少女の異(6)
「もう分かってると思うけど、私がはじめてここに足を踏み入れたのは二年前。ついこの間、ここから抜け出すことができるまで、私はずっとここをさ迷っていたわ。脱出した頃にはもはや時間の感覚もなくなっていた。時間の感覚を失ったからこそ、私は自我を保ったままここから抜け出せたのかもしれないわね」
「ここはどこなんだ?」
三人の思いを代表してカズキが聞いた。僕とソウタさんは、まだ声も出すことができなかった。
「ここは死者が訪れる場所。私はとある理由から、生きたままここに入る道のようなものを見つけることができるようになった」
「死んだ人が来る場所……」
信じられなかった。いや信じたくなかった。ただ僕の本能は、しきりにこの場所はヤバい、早く逃げろと告げ続けていた。
「あの、神隠しが本当にあったことは分かったんで、もう帰りたいんですけど……」
ユウカさんには勇気があるならついて来ればいいと言われていた。自分で無理を言っていることは分かっている。でも僕はこれ以上、一秒だってここにいたくなかった。
喉がからからに渇き、僕の額には嫌な汗が浮かびはじめていた。
「何言ってるのよ、あなたまだ何も見てないじゃないの」
そう言って、ユウカさんは石の多い河原を、川から離れる方向に向かって歩き出した。そちらは足首までの高さの草が伸びる丘になっていて、その先に何があるのかをここから判別することはできなかった。
カズキが僕とソウタさんに向けて順に頷いて、ユウカさんについて歩き出した。
ついていくしかなかった。そうだ、考えようによっては、ここに来たことがあるユウカさんと一緒っていうのは心強いことなんだ。
僕が歩き出すと、ソウタさんもあとをついてきた。やはり不安なんだろう、ソウタさんの上着はもう汗でぐっしょりと濡れていた。
丘をのぼりきると草が切れ、左右を大きな田んぼに囲まれたあぜ道が続いていた。
日の昇る直前の早朝か、深い夕暮れくらいの明るさだった。陽もないのにどこからか薄明かりが差していて、周囲の様子はなんとなく分かった。
死者の訪れる場所と聞いてとんでもない風景を想像していたから、僕は少し拍子抜けした。
それでも、辺りが暗く、霧も出ているせいで、ただまっすぐ伸びるあぜ道や左右の田んぼの先に何があるか見渡せず、僕の想像力を悪い意味でかきたていった。
「気味が悪い場所だな……」
そのまましばらく、ユウカさんについてただ真っ直ぐ歩いた。
田んぼには刈り取られた後の稲が残り、たまにかかしが立っているのが見えた。目をこらさないと見えないけど、田んぼの奥は深い藪のようで、背の低い木々が密生していた。
妙にその藪が気になってじっと見ていると、がさがさっと、藪の一部が動いた気がした。
とっさに動いた辺りに目をやると――
「だ、誰かいるっ!」
藪の奥で、青白く光るふたつの目がこちらをじっと見つめていたのだった。
「どこだ!?」
僕が指差すと、カズキとソウタさんが息をのむ音が聞こえてきた。でも前を歩くユウカさんだけは冷静だった。
「イチイチ騒がないでよ。あれはあっち側に向かう分には、こちらに手出ししたりしないから」
そう言ってようやく僕らのほうを振り返ると、僕らの後ろを指差して、
「それにあんなもので驚いていたら、そこにいるものを見たらどうなっちゃうのよ」と言った。
「ひッ……!!」
それを見た僕は、声にならない悲鳴をあげていた。カズキは驚愕に目を見張り、ソウタさんは口を半開きにしたまま絶句していた。
それは一言で表すなら黒いもやのようだった。
ぼんやりと人の形をした黒いもやのような塊が、こちらに向かってゆらゆらと歩いてきているところだった。
僕らは怯えて這うようにして左右に分かれると、その目も鼻もない奇妙なもやに道をあけた。
もやは額に脂汗をじっとりと浮かべた僕らに興味を示すこともなく、あぜ道をただゆっくりと歩いていった。
「ユウカちゃん、ひょっとしてあれが……死者なのかい?」
僕が口に出せなかった質問をソウタさんがしてくれた。
もしユウカさんがそうだと答えたら、僕らは本当に死者の世界に足を踏み入れたことになってしまうんだ。
「その通り、あれが死者よ」彼女はためらうことなく言った。「私はいつか読んだ小説に出てきた生き物の名前を借りて、『やみくろ』って呼んでる。やみくろたちはこの先の集落で……まぁ実際に見るといいわ」
ユウカさんは何事もなかったみたいに歩きはじめた。僕ら三人は顔を見合わせ、訳もわからず頷きあっておそるおそる歩き出した。
誰も時間の分かるものを持っていなかったけど、体感時間にして二三分ほど歩いただろうか。
その間、僕らの後ろから数人のやみくろがやってきた。
男っぽいもや、女っぽいもや、老人のもや、地面を這う赤ん坊のもや……。異空間に慣れている僕らも、まだやみくろたちには慣れることはできそうになかった。
やがて僕らは集落に着いた。
「意外とまともそうな所なんだな」
長屋というのだろうか、古い、木造二階建ての横長の建物が、大通りに面して左右に無数に並ぶだけの集落だった。直線距離にして一キロ近くあるかもしれない。
建物同士は数センチのすき間をあけてほぼ隣接しており、屋根の先からはいくつもの提燈がぶらさがって薄暗く霧の出る辺りを幻想的に照らしていた。
どの長屋も、二階は大通りの側に突き出て、木造のベランダのような造りになっていた。そこにはやみくろ所在なさげにが座り込んだり、誰もいなかったりした。
通りに座って、浮浪者のようにこちらをぼうっと眺めているやみくろもいる。こちらに敵意があるような感じではない。
僕にはそれが、何十年か、百何年か前に日本のどこかにあった風景のように感じた。
「なかなかいい所でしょう? ここにいればお腹も空かないし、綺麗な水の温泉もある……。私が前にいた所に行くから、絶対に私から離れないで。間違っても、この大通りから外れないこと」
通りにはいくつかの横道があったけど、その先は暗く蛇行していて、どこへ続く道か分からなかった。僕は頷いた。
ユウカさんがいた所というのは、数十棟は続いている長屋の一番奥から三番目の建物だった。
僕らはユウカさんについて二階に上がると、狭いささくれたった畳の部屋に腰を下ろした。
「聞きたいことが山ほどある。答えてもらうからな、ユウカ」
とげとげしい声で、カズキが言う。二人が喧嘩別れしてそれきりっていうのは本当みたいだ。
「ここはいったい何なんだ?」
「だから言ったじゃない、死んだ人がここにやってくるの」
言いながら、ユウカさんは大通りに面した穴だらけのふすまを開けて外を気にするしぐさをした。
「だから、あのやみくろたちは何でここにいる。ここは何のためにある場所なんだって聞いてるんだよ」
「これは私の想像だけど、死んだ人たちはここで生きていた頃の穢れとか、汚れとか、そういったものを落として、きれいになって向こうに渡っていくの。ここはそのための場所よ」
「抽象的すぎて分かんねーよ」
「うるさいわね! 私だってよく分からないのよ」
ユウカさんは大きな声を出した。サバサバしているようで、意外とカッとなりやすい性格なのかもしれない。
「けど、この集落を出てしばらく歩くとまた川があって、時期が来たやみくろたちは、皆その川の方に行くわ。まるで何かに引き寄せられるように。そこに向かった人たちは二度と戻らないから、きっとその川っていうのは……」
「三途の川、か」カズキがつぶやいた。
僕はまだ、自分がそんな場所に入り込んでしまったと信じることができなかった。
目が覚めれば普通の日常が待っているんじゃないか、そんな気がしていた。
でも次の言葉を聞いて、そんな淡い希望も打ち砕かれてしまった。
「分かっていることがもうひとつある。ここに来たものは、二度と元の世界に戻ることはできない」
「そんな、じゃあ僕たちも二度と出られないってこと!?」
僕とソウタさんが、同時に同じような叫び声をあげた。
それでも、やっぱりカズキだけは冷静だった。カズキはどこかめんどくさそうに頭をかきながら、
「そうやって脅すけどさ、実際にこの世界に入り込んで元の世界に戻ってるヤツがいるじゃんか」
そうだ! ユウカさんは一度この世界にやってきて、元の世界に戻っているんだ。何か、脱出の方法があるはずなんだ。
「私だって自由に出入りできるわけじゃないわ。入る場合は、死期が近づいている人の近くに出来る、ここに来るための扉――今回は病院の階段だったわね――を見つけることができるから簡単だけど、出るのはとても困難よ。この間もチャンスを待って、本当に奇跡のような確率で出ることができたんだもの。四人そろって脱出するなんて100%不可能よ」
ユウカさんは本当に淡々と言う。
僕には彼女の言葉を聞いているうちに、ひどく引っかかる部分があった。それは僕がこの世界に来たときから感じていたことだ。僕が口を開きかけたところで、その質問はカズキが代弁してくれた。
「なんでお前だけそんな扉を見つけることができるんだよ。いや、そんなことより……どうしてお前はそんな奇跡的な確率で脱出しておいて、もう一度ここに戻ってきたんだ!」
そう、彼女の言っていることは明らかにおかしかった。最初の神隠しのときは、僕らと同じように好奇心で覗いてみただけかもしれない。
でも『もう一度ここに戻ってくる』理由なんてひとつもないはずなんだ。
カズキの問いを聞いて、少し下を向いたユウカさんは口元が笑った、気がした。
彼女が口を開こうとしたとき、階下から、どたどたと、慌しげな音が聞こえてきた。
「何の音? こんな音を立てる人が、あのやみくろのほかにいるの?」
僕が聞くと、ユウカさんはしばらく耳を澄ますようにしてから言う。
「変ね、ここにはやみくろの他に何もいないはず。もしいるとすれば……」
ふすまで仕切られた部屋の中に、階段をのぼる音と共に、何人かの男性が話す声が入り込んできた。
「式さん、本当に見たんですか?」
「ああ、ここに人間が入っていくのを確かに見たんだ」
「でも、ここにいるのは黒いもやみたいな気味の悪いやつばかりで、今まで人間なんてただの一人もいなかったですよ」
「本当に見たんだよ!」
がらりと、ふすまが開かれた。
現れたのは、テレビで何度か目にしたことのある式無常と、神隠しにあったはずの三人のテレビクルーだった。