少女の異(5)
「勇気があれば、か。でも本当に良かったの? 彼女の言うとおりだとすれば、どんな危険があってもおかしくはないけど」
「いいんです、ここまで来て引き返すことはできません」
国道をK市総合病院がある方向へ向けて、ソウタさんの黄色いスポーツカーはぐんぐん加速していく。
今日の昼休みにソウタさんと話し合った結果、僕らは彼女の言うとおり、夜のK市総合病院に行ってみることにした。
彼女に何の目的があって僕を病院に呼んだかは分からないけど、虎の穴に入るのをためらっていては、何も手に入れることはできないんだ。
明日は休日だった。僕は念のため、カズキの家に泊まってくると言い残して、ソウタさんと合流していた。
「そういえば佐藤友香とソウタさんは面識があるんですか? あの佐藤友香と同じアパートに住んでいるなんて、いくらなんでもでき過ぎですよ」
最初から話すつもりで来たのか、ソウタさんは自分たちと佐藤友香の関係を淀むことなく話しはじめた。
「僕ら――つまり僕とカズキ、そして僕らの両親の四人があのアパートに越したのが八年前。そのとき僕は十一歳で、カズキはまだ二歳だった。あのアパートも、改築して今みたいにきれいになる前のオンボロで、そのとき二つ隣の部屋に住んでいたのが当時七歳だったユウカちゃんさ」
「そんな昔から佐藤友香……ユウカさんと知り合いだったんですね」
「僕らはどちらも家が貧乏で友達も少なかったから、すぐによく遊ぶようになったよ。僕は女の子と遊ぶといじめられたから遊ばなくなったけど、カズキはよく面倒を見てもらって、本当のお姉さんみたいに慕ってたみたいだよ」
神隠しの少女とカズキがそんな関係だったなんて、僕は驚いた。
「でもユウカちゃんの両親が離婚することになって、ユウカちゃんは家を出たお母さんに引き取られることになった。それが原因でカズキとユウカちゃんは大喧嘩。それ以来ユウカちゃんとは音信不通だったから、まさか神隠しにあったと聞いたときは驚いたよ。二年後、また見つかったと聞いたときもね」
「だからカズキは意地を張って、今回の件に関わろうとしなかったんですね」
「そうだろうね。でもひとつ気になるのが、ユウ君がこの間言っていた、彼女があのアパートに来ていたっていうことだよ。ユウカちゃんがアパートで一人暮らしをしている父親のもとに帰ってきたことなんて、これまで一度もなかったと思うから。ただ無事を報告しに来たのか、何か理由があるのか……」
車が止まった。車はK市総合病院に着いたのだった。
すっかり夜も更け、空には満点の星が出ていた。
緊張してドアを開け、外に出ようとすると、突然、黒い人影が窓ガラスに取り付き、拳でガラスをどんどんと叩きはじめた。
あまりに急な出来事に、僕は悲鳴を上げて飛び上がった。
「だ、誰だ!?」ソウタさんも僕と同時に情けない声をあげる。
僕らが呆然としながらその影を見つめていると、急にその人影はお腹を抱えて笑いはじめた。
「はははっは、ふふっ、あはははははっ」
それは僕のよく知った笑い声だった。よく目をこらして見てみると、その人影はカズキだった。
「カズキ、どうしてここにいるのさ!?」
僕は車をおりると、僕らの驚いた顔を見てお腹を抱えて笑い続けるカズキに言った。僕にはカズキのイタズラについて文句を言う余裕もなかった。
「おじさんに、ユウカの父ちゃんに頼まれたんだよ。昨日ユウカがお別れを言いに来て、もしかしたら何かやるつもりかもしれないから何とかしてくれって。小学生に頼むなと思ったけど、ユウカの父ちゃんは腰を痛めてるらしいし、仕方ないから引き受けてやった」
「でも、どうして僕らがこの病院に来ることが分かったんだい?」
ソウタさんも落ち着きを取り戻して、すっかり弟に頭が上がらないいつもの調子だった。
「まったくこれだからデブは。ユウが公衆電話で話してるのをコッソリ聞いたに決まってるだろ」
そう言ってカズキが笑うので、僕は心の底から安心した。カズキがいてくれるなら、もう怖いものは何もなかった。
僕らは見舞い客用の入り口から病院に入るとエレベーターに乗り、薄緑の明かりの中を304号室へ歩いた。
304号室の前に……いた。ユウカさんが腕を組んで僕を待っていた。
ユウカさんは僕を見て、それからソウタさんとカズキを順に見て、しばらく怪訝そうな顔をしてから、最後に目を見開いた。
カズキとソウタさんが昔の知り合いであることに気づいたのだろう。
それでもユウカさんはすぐに動じたそぶりを隠して、「入って」とだけ言って先に304号室の病室へと入っていった。
病室は個室で、そこにはひとりの老婆が横になっていた。いや……よく見ると老婆じゃない。
皺だらけでやつれ、髪の毛はほとんど白髪になっているけど、ベッドにかけられている名前プレートの横には四十八歳と年齢が記されていた。
「ソウタさんたちは知ってるわよね。この人が私のお母さんなの、おばあちゃんみたいでしょ」
ユウカさんは言うけど、僕は返事を濁すことしかできなかった。
「この人が……あのサトミさん?」
面識があったのだろう。変わり果てたらしいその姿に、カズキとソウタさんは相当驚いているようだった。
「もう死にかけてるわ。今夜が山だって」
淡々と、まるで事務仕事を報告するみたいにユウカさんは言った。カズキはその口ぶりにもショックを受けているようだった。
「でも……何だってユウとサトミさんを会わせようなんて思ったんだよ」
カズキは混乱しながらも、ユウカさんに向けた敵意を隠さずに聞いた。ユウカさんはこの間と変わらない、でも、どこか無理をしているようにも感じる声の調子で、
「別に彼とお母さんと彼を会わせるのが目的じゃないわ。ただ彼が知りたいって言うから、真実を」
「真実? お前は何を……」
「そろそろよ」
カズキの言葉には答えず、ユウカさんは突然そんな言葉を言い残すと部屋を出て行ってしまった。
僕らは顔を見合わせて、そのあとを追いかけた。
「神隠しって言うけど、隠された人たちがどこに行くか考えたことがある?」
僕たちがついてきているのが分かっているんだろう。ユウカさんは階段をのぼりながら、こちらを振り向かずに言う。
「『千と千尋の神隠し』って映画があったけど、あの映画だと千尋は神様が温泉に入りにくる湯屋に迷い込んだわね。そういえば知ってた? あの湯屋って本当は売春宿だったんだって」
ユウカさんはさらに階段をのぼる。緑っぽい光に照らされるだけの暗い階段は、不気味でいかにも何かが『出そう』な感じだ。
「そもそも現実世界では、神隠しなんてほとんどただの家出か親族による犯罪でしょうけど――」
言いながら、さらにユウカさんは暗い階段をのぼる。今僕らは何階にいるんだっけ?
「もし私みたいに本当に『隠された』人間がいたとすれば、彼らはどこに行ったにせよ、映画と違って二度とこっちの世界に戻っては来れないでしょうね」
階段の上からぬるい風が流れてくる。ひどく不吉な予感がして、暑くもないのに次々に額に汗が浮かんだけど、僕はユウカさんを追って階段をのぼるしかなかった。
「え、お、おかしいよ!」
急に、それまで黙っていたソウタさんが大変なことに気づいたとでもいうような、情けない声を出した。
「僕たちは三階から三階分の階段をのぼって、さらに今も階段をのぼっているよね。でもエレベーターに乗ったとき、押しボタンは五階まで、その次は屋上を示すRになっていたはずだ。僕たちは屋上よりさらに上の階にいることになる。この階段がこれ以上続いているのはおかしいんだ……」
階段の五段ほど上から、ユウカさんが振り返って、笑った。
その笑顔が、周りの風景と一緒にぐにゃりと溶けたように歪み、激しい立ちくらみがしたと同時に体がひどく重くなった。
そして、気づけば僕らは屋外に立っていた。
慌てて辺りを見回すと、足元は石がごろごろとした足場で、そばにはさらさらと幅の広い川が流れていた。異変を感じた脳が信号を出しているのか、激しい耳鳴りがして一瞬目の前が暗くなった。
「ははッ……何だこれ」
カズキの渇いた笑い声が聞こえてこなかったら、さすがの僕もそのまま気を失っていたかもしれない。