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少女の異(11)

「…ろ………ユ…」


 声が聞こえた。遠く、異世界から聞こえるような小さな声だった。


「…き………、…ユ…ウ…」


 その声はだんだん音量をあげていき、


「起きろったら、ユウ!!」


 耳音で出された大声に、僕は慌てて飛び起きた。

 どこか硬い地面に寝ていたようで、背中がひどく痛かった。

 顔を上げると抜けるような青空と、不機嫌そうなキョウコさんの顔があった。

 しばらく青空とキョウコさんの顔を交互に眺めてから、ようやく、


「あ、あれ?」僕はそんな間の抜けた声を出した。

「あなた、何トボけてるのよ。それよりここで何があったの? 何か、嫌な感じだけはするけど……」


 そう言って、黒い服に身を包み、雨も降ってないのに真っ赤な傘を持った『霊能さん』ことキョウコさんは辺りを見回す仕草をした。

 切り揃えられた真っ黒な前髪がふわりと揺れる。

 僕は彼女と同じように、周囲に視線を巡らせた。

 そこはどこかの建物の屋上のようだった。周囲にある建物から考えて、おそらくK市総合病院で間違いはないだろう。

 僕は異世界に入り込んだはずの、K市総合病院の屋上に戻ってきているようだった。

 次の瞬間、津波のように異世界で体験したあらゆる出来事が頭の中でよみがえり、僕は慌てて周囲を見渡した。僕から少し離れた所に、横になっている二つの人影があった。

 倒れているのはカズキと、ユウカさんのようだ。

 僕は立ち上がると、急いでカズキのもとに駆け寄った。


「カズキ……カズキ!」 


 僕はカズキの体を揺するけど、カズキはなかなか目を覚まさなかった。


「目は覚まさないけど、とりあえず命に別状はないみたいよ。すぐに目を覚ますと思うわ」


 いつの間にか後ろに立っていたキョウコさんが言う。


「勝手よね。『ちょっと異空間に行ってくるから、二十日の朝までに俺から連絡がなかったら、この病院に俺たちを探しに来てくれないか?』だって。断ったんだけど、あなたたちに死なれると、私も困るしね」

「わざわざありがとうございました」


 僕が素直にお礼を言うと、なぜだか彼女は顔を赤くしていた。

 それより、僕はキョウコさんにひとつだけ確認しておきたいことがあった。


「今、今日は二十日って言いましたよね。十月の二十日で間違いないんですか?」


 キョウコさんは怪訝な表情をしながら、


「十月二十日よ、間違いないわ」と答えた。


 僕らが異空間に入り込んで、まだ一日しか経過していないことになる。ユウカさんの例もあったので、僕はほっと胸をなでた。


「う………ん…」


 苦しそうな声を洩らしながら、僕の下でカズキがゆっくりと目を開けた。

 カズキは僕を見て、それからキョウコさんを見て、周囲を見渡してからゆっくりと深い息を吐いた。きっと全てを思い出したのだ。


「カズキ、ソウタさんは?」


 カズキは辺りを見回すとゆっくりと首を振り、自分があそこで最後に見た景色を語り始めた。


   ※


 サトミさんが襲われてから赤い犬が兄貴に向かって走り始めたとき、俺は兄貴が川まで間に合わないことがすぐに分かった。

 俺は迷わず進路を変え、兄貴の下へ走った。走る前に決めた約束事なんて知ったことじゃなかった。兄貴がいない生活なんて、俺には考えられなかった。

 俺が兄貴の下に走っているのに気づくと、兄貴はこちらに向けて必死で叫んだ。


「来るな、カズキ! 来ればお前まで道連れになるぞ!!」


 兄貴はほとんど歩くような速度になりながら、手製の手榴弾を犬に向けて投げていた。だが犬は素早く、そのどれも赤い犬に効果的なダメージは与えられなかった。

 赤い犬と兄貴の距離は、もう十メートルを切っていた。どう考えても間に合わないと分かっていても、間に合っても何も出来ないと分かっていても、俺は兄貴がいるほうへ走るのをやめなかった。


「兄貴!」


 俺の目の前で、兄貴は赤い犬に襲われた。瞬きをする暇もなく、本当に一瞬で、兄貴の体は前のめりに地面に倒れこみ、そのまま動かなくなってしまった。


「兄貴、兄貴ぃぃぃぃぃぃぃいッ!」


 赤い犬はすぐにもやがたかり始めた兄貴から視線を俺に移した。

 怒りで頭が真っ赤に染まり、来るなら来いという感じだった。タダで死ぬと思うなよ、という。

 赤い犬は速度を上げ、距離は五メートル、三メートル、一メートルと近づいていく。俺に飛び掛ろうと赤い犬は前傾した。そこで、なぜか赤い犬はそのまま急停止して、方向転換するとまだ火の残る田んぼに入っていってしまった。

 俺は目の前で起きている出来事を理解することができなかった。赤い犬は一度も振り返らずに、藪の中へ走っていってしまった。

 俺は気を持ち直して、兄貴の下に走った。

 兄貴の肩を揺するけど、それにあわせてもやが左右に揺れるだけで、反応はなかった。

 兄貴は死んだんだ。

 やみくろになった兄貴があぜ道を歩いて行くのを、俺は歯を食いしばりながら見送ることしかできなかった。だって……他にどうすることができるっていうんだ!?

 口の中の肉を噛んで、口の端からは血が流れてきた。

 俺は振り返って、あぜ道を兄貴と反対の方向に歩きはじめた。兄貴が、そうしろと言っている気がしたからだった。そうじゃなければそのまま、そこから歩き出すことなんか出来なかっただろう。

 俺は抜け殻のようになりながら川へ入ると、その穏やかな流れにただ身を任せた。


   ※


「やっぱり、ソウタさんは……」


 カズキの話を聞いて、僕はそれ以上の言葉をカズキに掛けることができなかった。

 ここにソウタさんの姿がない時点でなんとなくそんな気はしていた。でもカズキの口からその事実を聞かされると、改めてその現実は僕の胸に重くのしかかった。

 自分の見た光景をゆっくりとカズキはそこまで辛そうには見えなかった。でも、心の中では激しい感情を押し殺していた。

 そのことが分かったのは、しばらくしてユウカさんが目を覚ましてからだった。


「………ん……ぅん……」


 カズキはまだ意識のはっきりしていない様子のユウカさんのそばまで歩いていくと、思い切り手を振り上げ、そのまま頬を張った。


「カズキ!」


 僕とキョウコさんは同時に叫ぶけど、カズキは返す手の甲でもう一度、今度は反対の頬を張った。高い音が屋上に響いた。

 きっとカズキを睨み付けてすぐに、ユウカさんは視線を落とした。何が起きたかを思い出し、同時に、ソウタさんに何があったかを悟ったのだろう。ユウカさんは唇を噛んで、ただ地面を睨み付けた。その両頬は真っ赤に染まっていた。

 カズキは扉を開けて、階段を下りていった。


「カズキ!」


 カズキの背中に声をかけるけど、カズキは一度もこちらを振り返りはしなかった。

 ちらりと見えた横顔はきつく歯を食いしばり、その目には涙が浮かんでいた、ように見えた。

 カズキに置いていかれて寂しかったけど、ソウタさんのことを考えると仕方がないと思った。僕自身、まだほとんど実感がないに等しいのだ。

 ほとんど交流はなかったけど、あんなに優しく頼りになったソウタさんが死んでしまったという実感が。


「とにかく、私たちもここを離れましょう。見つかると、何かと面倒よ」


 僕とキョウコさんは病院の関係者に見つからないよう気をつけて病院を出た。

 ユウカさんとはサトミさんの病室の前で別れた。病室の前で、サトミさんは消え入るような声で「ごめんなさい」とだけ言った。

 彼女はこれからサトミさんの体ともお別れをし、続いていく現実との折り合いをつけていかないといけないのだろう。

 ほとんど何も話さないままに、キョウコさんとも駅前で別れた。

 今はただぐっすりと眠って、全てを忘れてしまいたかった。



 キョウコさんから家に電話がかかってきたのはその日の夜だった。

 大した用事じゃないけど、そう言ってキョウコさんは話しはじめた。


「あなたたちが入り込んだ異空間、とても興味深い世界だわ。カズキのお兄さんが亡くなって、すぐこんなことを言うのはなんだけど」

「いえ……」

「でもどうしても、ひとつだけ気になった点があって。どうして赤い犬は一度カズキを襲おうとしてから、逃げ出したんだと思う?」


 確かに疑問ではあった、思い出したくないけど、式無常やテレビクルーたち、そしてソウタさんは隔たりなく襲われてたというのに。


「犬猿の仲、という言葉を知っている?」

「いいえ」聞いたことがある気がしたけど、どうせ意味を知らないので僕は正直に答えた。

「犬猿の仲というのは、何かにつけていがみ合うくらい仲が悪いことを、昔からそう言うの」

「つまり……?」

「カズキは一度赤い猿にも襲われていたから、服に猿の臭いがついていたんだと思う。そして、赤い犬はその臭いを嫌った。案外『犬猿の仲』って言葉も、昔の人があなたたちみたいにあの世界に迷い込んで、犬と猿が激しくいがみ合っていたのを見た後に、命からがら脱出して言い始めたのかも」

「そんな考えもあるんですね」


 僕は納得した。けど同時に、あの世界に合理的な説明を求めるのは不可能な気もしていた。キョウコさんもそれは分かっているんだろう、その件はそれ以上口にしなかった。

 それから僕らは数分、その場で話すのにそぐわないような、普通の世間話をした。

 ひょっとしたらキョウコさんなりの気遣いかもしれないけど、本当のところはどうか分からない。

 電話を切る直前に、キョウコさんは不意に真剣な声音になって、


「カズキに注意してあげてね」と言った。

「分かりました」と僕は答えるけど、正直今日のカズキの様子を見ていると自信があるとは言えなかった。


 結局、そのままソウタさんが見つかることはなかった。

 分かっていたことだけど、日が経つにつれ僕らは無気力感に襲われ、ソウタさんを喪失してしまった絶望に打つひしがれていった。もちろん僕のそれと、カズキのそれは比べることさえできない。


「きっとなるようになるさ」


 どこか遠くを見ながらそう言って、カズキはソウタさんがいなくなったことを警察にも届けなかった。

 ソウタさんがいなくなったって、どうせ誰も気づきはしないのだそうだ。ただ、また石鹸を売ってほしいという電話だけは、週に何度もかかってきたらしい。

 事件が過ぎ去った今では、ユウカさんのことを取り上げるテレビはほとんどなくなっていた。彼女がどうしているのかは、僕も全く知らない。カズキも何も言わない。

 もう二度と会うこともないかもしれないけど、彼女なりに前を向いて生きていっていればいいと僕は感じた。

 僕とカズキの関係も、あの事件以来、少しずつ変わっていったように思う。

 カズキは今までのように異空間に興味を持って探すことをしなくなり、僕と一緒に過ごす時間は目に見えて減った。

 ぼんやりと何事かを考えていることが多くなり、僕以外のクラスメイトとは今まで以上に関係を絶つようになった。

 僕は声をかけても「あぁ」とか「うん」としか答えず、僕とカズキの関係も次第に気まずいものに変わっていった。

 そして季節は冬になり、僕とカズキの仲を決定的に裂くことになった事件が起こるのだった。






 To Be Continued→

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