旧校舎の異(4)
「ここに何か得体の知れない生き物がいて、それを世話する人間がいることは分かってた。そいつに小動物を与えたりして。でもそれがカズキだって確信したのはついさっきだよ。噂には聞いていたけど、それが本当にカズキがやっていることだなんて信じたくなかった」
カズキは口の端に笑みを浮かべていたけど、僕にはそれが余裕なのか嘲笑なのか判断がつかなかった。意味なんてないのかもしれない。
「それで、どうして俺だって分かったんだ?」
「校舎の入り口の取っ手に糸が引っかかってたのを見つけたよ。あの糸は特別教室のどこかに繋がって、校舎の入り口の扉を開くと糸が切れて、糸の先にある仕掛けが作動するようになってたんでしょ。窓に仕掛けた爆発物が爆発するような仕掛けが。そんな仕掛けが作れるのはカズキしかいないよ」
僕とユキコさんが、今朝実際に作動させた仕掛けだった。あれは侵入者をおびえさせるために自動で作動するもので、誰かがガラスを割った音なんかじゃなかったんだ。
「正確には俺と俺の兄貴だけどな」
言って、カズキは目を細めた。爆弾や仕掛けはソウタさんが残していったものなのかもしれない。
「この図工室もそうでしょ。扉を開けたら、積まれていた椅子や机が盛大にひっくり返るような仕掛けがあった。けどそれは本当の仕掛けを隠すためのおとりで、本当の仕掛けは、奥のカーテンが閉まってそこにいる何かを隠すようになっていること」
「そこまで分かってるのかよ」
ヒュッと、カズキが口笛を吹いた。わざとやってるのか、段々バカにされてるような気がしてきた。
僕が最初に違和感に気づいたのは家に帰った後だった。
今朝の出来事のどこかが妙に頭に引っかかっていて、けれどどこなのかが分からずもどかしかった。時間をかけて旧校舎の場面を一つ一つ思い返していくうちに、ようやく説明がつかない点がひとつあることに思い至った。
図工室のカーテンだった。壁や天井まで血が付着した部屋でカーテンだけが真っ白というのは、どう考えても不自然だった。
普段はカーテンが収納されていて、血が飛び散っているのは今掛かっている真っ白なカーテンの奥のスペースなんだろう。
「カズキはいくつもの仕掛けで、侵入者に何か得体の知れない生き物の存在を強烈に植え付け、怖がらせ、実際はそれを必死に隠そうとしていた。そうまでして守ろうとした、そのカーテンの奥にいるものって何なのさ!」
いつの間にか、カズキは無表情になって僕をじっと見つめていた。
本当にそれを見る覚悟があるのか、と聞かれているような気がして、ひやりと背筋が冷たくなるのを感じた。
張り詰めたような雰囲気があり、心臓がばくばくと激しく打ち出し、顔だけがかっと熱くなった。図工室の中は冷えるのに、気づけば額には大量の汗が浮いていた。たんが喉に絡み、咳ばらいする。
もうそれ以上、そのカーテンの裏を覗かないでいるという恐怖に耐えることができなかった。
恐怖から逃れるために、僕は一歩、足を踏み出した。もう一歩、そしてまた一歩。
近づくたびに異臭は強くなっていった。カーテンの裏で物音がして、何か大きなものが動く気配が感じられた。
カズキの前を通り過ぎ、真っ白いカーテンに手をかけると……一気に引っ張った。
「なッ……」
そう言ったきり、次の言葉が出てこなかった。
足から力が抜けるのを感じ、僕はへなへなとその場に座り込んだ。腰が抜けたのだ。
そこにいたのは茶色の毛をした子牛だった。ただその子牛の顔は人間のものだった。
輪郭自体がまず牛と全く違う。その大きな瞳も、鼻も、口も、どう見ても人間のものと同じだった。肌色の肌もつるりと滑らかで、首から下の毛むくじゃらな体と比べて激しくアンバランスだ。髪はなく、頭から首の辺りにかけては灰色の短い体毛に覆われていた。
牛の体に少女のような顔を乗せた生き物は、どうしてか猿ぐつわを噛まされ、床に敷かれた血まみれのわらの上に半身を起こして僕を見つめていた。
「な……なんなのさ、こいつ? まさか昔ウワサになった人面犬なの!?」
震える声を振り絞って、僕は言った。本気で言ったつもりだったけどカズキは笑い出した。
「人面犬は都市伝説だろう。こいつはそんなんじゃない。俺たちが初めて一緒に異空間に踏み込んだときのこと、覚えてるか?」
忘れるはずがない。人間に激しい憎しみを持った預言者が、迷い込んだ人間を襲い、食べていた村だ。僕が最初に足を踏み入れた異空間だった。
「俺はあの事件の後、村人たちが消えてしまったっていうのが気になって一人で村まで行ってみたんだよ」
僕は驚いた。けど、異空間に異常な興味を持っているカズキならおかしくないと思った。カズキは異空間を探すことを生きがいにしているようなところがあったから。
「家のほとんどは焼け落ちて瓦礫で埋まってたけど、偶然その中に地下室へ続く階段を見つけたんだ。そこでこいつを見つけた」
カズキはその生き物を指差した。人間の言葉を理解しているのか、その生き物はうつろな目でカズキの指を見つめていた。
「なんでこんな気味の悪い生き物があの村に……」
「そんなの俺にも分からねーよ。でも怪しげな儀式の跡があったから、呼び出しちゃったんじゃねーの? 元々預言者なら、ひょっとして西洋の密教の儀式のようなものにも詳しかったかもしれないしさ」
まるで冗談でも言うような口調でカズキは言った。
カズキがその生き物を見つけたとき、そいつは全ての肋骨が浮き上がるほどにやせ細り、餓死しかけていたらしい。
足元には村人らしき骨があったから、怪我をして動けなくなった村人を食べていたんだろう。僕らや警察から地下に逃げた村人たちを。
そして地下に食べるものはなかったところで、カズキが現れた。
「知り合いに頼んでこっそり連れ帰って、ここに隠したんだ。ちょっと事情があって、飯の時以外は猿ぐつわを噛ませてな。でも人間の味を覚えたせいか、野菜や加工された肉をやっても一切食べなかった。だから、仕方なく飼育小屋の動物や、車に轢かれた野良猫を食べさせた」
カズキは僕に向けて手提げかばんを開けた。
中に入っていたのは、ファミマのビニール袋に詰められた猫だった。
まだら模様の猫は死んでいた。赤黒い腸や脳みその大半がはみ出し、もはや動物としての原型を留めてはいなかった。ビニール袋は真っ赤に染まっていた。
「ひどい……それに飼育小屋の動物を盗んでいたのも、やっぱりカズキだったなんて」
僕は目の前の少年が怖くなった。それはもう僕の知っているカズキじゃないみたいだった。
それでも、最後に彼に自分の感情をぶつけてしまいたかった。ニワトリやウサギを懸命に育てた僕や、ユキコさんの怒りをぶつけたかった。
「カズキがどうしてこんなことまでしてこの生き物を育てるのか分からないし、分かろうとも思わない。でも飼育小屋の動物まで傷つけないでよ。僕やユキコさんはあの動物たちを一生懸命育ててるし、他の動物を生かすために殺されてもいいなんてことはないはずだよ」
僕はカズキの目を見て言う。カズキは睨み返してきたけど、僕は意地でも目をそらさなかった。
「断る。どうしてあんな生きてる意味もない動物なんかのために……」
カズキが言いかけたところで、僕は思い切りカズキの頬を張った。ぱしんと図工室に乾いた音が響く。
カズキが驚愕に目を見開いて、一瞬の間の後で、
「何するんだこの野郎!」カズキが僕につかみかかってきた。
僕らはそのまま激しくもみ合い、血の跡がこびりついた壁や床に互いの体を激しくぶつけ合った。力比べはカズキのほうが上だったけど、僕はうまく体を反転させてカズキを壁にぶつけ、逆に背中からユカに叩きつけられたりもした。
やがて二人もつれるようにして転んだところで、僕は隣にいた生き物の異変に気が付いた。
「ぐッ……ふぅっ……ッ! ………ぐうぅぅッ、……ふぅえぇぇぇっ!!」
奇妙な生き物が、まるで喉に異物を詰まらせたみたいに、苦しそうなうめき声をあげはじめたのだった。僕とカズキは互いの服を掴んだまま、動きを止めてそちらを注視した。
少女の顔を持つ牛の狭い額には大粒の汗が浮かび、顔は赤く腫れ上がっていた。
「猿ぐつわを飲んで、息ができなくなったんだ!」
僕は叫び、よれよれになったカズキの服を離すと、そいつの気色の悪さも忘れて奇妙な生き物のそばに立った。
きつく噛まされて涎の染み込んだ猿ぐつわを掴んで引っ張るのと、カズキの声が耳に届くのは同時だった。
「よせ、それはそいつの演技だ!」
「え……?」
猿ぐつわを外されたそいつは、目の端で僕を見て意地の悪そうな笑みを浮かべると、目を閉じ、歌うように語りはじめた。
『月消ゆるとき 扉の前に生贄を捧げよ
黄泉の扉 再び開かれるだろう
汝想い人とまみえるが もはや月満ちることはなく
宇宙は かつてない混沌に包まれるだろう………』
少女のような容貌からはとても想像できない、百を超えた老人のような、水気のないしわがれた声だった。
言い切ると、その生き物は目を閉じた。さらに電源が切れたみたいに脱力すると、前のめりに倒れこんだきり動かなくなってしまった。
「まさか、死んだの?」
そのまま呆然として生き物の様子を観察していると、信じられないことが起きた。
その生き物は急速に朽ちはじめたのだった。
顔や体から水分が少しずつ吸い取られていく映像を早回しで見ているみたいに、その不可思議な生き物はわずか数十秒の間にミイラと化し、最後には人間の頭蓋骨と、牛の体の骨だけになってしまった。
強烈な悪臭が漂い、鼻が曲がりそうだった。口に酸っぱい味が広がり、僕は必死に口を押さえて吐き気をこらえた。
まだ現実感がなく、目の前で起こったことを把握できていない僕の耳に、カズキの声が届いた。
「ビビって損したぜ。そうだよな、こいつがここに呼び出された意味を考えると、くだらない災害なんかを予言するわけがないんだよな。こいつは遣いなんだから……」
カズキは瞳孔の開いた目で図工室に残った骨を見つめて、ぶつぶつと内容の理解できない言葉を発していた。
声をかける間もなく、カズキは僕を押しのけるようにして図工室を飛び出してしまった。
「カズキ!」
そのまま少しも動くことができず、しばらく呆然としていたけど、残された人間の頭蓋骨を見ていると不意に恐ろしさが込み上げてきて、僕は図工室を飛び出した。
外はすっかり暗くなり、何度か転びそうになりながら家路を全力で駆けた。
家に着くとすぐにシャワーを浴びたけど、体に染み付いた異臭はなかなか落ちなかった。僕は仮病を使い、布団にもぐりこんだ。それでも膝の震えだけはしつこくなかなかとまることがなかった。
僕が親友のカズキのことを怖がるなんて、まるで何かの冗談のようだった。
でもこれは冗談じゃなく、僕が立ち向かわなければいけない現実だった。