少女の異(7)
式無常は、僕らを見つけると、元からしわの寄った眉間にさらにしわを寄せ、ユウカさんに向かって飛び掛った。
「見つけたぞ、娘。われわれをこんな所に閉じ込めおって!」
「や、やめてください、先生」
ユウカさんの制服の胸倉を掴んで揺さぶる式無常を、テレビクルーのひとりがユウカさんから引き剥がした。
僕とカズキとソウタさんは、ただ呆然とその突然始まったやりとりを眺めていた。
どうやら彼ら三人もユウカさんによってこの世界に導かれ、閉じ込められてしまったらしい。
式無常は一番体格の良い、カメラマンらしきテレビクルーに羽交い絞めにされ、ようやく落ち着きを取り戻すとその場にへたり込んだ。
式無常は四十代半ばの、精悍な顔つきをした痩身の男、のはずだった。
今では焦燥のためか見る影もなくやつれ、五センチほど伸ばしたトレードマークのあごひげも水気を失って縮れていた。
「お前が言っていた、条件を満たせばいつでも異世界へ入ることができるという言葉を疑ったのは謝る。だから、頼むから我々を元の世界に返してくれ。この通りだ」
式無常はうなだれたまま、さらに深々と頭を下げた。地面に頭がつかんばかりの勢いだ。
だけどユウカさんが彼になんて言うかは、僕らにはもう分かっていた。
「無理よ、ここに入ったものは二度と出られないもの。あなたたちも、一応ここを探索して回ったのでしょう? どこかに出口か非常口なんかが見つかった?」
式無常はそのまますすり泣きをはじめてしまった。見る人間をひきつける精悍な姿は見る影もなかった。
式無常の代わりに、テレビクルーの中で一番若い茶髪の男が答えた。ユウカさんの嫌味にも気づいていないようだ。
「一応俺たちも出口のようなものがないか探したんだ。だけど見つからなかった。この大通りを横に抜ける細道を行くと得体の知れない化け物に襲われたし、大通りを先に進むと遠くに真っ赤な川が見えたから、慌てて引き返してきた。俺たち全員が、あっちには絶対に行っちゃいけないって感じたから」
得体の知れない化け物に真っ赤な川……。
男は詳しく語らなかったけど、その顔に現れた疲労を見るだけで、すでにここで相当な体験をしていることが分かった。
「でも……よく考えるとあんたは一度この世界に来てるんだよな。この世界のことをもう知ってるのか?」
茶髪の男も僕らと同じ思考をにたどっているようだった。式無常ががばりと頭を上げた。
「そうだ、お前は一度この世界から元の世界に戻ったんじゃないか。教えろ、教えるんだ、娘。どうすればここから元の世界に戻れるのかを!!」
式無常の目はほとんど正気を逸しているといって良かった。つばが飛び散り、ユウカさんが汚そうにハンカチで服に付いたつばを拭いた。
もう一度掴みかからんばかりの勢いの式無常の手から逃れながら、ユウカさんは言う。
「簡単よ、元来たあぜ道を戻っていって、川に突き当たったら川を泳いでいけばいいだけ。あなたたちがこの世界に来たとき、すぐそばに川が流れていたでしょう? 私たちははその川の流れに乗ってこの世界に来たの。川を泳いでいけばすぐに元の世界に着くわ。ただし、ワンちゃんに気をつけてね」
「聞いたか、元の世界に戻れるぞ!」
式無常は真っ先に部屋を出て行き、興奮した様子のテレビクルーたちもそのあとに続いた。
「お、おい!」
カズキは引きとめようとしたけど、すでに式無常たちは階段を下りて表に出たところだった。
「何をたくらんでるんだ?」
カズキはユウカさんを見下ろして言うけど、ユウカさんは首を傾げて、
「さぁ」といやらしく笑うだけだった。
カズキが四人のあとを追うため外に出たので、僕とソウタさんも続いて外に出た。外は少し霧が濃くなっているようだった。
辺りを見回して彼らを探すと、すぐにあぜ道を走る四つの人影が見つかった。
よっぽど憔悴しているんだろう。彼らはこちらにやってくる数体のやみくろを押しのけるようにして、足をもつれさせつつ我先にと川へ向かって進んでいた。
「どうする、追いかけるのか?」
ソウタさんが聞くけど、カズキは首を振った。
「まさか。ユウカのさっきの笑顔見ただろう? 絶対に何かあるに決まってるんだ」
と、僕の視界の隅で赤いものが動いた。田んぼの隅の、霧でこちらから見えるか見えないかという辺りだ。
目をこらしてみると、藪の中に身を潜めていた赤っぽい生き物が飛び出し、田んぼを物凄い速さで疾走しているところだった。
「見て、あれ!」僕は叫び、それを指差した。
ユウカさんがワンちゃんと呼んだそれは、牛ほどの大きさのある、真っ赤な毛並みの角を生やした犬だった。
目がぎょろりと大きく、狛犬を思わせる体型をしたその動物は、その大きさからは信じられないほどの速さであぜ道までたどり着くと、テレビクルーの一人の背後から飛びかかった。
「え?」
テレビクルーの頭が体から離れる瞬間、彼のそんな声が聞こえた気がした。
彼の首は赤い犬の鋭い牙にぎざぎざに引き裂かれ、その頭は飛びかかられて一秒とかからないうちにあぜ道の隅に転がっていた。
頭部の皮膚がでろんと、みかんの皮が剥けるようにはげ、脳の一部が露出しているのが遠目でも分かった。
一気にこみ上げる吐き気を、僕は口を押さえて懸命にこらえた。
「びゃぁぁぁぁああ!」
「うわ、うわっ、うわあぁぁぁぁあっ」
「た、たすけ……助けてぇぇぇぇぇ!」
頭部を無くした、首から血が噴き出す胴体がその場に倒れこみ、周りにいた三人がお互いを抱き合うようにして叫び声を上げた。だがすぐに、彼らはその悲鳴すらあげられなくなった。
赤い犬は鋭い爪で、三人の首を引っかくようにして二度三度と飛んだのだった。
三人の首から一斉に血が噴き出した。
「あ…かふっ……が…が……ぁ…」
式無常は目を見開き、もごもごと口を動かし血を吐き出したかと思うと、そのまま前かがみに倒れこんでしまった。式無常はそれきり動かなくなった。
その光景は到底、現実のものとは思えなかった。
ソウタさんがとっさに口を押さえ、そのすき間から吐しゃ物とも涎ともつかない液体が流れた。
それから赤い犬は式無常の屍体を噛み砕き、租借しはじめた。遠目ではあったものの、僕はとっさに目を背けた。
しばらくすると、お腹がいっぱいになったのか、赤い犬は首のない体のお腹から伸びたピンクの腸をくわえ、式無常の体を左右に振り回して遊びだした。
まるで人形のように、式無常の体だったものはあぜ道を右へ左へと飛び回り、やがて彼の体には黒いもやが浮かびはじめた。
彼だけじゃない、死んだはずのテレビクルーの体にも、次々と黒いもやが浮かび上がりはじた。
「信じられない……。式無常の体、動いてるぜ」
カズキが指差すほうを見ると、さっきまで式無常のものだった体は全身が黒いもやに覆われ、赤い犬の横で、ゆっくりとした動作で立ち上がっていた。
他の三つの体も同じように立ち上がり、緩慢な動作であぜ道をこちらに歩きはじめた。
角の生えた赤い犬はのっそのっそと藪の中に戻っていった。
僕らは無言のままその光景を眺めていたけど、四体のやみくろがこちらに来る前にユウカさんの待っている部屋へ戻った。
「説明しろ!」
部屋に入るなり、有無を言わさぬ口調でカズキは言った。僕も同じ気持ちだった。
「説明って何を?」
「あの赤い犬だよ。それにどうしてあの犬がいると知ってて霊能力者たちを行かせたんだ」
ユウカさんはしばらくふすまのすき間からぼうっと外を眺めていたけど、「ついてきて」とだけ言って立ち上がり、部屋を出た。
思えば僕らは最初からこの女性の言動に翻弄されている気がする。
僕らはあぜ道が、集落の大通りへと繋がる地点に立ち、ユウカさんが話しはじめるのを待った。四体のやみくろはどこかへ消えていた。
ユウカさんはしばらく大通りからあぜ道へ伸びていく道へ目を向けていたけど、やがて視線を戻してゆっくりと話しはじめた。
「あの赤い犬については、私もよく知らない。ただ私がここにいる間に、何度かやみくろがこの道を戻ろうとしたことがあって、そのやみくろたちは全てあの犬に喰われてしまった。あの犬はたぶん、この世界に入り込んだものが元の世界に戻らないように見張ってるんだと思う」
「そんな物騒な世界に、どうしてお前は戻ったんだ? あの犬がいる限り元の世界に戻れないんだろ!?」
「それは……私の両親が離婚したのは、カズキとソウタさんは知ってるでしょう? その離婚の理由だけど、母さんが新興宗教にハマったせいだったの」
「サトミさんが宗教に?」
カズキがソウタさんに視線をやり、ソウタさんが首を振った。二人とも知らなかったようだ。
「もともと病気がちだったし、父さんともうまくいっていない時期だったから、心の拠り所を求めていたんでしょうね。でもその宗教がタチの悪いところで、母さんは貯金を全額お布施として差し出すだけでは飽き足らず、教団に私を差し出した。もちろん母さんに悪気はなく、ただ『救い』を求めていただけだけどね」
「差し出したってお前……!?」
カズキは目をまん丸に見開いて、言った。
「乱暴されただけじゃなくて、いろんな麻薬や幻覚剤のようなものを使われたり、無理に催眠療法を受けさせられたりして、何度か本当に死にかけたこともある。私が常人にない能力を身につけたのも、たぶんそのせい」
「それでよく、洗脳されなかったものだ」ソウタさんがひとり言のように呟いた。
「そういえば、デブはそういう話、詳しかったよな」苛立ったように、激しく頭をかくカズキが言う。
ソウタさんは疲れの浮かんだ顔を少し得意げにして、
「宗教は嫌いだけど、一時期、神秘体験に凝っていたからね。説明が難しいけど、神秘体験っていうのは本人しか体験できない宗教的な体験の一種だよ。神々しい感情に包まれたり、強烈な光を見たり……。多くの宗教で、信者を教団に引き留めるためにこの体験をさせようとする。それこそ、幻覚剤や麻薬を使ってまでね」
「私は神秘体験なんて、一度もしなかったわ。ただ苦痛なだけだった」
「これは個人的な感覚だし、強い拒否感の中で体験するケースは少ないのかもしれない。でもこれを体験すると、洗脳は終わったようなものさ。地下鉄でサリンを撒いた宗教団体があったのは知ってる? あの事件の後もたくさんの若者が宗教団体に残ったけど、それはこの神秘体験によるものが大きいとも考えられている。ユウカちゃんのお母さんも、ひょっとすると……」
ソウタさんはそのまま下を向いたきり、黙り込んでしまった。
今の話を聞いて、ユウカさんが異世界への扉を見つけることができるようになった理由に関しては、僕も納得した。
でもそれだけじゃ、彼女がどうして二度もこの世界にやってきたのかの説明がつかなかった。
ふと顔を上げると、また新たにやみくろがこちらに近づいてきていた。元の世界のどこかで、誰かが死んでしまったのだろう。
「私がそんな不幸な力を手に入れたことなんて知らずに、母さんは勝手に病気になって入院したわ。それからは知っての通り、私は好奇心に負けてこの世界に入り込んでしまった。投げやりになって、すべてがどうでもよかったっていうのもあるわ」
「でもこの世界からは無事に逃げ出すことが出来たんだね」
「そうね、元の世界に戻ったら二年間経っていて、私は神隠しにあったなんて言われてた。そして病院で、母さんは死にかけていたわ。母さんのせいで私がどれほど苦労したかも知りもせずに……。そんなの絶対に許せなかった。絶対に絶対に。だけどもう、母さんは一度も意識も取り戻すことなく死んでいく」
「まさか、お前ひょっとして……!」カズキが何かに気づいたようだった。
「そうよ、あの女がここで穢れを落として成仏するなんて絶対に許せない。犬か化け物にでも喰われて、永遠に苦しみ続けない限り、私の恨みが晴れることなんかない!」
ユウカさんの言葉は熱を帯び、静かな叫びに変わっていた。
「それが私の目的。式無常とかいう男たちをここに連れてきたのは私が霊能力者とか教祖とかそういった胡散臭い連中が大嫌いだから。ユウ君を連れてきたのに理由はないわ、可愛かったから巻き込んでやろうと思っただけ」
そう言うユウカさんの表情は楽しげでどこか狂気に取り付かれているようでもあり、僕の腕にはびっしりと鳥肌が立っていった。
さっき遠くに見えていたやみくろが、もうすぐそこまで来ていた。その体つきはついさっき病室で見たものとよく似ていた。
「来たようね、母さん。待っていたわ。あなたに会うためにわざわざこんな場所まで来て、ね」
ユウカさんはやみくろの前に立つと、そう言った。