少女の異(8)
「ユウカちゃん、考え直そうよ」
ようやく顔に血の気が戻りつつあるソウタさんが言うけど、ユウカさんはまるで相手にしない。
場所は例の畳の部屋。僕とカズキ、そしてソウタさんとユウカさんは畳に座ってこれからのことを話し合っていた。
部屋の隅にはユウカさんのお母さんだったやみくろが所在なさげに座って通りを眺めている。
化け物がいるという場所にお母さんを引きずっていこうとした――どうやらやみくろはもやに見えるだけで、触れることもできるようだ――ユウカさんを三人でどうにか説得して、とりあえずここに連れてきたのだった。
「何のためにこうしてやってきたと思ってるのよ。私の人生はあの女のせいで止まってしまったの。あの女を化け物に喰わせるためなら、私は自分が一緒に喰われたって構わない」
ユウカさんの意思はとても固いようだった。僕は助けを求める視線をカズキに投げた。
「……分かった、お前がサトミさんと化け物に喰われたいのなら止めない。ただお前がどうやってここから脱出したかは教えてくれ。俺たちは俺たちで、勝手に脱出の計画を練る」
カズキが何を言っているか分からなかった。
「カズキ、それじゃユウカさんとサトミさんは……!」
「いいんだよ。こいつはそのためにおばさんが死にそうになるのを待って、こんな所までやってきたんだから。何言っても無駄だ。勝手にさせとけ」
カズキの言葉を聞いて、ユウカさんは納得したように頷いた。
「それでいいわ。私はここにいる二年間、時間の感覚も失くして何度も狂いそうになりながら、母親に復讐することだけを考えて過ごしてきた。今さら誰にも邪魔はさせない」
「そんな……」
今度はソウタさんに助けを求めるけど、ソウタさんは下を向いてむっつりと黙り込むだけだった。
「それでいい。脱出の方法を教えるわ」
ユウカさんがもう一度頷いてから言うと、カズキは満足したように頷いた。
「私がここから脱出するためにやったことは簡単よ。この集落にいたやみくろを片っ端から引っ張ってきて、あぜ道を元来たほうへと逆行させたの。赤い犬は人もやみくろも区別はないわ。彼らが赤い犬に襲われてるうちに、私はひたすら川へ向かって走った。襲われていくやみくろたちには悪いと思ったけど、そうするより仕方なかった。それでも本当に、奇跡のようなギリギリのタイミングだったわ」
僕はその光景を想像して背筋がぞわりと冷たくなるのを感じた。
ユウカさんはさらに僕を脅かすように真面目な顔をして、
「まだやみくろが襲われる所は見てないでしょう? 彼らが襲われる場面は悲惨よ。悲痛な叫び声を出して、最後に生前の顔が浮かび上がり、消えていくの。彼らはこの世と、あの世――私たちが元いた世界のこと――の間にとらわれ、永遠に苦しみ続けるの」
じゃあもういいわね、というような表情をして、ユウカさんは立ち上がった。
サトミさんを連れてユウカさんが行ってしまって、僕は不意に泣きたいような気持ちになった。
というか、実際に泣いてしまった。
「おいユウ、何で泣いてるんだよ?」
ひどい目に遭ったユウカさんがここに永遠に閉じ込められてしまうなんてあまりにかわいそうで……そしてそう感じたのを最後に、水が溢れるように、懸命に押し殺していた恐怖が噴き出してきてしまったのだった。
ユウカさんだけじゃない。僕だって、このままだとこんな訳の分からない世界に永遠に閉じ込められてしまうかもしれないんだ。
お母さんやお父さん、キョウコさんとも、もう二度と会えないかもしれないんだ。
次第に僕のひざは震えはじめ、歯はちがちと鳴り出した。涙と鼻水がとめどなく流れてきた。
そんな僕に優しい声をかけてくれたのはソウタさんだった。
「大丈夫、考えればきっとここから出れる方法が見つかるよ。もちろんユウカちゃんも一緒にね。そうだろう、カズキ?」
「……へ?」
予想外のソウタさんの言葉に、僕は目を真っ赤にしたまま間抜けな声を出した。
カズキにじっと目を向けていると、少しずつ、体の震えもおさまっていった。
「仕方ねーな。デブ、あれ持ってきてあるだろう?」ぼりぼりと頭をかいて、カズキは言った。
「もちろんさ」
ソウタさんが懐から取り出したのは、スプレーのようだった。ソウタさんはスプレーをカズキに手渡した。
「こんなこともあろうかと、護身用の催涙スプレーだよ。最悪、これでユウカちゃんの動きを止めて、ユウカちゃんをかついで、四人でここから脱出するしかない。文句はないね?」
「はい!」僕は頷いた。小さいけど、希望が見えてきた気がした。
ユウカさんたちを見失う前に、僕らは急いで部屋を飛び出し、大通りに出た。
ユウカさんとサトミさんはちょうど、少し先の細道に入り込んでいくところだった。
「追いかけよう!」
三人そろって細道に入ると、急に霧が濃くなり、もうユウカさんの姿は見えなかった。それどころか、一メートル先も見えないような状態だった。
足元に気をつけながら、僕らは走り出した。
どこまで続くかも分からない背の高い木々の間を伸びる細道をしばらく走った。すると、前方に突然、石段の階段が現れた。
霧のせいでどこまで続くかも分からない石段の途中に、かろうじてユウカさんの姿を見て取ることができた。ユウカさんは乱暴にもやみくろの手を引いていた。
「ユウカ、戻れ!」
カズキが叫ぶと、ユウカさんはこちらを振り向き、すぐに駆け出した。
舌打ちをし、カズキが石段を駆け上がり、僕もすぐにそのあとに続いた。
動きの遅いやみくろの手を引いて、そんなに早く移動できるわけがない。踊り場のようになっている広場で、僕とカズキはユウカさんに追いついた。ソウタさんは遅れているようだ。
ユウカさんが立ち止まり、肩で息をしたまま顔だけを上げて、何か言おうした。
その前に、僕が何かを言う隙もなく、カズキは例のスプレーをユウカさんの顔に思い切り噴射した。
「きゃっ、何よこれ!? 痛いっ!!」
「洗えば痛くなくなるよ。さぁ戻るぞ」
そう言って、カズキは懸命に目をこするユウカさんの手を無理に引いて階段を下りはじめた。その後ろを、律儀にサトミさんもついてきている。
無茶苦茶だ……。その光景を見た僕は思ったけど、文句は言えなかった。元々こうする他ないと、覚悟は決めていたはずだ。
三人を追うようにして石段をおりていると、
『得体の知れない化け物に襲われた』
ふと、テレビクルーたちの言っていた言葉を思い出した。
僕は一刻も早くこの場を逃れようと、目を真っ赤にして咳き込むユウカさんが転ばないよう後ろから支えながら、必死で足を動かした。
すぐに、階段の一番下で、ぜいぜいと息を吐くソウタさんがこちらを見上げているのが見えてきた。
そのメガネの奥の両目は、まるで僕らの後ろに何かが迫っているかもように、大きく見開かれていた。
「逃げろ、逃げろぉぉ!」
ソウタさんは僕らの後方を見つめたまま叫び、三人がハッとなった。本当に、何かが追ってきている……!?
走り出す瞬間、僕は振り向かずに逃げるべきだと分かっていながら、ちらりと、横目で後ろを振り返ってしまった。
「ひぃッ!」
僕の目の端にうつったのは、体の大きな、真っ赤な猿だった。一瞬しか見えなかったけど、僕にはその猿が首から二つの頭が生えているように見えた。
僕はらは石段を飛び降りるようにして、ユウカさんを押しながら懸命に走った。化け物との距離はほとんどない。
一番前をソウタさん、その後にやみくろ……サトミさんとユウカさんと、二人を引っ張るカズキが続き、僕がユウカさんを押すようにして走る。
当然、思うようにスピードはでなかった。
「走れ、走れ走れ!!」
ふと、背後に迫っていた音が止んだ気がした。けれどそれも一瞬のことで、今度は細道の左側の木々から、がさがさと、木を揺さぶるような激しい音がしはじめた。
赤い猿が道から、林の中に移動し、木々を飛び移っているんだ。
「左側、林の中を追ってきてるよ!」
「クソッ、戻ってもダメなのか!?」
カズキが苛立たしげに叫んだ、次の瞬間、僕の目の前を赤い影が横切り、視界から一瞬にしてカズキの姿が消えていた。
「カズキ!?」
林から飛び出してきた猿に襲われて、カズキは道の端に倒れ込んでいた。
その上に覆いかぶさるようにして、双頭の猿の二つの赤い顔が、腹に響くほど大きな奇声をあげていた。
「ギィーィィィィィィギィィイィッ!!」
「ギィーィィィィィィギィィイィッ!!」
首から二手に分かれた大きな頭は、一つが僕のほうに牙をむき出して威嚇し、もう一つがカズキの顔を噛み付こうとしていた。バランスを崩したユウカさんとサトミさんは、道に倒れこんでしまっている。
「カ、カズキ……」
僕はカズキを助けようと近寄ろうとするけど、両足は地面に根を張ったように動かなかった。
赤い猿のあまりに凶暴で、現実離れした風貌に、足がすくんでしまったのだった。
赤い猿の牙はカズキの喉元に迫っていた。僕がその場で動けずにいると、視界の隅で巨体が動いた。
「これでも食らえッ!」
咄嗟に掴んだんだろう、ソウタさんが投げたのはただの木の棒切れだった。
それでも堅い木の棒はカズキの顔から数センチまで近づいていた猿の頭に当たり、猿の動きを止めた。
食事の邪魔をされて怒ったのかもしれない。カズキのすぐそばにあった片方の顔は、憤怒の形相をして、ゆっくりとソウタさんのほうに顔を向けた。もう一つの顔はじっと僕を睨みつけている。
こちらを威嚇するように二つ頭が激しく左右に揺られ、牙を剥き出した口から涎が飛び散った。近くにいた僕やカズキの服はびっしょりと濡れた。
次の瞬間だった。ぷしゅぅぅぅぅぅという音がしたかと思うと、赤い猿の二つの頭が思い切り後ろへのけぞった。
「これでどうだ、この野郎ッ!」
猿の下から、カズキが催涙スプレーを二つの赤い顔に向けて思い切り振りかけていた。
猿は二つの手で二つの顔を守るような仕草をしながら後ずさり、林の中へ入っていくと
「キッ、キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッッ!」
「キッ、キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッッ!」
悲痛な叫び声を残して、木々を飛び移りながら林の奥へと逃げ帰っていった。
僕らは呆然とした気持ちから抜け出せないまま、お互い支えあうようにして細道を駆けた。それぞれの体や服から発する汗や体臭、熱気が混ざり合って気が遠くなりそうだった。
「た、助かった……」
ようやく大通りに出て、行き交うやみくろたちを見て、僕はホッと息を吐いた。こうして無事に生きていることが信じられないような、そんな心持ちだった。