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簡素な部屋によく似合う、質素な机にサーシャは頬杖をついていた。机の上にはペンとインク、そして数枚の紙が両肘の下敷きになっている。小さな花瓶に挿された一輪の花が、辛うじてここが年頃の娘の部屋だと主張しているが、水を換え忘れて少ししおれている。
あれから三日経った。うるさいゲイルと存在感だけは大盛りのサムの姿が消え、サーシャの家だけでなく村全体が灯が消えたようになっている。彼女も村人たちも、未だに胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が拭えないでいた。
「はあ……」
溜め息とともに、窓から庭を見やる。視線の先には納屋があった。サーシャはあの二人がまだ納屋で寝泊りしているような気がするが、それはあくまで錯覚であり、何度中を覗いても二人の姿はなかった。ただ二人が寝るために空けた空間だけが、名残りとしてあるだけだ。記憶とその空間以外に、彼らがここに居たというのを実感できるものはもう無いのだ。
サーシャはあの後もう一度火山の麓へ向かったが、二人が退治した怪物たちの死骸が綺麗に消えていた。たしかに彼女は見た。サムから箱の外に出してもらった時、最初に目に入った怪物たちの死骸の山、体液の河を。そのあまりにも酸鼻な光景に嘔吐したのをよく覚えている。だがあれだけの数の死骸が跡形もなく消失した。それこそ、自分が夢か幻を見たのではと錯覚するくらい綺麗さっぱりと。
だからゲイルとサムという奇妙な二人組が居たという確かな証拠は、何一つ無い。村人たちや自分が忘れてしまえば、彼らの存在はなかった事になってしまう。そのせいもあって、サーシャは納屋にぽっかりと開いた空間を埋める気になれないでいた。
どこからともなく現れて、怪物たちを退治して去って行った彼らは、結局何者だったのだろう。サーシャは今になって、もっと彼らの事を知っておけば良かったと後悔する。どうせ別れるのなら、余計な事は知らないほうがいいとあの時は思っていた。けれど村を――いや、世界を救った二人の事をそのうち皆が忘れてしまうのはあまりにも悲しい。そして村の人間以外には、彼らの功績が知られていないのはとても寂しい事だ。
本来なら国王から直々に感謝の言葉と勲章を賜り、国を挙げて盛大なお祭りをしてもおかしくない彼らの功績が、こんなちっぽけな村の中でひっそりと消えていって良いわけがない。けれどいくら思い出そうとしても、材料が足りない。悲しいくらい、彼らに関して知っている事が少なすぎるのだ。
いくら慙愧の念に苛まれようが、過ぎた事はもうどうしようもない。過去を変える事はできないし、記憶というものは時とともに薄れていくものだ。彼らの事を忘れないために、そしてもっと多くの人に伝えるにはどうしたら良いのか。サーシャは朝からずっとそればかり考えていた。
「はあ…………」
良案の代わりに溜め息ばかり出る。もうすでに一生分の溜め息をついてしまい、今は来世の分の前借りをしているようだ。朝日を見ながら考えていたのが、今では太陽がすっかり真上に昇ってしまっている。そういえば、朝食がまだだったような。いや、この時間だともう昼食になってしまう。などと思考が脱線した矢先、ドアの向こうからリネアが呼ぶ声が聞こえてきた。きっと昼食の準備ができたのだろう。
ドア越しに食欲がないと伝えると、母親は「そう……」と一言だけ言って戻って行った。寂しそうな声にサーシャの心が少し痛んだが、今は本当に食欲がなかった。それに大量の料理を見ると、また寂しさに拍車がかかるので食卓には行きたくない。リネアは未だにゲイルがいた頃の量を作るのだ。彼はもう、いないのに。
「はあ………………」
サーシャが箱に入れられた後、再びゲイルと会う事はなかった。吐くだけ吐いて胃の中の物をすべて出し尽くし、ようやく落ち着いたと思ったら、彼の不在に気がついた。そしてサムにその事を訊ねると、彼は黙って首を横に振るだけだった。
目の前が真っ暗になった。足が震えて立っていられなくなり、地面に両膝を着いた。涙が止め処なく溢れた。嗚咽が号泣に変わった。サムはただ、黙って立っていた。
どれだけ泣いていたかはわからない。とうに涙は涸れ果てて、腫らした目をこすりながら気がつけば村に戻っていた。隣にサムの姿は無かった。
「う……く…………」
強く結んだ唇の間から嗚咽が漏れる。あれだけ泣いたというのに、思い出すだけで目が潤むのはどうしたことだろう。鼻の奥がつんとなり、堪えようとしても温かいものが頬を濡らす。両手で顔を覆っても、伝った雫が肘の下にあった紙にぽたぽたと落ちる。涙は次々と紙に染みを作り、サーシャはとうとう机の上に覆い被さって声を殺して泣き出した。
目が覚めると、空が茜色に染まっていた。泣き疲れて眠ってしまうなんて、まるで子供のようだ。
――なによ、子供扱いしないでよ――。
――胸がまったいらだから、ガキかと思っちまったよ。紛らわしいんで今度から、年齢と〝こっちが胸です〟って書いた札を首から下げといてくれ――。
たった一週間の間に何度したかわからないような、じゃれ合いのような口ゲンカがこんなにも懐かしいなんて。ふっと脳裏に浮かんだ光景に、サーシャはまた泣きそうになる。
忘れたくない。
忘れちゃいけない。
こぼれ落ちそうになる涙をぐっと堪えて顔を上げると、頬に紙が貼りついていた。紙を剥がすと、頬の皮が引っ張られて痛かった。涙の跡でごわごわになった紙を恨みがましい目で見ていると、ふいに雷に打たれたような衝撃が走った。
「そうか。紙に書けばいいんだわ!」
天啓の如きひらめきに、サーシャは思わず大声を張り上げた。どうして今まで気がつかなかったのかと首を捻りたくなるが、今はそんな細かい事などどうでもいい。サーシャはさっそくペンを手に取った。
ペンをインクに浸け、いざ執筆という時にドアがノックされた。夕飯ができたので、リネアが呼び来たのだろう。
せっかくのやる気に水を注され、不機嫌な声を上げそうになる。だがそれよりも早く腹の虫が抗議の声を上げた。朝から何も食べてなかったので、体が食事を優先しろと言っているようだ。
二度目の長い腹の音に、サーシャは思わず笑みがこぼれる。そういえば、あいつはいつもお腹をすかせていたっけ。そんな事を思い出すと、はにかんだ笑顔が歪んでしまう。これじゃあいけない。頭を振って沈んだ心を振り払うと、サーシャは勢い良く椅子から立ち上がった。
まずはご飯を食べよう。腹が減ってはなんとやらだ。どうせまた母は料理を作り過ぎているのだろう。ゲイルには遠く及ばないが、今なら普段の倍は入りそうだ。お腹一杯食べて、それから彼らの物語を綴ろう。知らない人が読んだらおとぎ話と思われそうな、けれど知っている人は――少なくとも、この村の人々は真実だと知っている物語を。