旧校舎の異(2)
僕の通う小学校の旧校舎は学校の敷地の片隅にあり、僕が入学するずっとずっと前に使われなくなったらしい。
その木造二階建ての建物がいまだ取り壊されずに残っている理由は知らないけど、やっぱりそれらしいウワサがいくつも流れていた。
旧校舎を取り壊そうとした業者の現場監督が変死したとか、工事中に死体が出て工事が中止になったとか、そういった種類のものだ。
ユキコさんが話していた、旧校舎に入る人影を見たという噂が流れはじめたのは、もう一月くらい前になる。
本来、旧校舎はグラウンドを挟んで校門とは反対側の、雑木林を抜けた先にある。薄暗い旧校舎の辺りには誰も近づくことはなかったし、近づくこと自体禁止されていた。
ただ例外がひとつだけあった。ユキコさんが話していた噂を流した人物も、どうもその例外に当てはまっていたようだ。
ユキコさんの他にも、何人かが同じような噂を話していたけど、その内容をまとめるとこうだ。
とりあえず、噂を流した当事者をAとする。その日、ゴミ出し当番になっていたAは掃除時間中にゴミを出すのを忘れていて、放課後にゴミを抱えて焼却炉のほうへ向かった。
焼却炉は旧校舎へと続く雑木林の手前にあり、ゴミ出し当番になった人だけは旧校舎に近づくことになる。
焼却炉にゴミを投げ入れたAはなんとなく、雑木林の先にある旧校舎のほうを見た。
すると小動物らしきものを抱えた男の子が、左右を確認して旧校舎に入っていくところだった。
飼育小屋の動物が減っていることを友達に聞かされて知っていたAは怖くなり、その場から逃げると、そのことはしばらくして友人に打ち明けるまで秘密にしていたらしい。
はじめてその噂を聞いたとき、僕はショックを受けた。同時に、旧校舎に『何か』があると直感した。
それから何度か旧校舎を一人で探索しようとしたこともあったけど、その度にためらった。思えば、今まではいつもカズキが背中を押してくれていたのだ。
いつか行動しなければいけない、そう考えるうちにただ時間だけが過ぎていった。
だけど今、そのチャンスが訪れているようだった。
「ねぁ、ユウ君、聞いてるの?」
「あ、あぁごめん、聞いてるよ」
「ほんとに?」
「いなくなった飼育小屋の動物たちが見つかるかもしれないから旧校舎に入りたいけど、一人じゃ怖いからついてきてほしい、っていうことでしょう?」
「ちょ、ちょっと、声が大きいよ」
ユキコさんはそう言って、きょろきょろと周りを見渡した。飼育係の仕事の途中にしている無駄話だ、誰も聞き耳なんて立てていない。
どちらかというと臆病な印象があるコユキさんがこんな提案をしてくるなんて、とても意外だった。
ひょっとすると動物がいなくなったことに一番腹を立てているのは、この小柄な少女かもしれない。
「分かった、一緒に旧校舎を探してみるよ。でも場合によっちゃ……嫌なものを見るかもしれないよ」
「それでも私、探してあげたいの」
ユキコさんは力強く言った。これで決まりだった。
簡単に話し合った結果、犯人が一番旧校舎にいなさそうな時間、放課後でも夜でもなく、休日の朝方に忍び込むことにした。
ちょうど明日は土曜日で学校は休みだった。
僕はユキコさんに簡単に用意するものを伝えると、
「じゃあ明日の朝六時に、校門の前で」と言って飼育小屋の鍵を閉めてその場を離れた。
家に帰ると、僕はすぐに明日の準備をした。
異空間に行くときによく背負っているリュックに懐中電灯や非常食を詰め、最後にしばらく迷って、カズキにもらった護身用のキーホルダーサイズのナイフを詰めた。
念のためキョウコさんに連絡しておくか迷ったけど、やめておいた。
余計な心配はかけたくなかったし、今回は霊的なものが関わっているとは思えなかった。
翌朝、まだ周囲が薄暗い中、時間ちょうどに校門の前に着くと、すでにユキコさんが寒さに顔を赤くして待っていた。
「その格好は?」彼女の姿を見て、僕はまず聞いた。
「え、変かな?」
「別に変じゃないけど……」
これから山にでも登るかのように、彼女は重装備でふっくらと着ぶくれしていた。まさか旧校舎に一泊でもするつもりだろうか。
けれど、これがそれだけ彼女にとって大冒険ということだろう。
僕は覚悟した。何があっても、彼女のことを守らなくちゃいけない。
「じゃあ、行こうか」
僕らは念のため、宿直の先生に見つからないように新校舎とグラウンドを外側に回り込むようにして旧校舎へ向かった。
旧校舎の周囲は真っ暗といってよかった。うっそうと茂る雑木林の木々が、わずかな光も遮ってしまっていた。
闇の中に浮かび上がる旧校舎を見上げ、ユキコさんは「怖い…」と漏らした。僕もだった。
窓から中を覗き込もうとしたけど、どの窓も白く濁って中の様子はうかがえない。
立ち入り禁止と書かれたプラカードの吊られた縄をくぐり、僕らは中に入ることにした。
木製の両開きの扉は、多少の引っかかりはあったものの、誰かがいつも使っているみたいにすんなりと開いた。
中に入るなり、ひんやりと、空気が薄く、冷たくなった気がした。
校舎内は外よりさらに暗く、一メートル先が見えるかどうかといったところだった。懐中電灯をつけ、僕らは校舎の中を確認する。
校舎は二階建てで、上から見下ろすと凹という字に似た形をしている。少しくぼんだ部分が入り口で、左右に続く廊下を歩くと突き当たりで廊下が折れている。
扉の正面にはいかにも朽ちた階段があり、左右には音楽室や職員室、理科室といった特別教室が並んで曲がり角まで続いていた。二階が教室なのかもしれない。
「まず二階から見てみよう」
「……うん」
「大丈夫、周りに気をつけながらゆっくり行こう」
ぎぃ、ぎぃ、と音を立てる階段を、僕らはゆっくりと上がった。
よほど怖いのだろう、ユキコさんは僕の腕をしっかりと両手で痛いくらいに握り締めていた。僕はいろんな意味でドキドキした。
でもすぐに、そんな余裕もなくなった。
二階に上がると辺りは完全なる闇だった。すぐに左右に伸びる長い廊下を懐中電灯で照らし、誰もいないことを確認した。
廊下は一部、底が抜けていたり、壊れた椅子が転がっていたり、誰かがここを通っているとは思えなかった。
僕らはとりあえず、一番近い教室の前に立ち、扉に手をかけた。その瞬間、
パリィィィィィン!!
と、階下からガラスの割れるような音が響いてきた。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
叫びながら抱きついてくるユキコさんを必死になだめながら、僕はとっさに懐中電灯を消した。僕も驚いてはいたけど、隣にユキコさんがいることでなんとか冷静さを保てているようだった。
「きゃっ! え、何? 何で電気消えたの!?」
パニックを起こしかけるユキコさんに、僕は慌てて、でも小声で説明する。
「誰かに見つかるといけないから、懐中電灯を消しただけだよ。大丈夫、大丈夫だから」
聞いているのかいないのか、ユキコさんはうずくまったまますすり泣きをはじめていた。
闇の中に浮かび上がるユキコさんの唇は青く、顔はいつも以上に白くなっていた。僕は落ち着くまで、ユキコさんの背中をゆっくりとさすった。
そうしていると、不思議と僕も気持ちが落ち着いてきて、興奮しすぎて冷静さを欠くことなく、今起こっている出来事に考えをめぐらせることができた。
それにしても、さっきの音は何なんだろう……? この旧校舎には、やっぱり何か得体の知れないものが潜んでいるのかもしれない。
階下に注意を向けるけど、階段の奥はしんとして、しばらく待っても誰かが上がってくるような気配はなかった。
「僕、ちょっと下見てくる。すぐ戻るからここで待ってて」
「イヤよ! 絶対にイヤ!!」
ユキコさんが大声を出すので、僕は慌てて唇に指を当てた。ユキコさんは目を真っ赤にしたまま、何度も頷いた。
「いい? もし下に誰かいるのなら、確認しないとここから外に出ることもできないんだ。僕が先に行って、安全か確かめてくるよ」
「でも、待ってる間に襲われるかも……」
じっと、ユキコさんは赤く不安げな目で僕を見つめた。
誰も階段を上がってきていないのは分かっていたけど僕は諦め、
「じゃあ一緒におりよう。ゆっくりついてきて」
「分かった、先に行かないでね」
僕らは懐中電灯を消したまま、一段一段、ゆっくりと階段をおりた。ぎぃ、ぎぃ、と相変わらず大きな音を立てる階段が恨めしかった。
ふと、階段をおりる僕の鼻に妙な臭いが届いた。窓が割れ、空気の流れが変わったのか、階段をのぼる時には気づかなかった。
「何か、変な臭いしない?」
「うん、豚とかニワトリの臭い。飼育小屋の臭いにも似てるかも……」
慎重に一階におりて、思い切って懐中電灯で左右を照らしてみた。人影は見当たらない。
どこかの窓が割れている形跡もないので、反対側の特別教室の中の窓が割れたのか。理科室の器具が割れたのかもしれない。
「この辺りの部屋をいくつか調べようと思うけど、どうする?」
僕が聞くと、ユキコさんはしばらく迷ってから、コクコクと頷いた。一緒に来るということだろう。この旧校舎には絶対に何かある。僕は、それを調べないといけない。
足音を立てないように移動して、『音楽室』という札の掛かった教室の戸を開く、が開かない。
同様に『職員室』、『理科室』と扉を開けていくけど、鍵が掛かっているのか扉はびくともしなかった。
最後に『図工室』を開けようと扉の前に立つと、少し獣のような臭いがきつくなった気がした。
正常に戻りかけていた心拍数が、少しずつ高くなっていく。冬だというのに背中には汗が浮かび始めていた。
「ここに何もなかったら、今日はもう帰ろう」
「うん……」
窓からは、少し明かりが差し始めていた。僕は懐中電灯を消すと、ゆっくりと扉を横に引いた。
開かない……けど、鍵が掛かっているというより何かが引っかかっているという感じだった。
「開けるよ」
僕は覚悟を決め、思い切り力を入れると、扉を横に引いた。
すると、部屋中の机や椅子が飛び回り、ぶつかり合うような音が辺りに轟いた。まるで何か大きなものが、部屋の中で暴れまわってるような音が……。
「いやぁぁぁぁぁッ!」
ユキコさんは僕を掴んでいた手を離すと、あちこちにぶつかりながら、出口の扉へと一目散に走っていった。
「待って、ユキコさん」
パニックを起こしたユキコさんを追いかけないといけないと思いながらも、僕の目はとっさに図工室の中を覗いていた。
むせるような異臭をこらえるうちに、少しずつ、薄闇に目が慣れていき……
「ひッ!」と僕は声にならない悲鳴をあげた。
机や椅子の散乱する部屋のあちこち――壁や天井に至るまでべったりと――が赤くこびりついた血で染まっていたのだった。
「な、何なんだ、この部屋は……?」
部屋の一番奥まで見渡すけど、そこには真っ白なカーテンが掛かっているだけだった。部屋のいたるところが血で真っ赤だけど、部屋の中のどこにも、人や動物の姿はなかった。
じゃあさっきの音は一体?
僕はぞわりと、全身に鳥肌が立っていくのを感じた。
「ユウ君、どこにいるの。戻ってきてよ……」
校舎の外から悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「今すぐ戻るから、少し待ってて!」
僕は誰かに声を聞かれるかもしれないなんて考える余裕もなく、大声で叫ぶと走ってユキコさんのもとへ向かった。
校舎の外でユキコさんと合流し、僕らはもつれ合うようにして校門に向けて走った。
校門の前で僕らはしばらく息を整え、お互いにようやく落ち着いてきたところで、ユキコさんは言った。その顔色は幾分マシになっていたけど、恐怖と疲労はまだ表情に表れていた。
「図工室で、何か見たの?」
「図工室には……何もいなかったよ」
嘘じゃなかった。ただ大事なことを言っていないだけで。旧校舎に入る前と比べて明るくなった外の景色を見て、安心した僕はさらに続ける。
「それにしても、何事もなく二人とも無事で本当に良かった……」
「でもさっきの大きな音は……?」
「分からない。でもさ、今日のことは二人の秘密にしておかない? 妙なことはあったけど、まだ動物がいなくなったことと関係があるか分からないし。それに今日は運良く帰って来れたけど、これ以上首を突っ込むとどうなるか分からないよ」
ユキコさんは納得がいかないという表情をしていたけど、僕が強く説得すると、やがて「分かった」と頷いた。
不満そうではあったけど、どこか安堵したような表情でもあった。
僕らは缶入りのコーンポタージュスープを朝ごはんがわりに飲みながら、すっかり明るくなった家路を歩いた。
ユキコさんは何も話さなかった。やっぱり動物たちの行方が分からなかったのがショックだったんだろう。あの図工室に散っていた血を思い出して、僕は胸が痛んだ。
ユキコさんを家に送って帰る間、僕は旧校舎に棲みついた『何か』について考えをめぐらせていた。
とにかくもう一度、あの旧校舎に行かないといけない。
けだるい朝の光の中で、僕は改めてあの異空間の謎を解き明かすことを決意した。