少女の異(10)
「あなたのことは絶対に許さない」
元はサトミさんだったやみくろに、ユウカさんはそんな別れの言葉を告げる。やみくろはとぼけたように、ユカさんのそばにただ突っ立っていた。
「けど……死んでまであなたに罪を償い続けてほしいのか、私にはもう分からなくなったのも事実よ。あなたがやったことは許されないけど、あなたはただただ救われたい一心だったのだから」
ユウカさんの中で、きっとこういった葛藤は何度もあったのだろう。
僕らは彼女に何の声もかけることはできなかった。これは彼女が決め、立ち向かうべき事柄なんだ。
ユウカさんはサッと、やみくろ……サトミさんから視線を外し大通りの先を見た。
あぜ道の左右に広がる田んぼはすでに、刈り取られた後の稲についた火がぱちぱちと音を立てて燃えていた。
提燈の火が使えるか確かめて、数十分前に田んぼに放てるだけ放ち、催涙スプレーやその他の武器を使って大きくしておいた炎だった。
うまくいく確証はなかったものの、田んぼには思っていたよりはるかに早く火が立った。ここはまだ現実世界の理が通用するようだ。
風は強くないものの、乾いた稲はよく燃え、田畑を次々と移り広がり焼いていった。あぜ道の前に立っているだけで、熱気が伝わり額に汗が浮かぶほどだった。
関係ないやみくろたちは巻き込まないということで、僕らは合意していた。
死んでしまったからといって、個の尊厳というものが消え去らないことは、僕がここに来て学んだ数少ないうちのひとつだった。
火によって霧はあらから晴れ、遠くにぼにゃりと元の世界へ通じる川が見えていた。いけるかもしれない、僕はそう感じ、興奮していた。
「じゃあ行こうか」
ちょっとコンビニにでも行くようなカズキの口調だったけど、緊張のためかその語尾は微かに震えていた。
もし失敗すればあの世とこの世の狭間に永遠に取り残されることになる。
僕は恐怖を追い払うために両手で思い切り顔をはたいた。
「よし、行こう!」
僕らは息を合わせ、火を吐く田んぼの間のあぜ道を走りはじめた。
ゴールの川までは八百メートルほどだろうか。式無常とテレビクルーたちが襲われたのが、おそらく半分の四百メートル地点前後だ。
どのタイミングで赤い犬が出てくるか分からないけど、本気で走るのはその辺りからになるだろう。歩いてそこまで行くことも考えたけど、すぐに赤い犬が飛び出してこないという確証もなかった。
熱気を切りながら軽快に走っていく。だけど、二百メートル地点では四人の距離は少し差がついていた。
ソウタさんが少し遅れていた。すでに額に汗が浮かびはじめ、その表情は苦しそうだ。
それでも僕やカズキは助けようとしない。それが走りはじめる前に四人で交わし取り決めだった。
この光景が容易に想像できたからこそ、持ってきてあった武器はすべてソウタさんに預けていた。
三百メートル地点まで来た、ジョギングほどのペースだからまだ息はほとんどあがっていない。少し前にいるカズキも少し後ろのユウカさんも順調のようだけど、後方を走るソウタさんの息遣いが少し荒くなってきている気がした。
どうしても気になって、横目で炎の向こうの藪を見ると、きらりと、光るものがあった。
赤い犬の鋭い両目が、こちらをじっと睨んでいるみたいだった。そのまま出てくるな! 僕はそう祈った。
僕らはそのまま四百メートル地点を越えた。
「来たぞ、走れ!!」
向こうから歩いて来ていたやみくろを押しのけながら、先頭でカズキが叫んだ。
藪のほうに目をやると、藪の向こうから巨大な赤い体が飛び出したところだった。僕は恐怖で叫びだしたくなるのをこらえながら、必死で限界まで速度を上げた。
赤い猿にスプレーが効いていたように、赤い犬も燃え盛る火に怯んでいるようだった。
だが赤い犬は火が弱い箇所を選んで遠回りしながら、着実にこちらに近づいてきていた。
「急げ、急げ兄貴!」
後ろを振り向いて、カズキが叫ぶ。
僕やカズキが六百メートル地点を過ぎたとき、遅れているソウタさんと牙を剥き出した犬の差は百メートルもなかった。
さらに運の悪いことに、懸命に走るソウタさんと赤い犬の間はあまり火が回っていなかった。
赤い犬はソウタさんを目指して速度を上げる。それは一目で、人間が逃げ切ることのできる速度じゃないと分かるほど速かった。
僕はリアルに、犬によってソウタさんの首が飛ばされる光景を想像した。そして標的を変え、ユウカさんを、僕を襲うことだろう。
だが次の瞬間、犬の赤い耳がぴくりと動いたかと思えば、犬は外にふくらみながら進む方角を変えた。
ぱちぱちと火花が爆ぜる中、横にいたユウカさんが息を呑む音が聞こえてきた。
「どうして……?」
あぜ道の後方を、一体のやみくろが僕らのあとを追うようによたよたと歩いてきていたのだ。
「お母さん!」
そう叫んで足を止めようとするユウカさんの手を掴み、僕は必死で引っ張った。もう川は僕らの目前に迫っていた。
赤い犬は燃えさかる田んぼの中をサトミさんのいるほうへ向かって一直線に走った。
サトミさんが襲われたのは、目を背ける暇もないほど、本当に一瞬だった。
犬がサトミさんの首に牙を突き立てると、その部分のもやがぶわりと霧散した。
「ぎぃあぁぁぁぁぁいぁあぁぁぁぁぁぁぐぁぁぁやああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
そんな甲高い女性の絶叫がこだました。
ぐじゅり、ぐじゅりと音を立てて犬はもやを引き剥がすようにサトミさんを噛み千切っていった。その間も、断末魔の叫び声は止むことはなかった。
「お母さん、お母さんッ!」
サトミさんの叫び声がかすれ始めた頃に、もやがすうっと晴れていき、そこに生前のサトミさんの顔が、サトミさんのやせ細った体が現れた。
遠くて見えづらかったけど、こちらに向けられたその顔は満足な表情を浮かべているように見えた。
「おか、お母さん。どうしてよ……」
そのままサトミさんは薄くなり、どこかえ消え……いや、どこにもいなくなってしまった。この世にも、あの世にも、どこにも。
あぜ道に入った赤い犬が、こちらに顔を向けた。
僕はショックを押さえ込み、即座に気持ちを切り替えると再びユウカさんの腕を引いた。
「急いで、ユウカさん。川はすぐそこです!」
赤い犬はもうこちらに向けて走りはじめ、少しずつその速度を上げていた。
飛び降りるようにして丘を下り、僕とユウカさんは同時に川へ飛び込んだ。川は意外と深く、冷たい水から浮き上がるまで数秒の時間を要した。
「ぷはっ!」
川から顔を上げると同時に、僕は前を走っていたはずのカズキがまだ来ていないことに気づいた。
「カズキ、カズキはどこにいるの!?」
ユウカさんと辺りを見回すけど、カズキの姿は見つからない。
ぱん、ぱぁん、とあぜ道のほうで爆発音が響き、次いで閃光が辺りをおおった。
それを追うようにして、いくつかの怒声や叫び声が響いてくる。丘の向こうは相当に混乱しているようだ。ひどく、ひどく嫌な予感がして胸の辺りが苦しかった。
僕は一度川辺に上がって様子を探ろうとしたけど、まるで足に重たいものが絡まっているようにその場から身動きすることができなかった。
「ゴ……!? ゴフッ……ガッ……グゥッ!」
突然、体が鉛のように重くなったかと思うと、僕の体はみるみる川の中へと沈みこんでいった。金魚のように必死で口だけを外に出して息を吸うけど、それも長くは続かなかった。
頭まで川に浸かってしまい、僕は川の底に沈んでいってしまった。
一瞬にして、これまでの人生で印象的な思い出が頭の中をよぎっていった。赤ん坊の頃から、つい最近のものまで、まるで走馬灯のように。
最後に頭に浮かんだのは、雨の中で赤い傘をくるくると回していたキョウコさんの姿だった。
「カズキ……キョウコさん……」
水の中でつぶやいて、僕はすべての空気を吐き出してしまう。すぐに目の前は真っ黒なもやで塗りつぶされてしまった。