少女の異(9)
「うぐぅぅ…えっぐ…うぅ…えぐぅぅ……」
ユウカさんはなかなか泣き止まなかった。
自分の覚悟があんな形で無駄になってしまい、僕と同じように張りつめていた緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。
目の前にある恐怖と、続いていく現実と向き合わざるを得なくなったのかもしれない。
僕は彼女の気持ちがよく分かる気がした。
生きていた頃の記憶が微かにあるのだろうか。サトミさんだったやみくろも、部屋の隅からどこか心配そうにユウカさんを見つめている気がする。
カズキはサトミさんと反対側の部屋の隅で憮然と座り込んでいる。僕はユウカさんから少し離れた場所でおろおろとするばかりだ。こんなとき、傷ついた彼女に声をかけることができるのは、この中には一人しかいなかった。
「ユウカちゃん、こんなやり方しかできなくてごめんね。でもユウカちゃんは、亡くなった人への復讐なんて意味のないことをせずに、前を向いて生きていくべきだと思う。何をしたって、誰にも過ぎたことを変えることはできないんだから」
けれど、そんなソウタさんの言葉に対するユウカさんの返事は、
「私のことなんて放っといてよ!」だった。
ヒステリックになり、茶色に染めた髪を振り乱した彼女は、真っ赤な目を見開いてさらに続けた。
「あたし知ってるのよ、あなたが中学に入って引きこもりになって部屋から出られなかったって。そんなあなたが説教なんてなんの冗談よ」
ソウタさんは何も言い返せずに、目を細めて困ったような、とても悲しそうな表情をした。
代わりに怒ったのは、カズキだった。
「うだうだうるせぇんだよ。デブが引きこもりなのと、お前が自分のワガママで危ないことやったり俺たちを巻き込んでることは関係ないだろうが!」
「なによ、私がワガママだっていうの!?」
「そうだろうが、自己満足のために死んだおばさんや俺たちまで巻き込みやがって」
「あんたは私が巻き込んだんじゃなくて勝手についてきたんでしょう!」
ユウカさんは相変わらず赤い目をしていたものの、もう涙を流しておらず、しっかりと立ち上がってカズキを見下ろしていた。
カズキは負けじとユウカさんを睨みつけるように見上げて、
「そうだ、だからこれも俺のワガママだ。勝手についてきた俺がお前を助けたかったから勝手に助けたんだよ。文句があるならどこかへ逃げてみろよ。そのたびにどんな手を使っても連れ戻してやるから。お前を苦しめたおばさんはもう死んだんだ。お前はこれからも生きていかなくちゃいけないんだ」
「なによ、いきなりそんなこと言って……」
ユウカさんの中に、もうカズキに返すべき言葉は残ってはいなかった。ユウカさんはカズキから視線を逸らしたきり黙りこんでしまった。
実際のところは分からないけど、ユウカさんも本当は心のどこかで引き返しどころのようなものをを探していたのかもしれない。
「四人で協力して、この世界から抜け出そう」
ユウカさんが落ち着きを取り戻したところで、改めて、僕らはこの異世界を脱出する決意を固めた。ユウカさんも反対するようなことは言わなかった。
「まず脱出に必要なものだけど……」
カズキがそう言ったときだった。
ずずずず……ずずずずずず……
と、外の通りをから何かが地面を這うような音が聞こえてきた。
ユウカさんの表情がさっと曇ったのが分かった。
「すぐに隠れて!」
ユウカさんが尋常じゃない様子で叫び、何か差し迫った危機が近づいていることがはっきりと分かった。
ゆっくりと、何か大きなものが地面を這うような音はもう長屋のすぐ手前まで近づいていた。
僕らは辺りを見回して、とっさにサトミさんも連れて壁に張り付くようにして障子の影に隠れた。ここならぎりぎりで建物の外からは死角になるはずだ。
ずずずず……ずず……ずずずずずずずず……。
音は僕らのいる長屋の前で止まった。屋外の様子がは見ることができないけど、部屋の中に影が落ちているのか、室内がほとんど真っ暗になってしまった。
今いる部屋は二階のはずだ。「何か』が部屋の前にいるとすれば、どれほど巨大なものが……?
身がすくむような激しい恐怖とともに、ほんの小さな好奇心を覚えるのを感じた。気づけば、僕は音がするほうへ少しだけ体を乗り出してしまっていた。
「……駄目!」
ユウカさんの押し殺した声が聞こえた瞬間、体を引くと同時に、僕は見てしまった。一メートル近くある巨大な女の顔が、部屋の中をじっと覗きこんでいるのを。
僕は慌てて壁に張り付き、震える両手で口を押さえて叫びだしそうになるのを必死でこらえた。
女は顔のほとんどを覆うほど髪が長く、髪の間から覗く充血した目で部屋をじっくりと見回していた。へどろのような臭いを発する女の鼻息が部屋の中に入り込み、こみ上げる吐き気をこらえた。僕の心臓は、今にも破裂しそうなほど脈打っていた。
耳のそばで耳障りな音が聞こえたかと思うと、顔の周りに大量の蝿が飛んでいた。きっとあの女にたかっていたんだ。僕は振り払いたくなるのを懸命にこらえ、目を閉じ、両手でぎゅっとズボンを握り締めた。
こっちに気づくな、気づくな、気づくな……。
僕の願いが届いたのか、女は僕らに気づかなかったようで、しばらくすると諦めたようにふすまから顔を離した。
ずずずずずずずずず……。やがて地面を這うような音は遠ざかっていき、聞こえなくなってしまった。
「なんなんだよ、あれは」額を汗だくにして、カズキはユウカさんに聞く。
「分からないわ」
「は?」
「分からない。私も何度かこうやって遭遇したことがあるけど、何が目的で、どうしてあんな人がいるのか、サッパリ分からないの」
「……とにかく、早くここから脱出しよう」
僕らは女がどこかへ行ってしまったのを確認すると、気を取り直して脱出についてのアイデアを出し合った。結局、カズキが考えた案が一番現実的だということで採用されることになった。
その方法が実行可能か、僕らはまず長屋の軒先に連なっている提燈を一つ一つ調べていった。
さらにソウタさんが持ってきていた『武器』も、一つ一つ使い道がないか仔細にカズキが調べた。
「よくこんなに持って来ましたね」
僕が感心して言うと、ソウタさんは少し照れたようにして、
「カズキが無茶をするのはいつものことだからね、僕が気をつけて支えてあげないと」と言ってカズキのほうをちらりと見た。
カズキはというとそんな僕らの会話にも気づかぬ様子で、真剣にユウカさんから赤い犬の細かい情報を聞き出していた。
両親を亡くしたことも関係あるのかもしれない、二人は心からお互いのことを信頼し合っているように見えた。よく弟からバカにされる僕は彼らのことがうらやましくなった。
やがて全ての準備が整い、僕らは元の世界に続くあぜ道の前に立った。女の姿はもうどこにも見えなかった。
この道をしばらく歩くと、角を生やした赤い犬が襲い掛かってくることだろう。僕らは覚悟を決めるしかなかった。