任はない。それよりも、その扉を開いたらどうなるかあなたも分かってるのでしょう?」

「もちろん分かってるさ。世の中がメチャクチャになるんだろ。兄貴がクラスのほとんど全員からいじめられて一歩も外に出られなくなるような世界より、もっとメチャクチャにさ」


 言って、カズキはとても可笑しそうに笑い出した。その声とシンクロするように、二階で何枚かの窓ガラスが割れる音がした。


「きゃっ!」ユウカさんが短い悲鳴を上げ、

「カズ君、もうやめてよ」とその場にへたり込んで、泣き出してしまった。

「ユウカさん……」


 ユウカさんは嗚咽を漏らしながら、


「私には分かる、もしもソウタさんを呼び出すことができても、呼び出したカズ君にきっと危険が及ぶわ。ソウタさんだけじゃなく、私のせいでカズ君までいなくなってしまったら、私もう、どうしたらいいか分からない」


 ユウカさんが言い終えると同時に、辺りからひそひそとした女の子のささやきや笑い声が聞こえてきた。

 僕はろうそくの明かりの揺らめきによって明滅する図工室の隅の暗闇をしきりに気にしながら、カズキの反応を見守った。


「ユウカ、もう遅すぎるよ。こうでもしないと、俺の胸の空洞はずっとずっと埋まらない。たぶん死ぬまでずっとだ。兄貴がいなくなって、俺の中身はずっと空っぽだ。未だに飯を作ったら兄貴の部屋に声をかけてしまって……兄貴がいなくなったことを思い出して絶望したりする。何度も何度もだ。俺は兄貴がいないことを受け入れられそうにない。兄貴のいない世界に生きるのは、もう疲れた」


 ユウカさんが泣き崩れ、カズキは目を閉じたユキコさん向けて、ナイフを振り上げる。


「殺せ」「死ね」「地獄へ落ちろ」「許さない」「殺せ」「苦しい」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「呪ってやる」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ」「殺せ!」「殺せ!!」


 まるで念仏でも唱えるように、子供から老人まであらゆる声が部屋中のあちこちから響いてきた。


 恐怖に足をすくませながらも、僕はそれ以上黙っていることはできなかった。


「カズキ!!」


 僕の叫び声にキョウコさんとユウカさんはハッと顔を上げ、得体の知れない声は次第に小さくなっていった。


「ユウまで俺に説教するのか?」ユキコさんに向けて振り上げたナイフをおろさないまま、カズキは言った。


「違うよ、僕は怒ってるんだ」

「は? お前、こんなときに何を言って……」

「カズキはどうして僕を頼ってくれなかったのさ。僕ってそんなに頼りないの? 僕らはいくつもの異空間を一緒に冒険した友達じゃなかったの?」

「いや、今そんなこと言ってる場合じゃ……」

「大事なことなんだよ!」


 僕が涙声で叫ぶと、カズキは真剣な顔になった。


「確かにソウタさんと比べたら、僕はカズキとの付き合いも短いし、これといって取り柄もなくて平凡な僕じゃ一緒にいても面白くないかもしれないさ。でもそんなこと関係なく、僕たちは親友だろ。それほど悩んでるのに、一言も相談してくれないってないよ!」


 僕は怒っていたんだ。そう、カズキが僕に隠れてこそこそ何かをやってるってことに気づいたときからずっと。

 こういうときこそ相談し合えなくて、何が親友なんだ。

 図工室の窓から見える月が微かに欠けはじめた。そこには誰もいないはずなのに、図工室の外や隣接している準備室のほうがにわかにざわつきはじめる。


「やるなら僕を生贄にしなよ」

「は、本気で言ってるのかよ……!?」

「僕は本気だ。カズキはもう一度ソウタさんに会うべきだよ。会って、きちんとお別れをするべきなんだ。カズキだって分かってるんでしょう、またソウタさんと以前と同じように暮らすことはできないって。できるのはカズキとソウタさんのために、きちんとお別れをすることくらいさ。でもユキコさんがいなくなると飼育小屋の動物たちが困るから、僕が生贄になる」


 突然、僕の頬に鋭い痛みが走った。顔を上げると、キョウコさんが僕の頬を叩いたんだと分かった。


「バカ、何言ってるのよ! 生贄になるのがどういうことか分かってるの!?」

「でも、他に方法がないです。それにこのまま扉が開いて僕らが無事でいられるという保障もありません。扉が開かなくても、このままじゃ何が起こるか……」


 窓の外に視線を向けると、満月に照らされた空は紫色に変わっていた。何かが起こる前兆であることは間違いなさそうだった。


「でも、そんなこと」


 キョウコさんが口ごもり、沈黙が訪れる。その沈黙を打ち破ったのは、硬い金属音だった。

 カズキがナイフを地面に投げ捨てた音だった。


「俺がユウを刺すなんて何の冗談だよ。皆して俺のことを邪魔しにきやがって!」


 カズキは両手で茶髪に染めた頭をがりがりと乱暴にかきむしった。


「目の前に兄貴に会えるチャンスをぶら下げられて、引くに引けなかった。俺は兄貴ともう一度会いたかっただけなんだ。それがどうしてこいんな……。チクショウ、チクショウ……」


 カズキは右手で顔を覆った。その奥から涙が頬を伝うのがここから見て取れた。

 僕はこの光景を見越して、自分を生贄にしろなんて大それたことを言ったのだろうか。でもあのときの僕の気持ちに嘘はひとつもなかった。ただ必死で、目の前の親友にとって最良の方法を模索しただけだった。

 いまさらながら、僕は恐怖にがたがたと震えはじめてしまった。


「カズキ……」


 ひょっとするとカズキも心のどこかで、誰かに止められるのを待っていたのかもしれない。

 僕はカズキに近づき、僕より少し高い、その震える肩に手を置こうとした。

 そのときだった。


「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ!」


 突然旧校舎中に、いや、学校の敷地すべてに響くような、まるで獣が発したような咆哮が轟いた。

 体中に感じたびりびりとした震動から立ち直ると、床に倒れていたはずのユキコさんが起き上がり、歯を剥き涎を垂らしてこちらを睨みつけていた。

 彼女の白目を剥いた目は、どう見ても正気とは思えなかった。

 ユキコさんの向こうで、紫色の空に浮かんでいた月が黒く塗りつぶされていくのが分かった。地球が太陽と月の間に入っていく、皆既月食が始まったんだ。

 一斉に誰かが吹き消したようにろうそくの火が消え、図工室は完全な暗闇に包まれた。

 さっきまであんな威勢のいい言葉を言っていたにも関わらず、ユキコさんのあんな姿を見た僕は足がすくんで動けなくなっていた。


「逃げるわ、急いでこの部屋から出て!」


 キョウコさんの声がどこか遠くで聞こえた気がした。僕はカズキがいた辺りに手を伸ばし、その手をつかむと全力で駆け出した。

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