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ゆっくりとした動きで、どれだけ泳ぎ続けただろう。動きが緩慢なので時間の感覚が狂ってしてしまうが、サムの体内時計ではまだ突入して五分と経っていなかった。
一向に前に進まない苛立ちと戦いながら、どうにかジークレイの顔面がそれと判る距離まで近づく。だが内部に侵入されたというのに、これまで何のリアクションもない事が二人の不安を煽る。しかし焦ったところでどうしようもなく、今はただ目標に向かって、溺れているのと大差ない格好で体液をかき分ける。
「奴の腹の中を泳ぐなんて、何だか奇妙な感じだな」
「まるでウィルスか細菌になった気分ですよ」
「気持ち悪い事言うなよ……。俺たちはばい菌か?」
サムの言葉に、ゲイルが心底嫌そうな顔をする。
「我々が彼の体内に侵入したウィルスだとすると――」
サムの動きが止まる。首を巡らせ、自分の想像が実現しているのを確認する。恐らく予想はしていたのだろう。大して驚くこともなく、淡々と事実を述べる。
「――それを退治するための免疫機能。つまり白血球のようなものが現れるのが相場というものですね」
センサーを使うまでもない。すでにゲイルたちは巨大な細胞体に取り囲まれていた。
「どうりで俺たちが中に入っても余裕ぶっこいてるわけだぜ」
「内部の防御にもよほど自信があるようですね。油断せずにいきましょう」
粘度の高い体液をものともせず泳いでくる巨大白血球もどきは、どこからともなく四方八方から湧いてくる。半透明な立方体に包囲網を敷かれ、ゲイルたちは進退窮まっていた。
「囲まれちまったな」
「猫の子一匹這い出る隙間もありませんね」
値踏みするようにふよふよと漂っていた細胞体の一体が、ゼリー状の体をサムの右足に触れさせる。ぷるんと音がしそうな接触の後、サムの右足はすっかり細胞体に飲み込まれてしまった。だがこれといって特に衝撃もない。ただまとわりつくだけの、とりもちみたいな役割なのだろうかと思ったのも束の間、細胞体に包まれた部分の塗装が見る見る剥げていくではないか。
「うお……っ!」
シールドを張っているはずなのに、白血球もどきはそれをものともせずにサムの右足を侵食していく。振り払おうとするが、体液の抵抗があって動きがのろい。おまけに細胞体は足首をすっぽりと包むように飲み込んでいるので容易に剥がれなかった。
右足に気を取られている隙に、他の細胞体もゲイルたちに取り付こうと集まってくる。体液に動きを阻まれ逃げる事も叶わないゲイルたちは、あれよあれよと全身を細胞体に取り込まれてしまった。
ゲイルたちの全身を包んだ細胞体たちは、それぞれが繋がって一つの塊となる。サムは巨大な泡の中に閉じ込められた形なり、全身を細胞体によって侵食され、たちどころに塗装が剥がれて装甲が剥き出しになった。
「ぐああああ……っ!」
「大丈夫か、サム!?」
深海の圧力や大気圏突入にも耐えられるサムのボディが、巨大白血球もどきによって食われようとしている。あと少しで核に辿り着けるというのに、このまま何もできずに食われてしまうのか。
「ゲイル、さすがにこれはまずいです」
動きを封じられ、じわじわと装甲を侵食されている今、さすがのサムも万策が尽きる。相棒の口から出た諦めの言葉に、ゲイルは発破をかけるように叫んだ。
「弱音を吐くんじゃねえ! それでも俺の相棒か?」
「ですが……」
いくらゲイルが檄を飛ばそうが、サムの闘志は奮い立たない。思索するのは、どうやってゲイルだけでも助けようかという後ろ向きな考えだけである。だがゲイルはサムの心知らずか、驚くべき命令をした。
「俺を強制射出しろ! 射出時の勢いで、いけるとこまで行ってやる」
「何を言っているんですか。そんな事をしたら、真っ先に貴方が溶けてなくなってしまいますよ!」
やぶれかぶれとしか思えない命令に、サムは狼狽する。強制排出をすればゲイルだけでも細胞体から脱出できるだろう。だがシールドを張れないゲイルが外に出たところで、あっという間にジークレイの体液に溶解されてしまうだけだ。これはもう一か八かの賭けなどではなく、ただの自殺行為である。
「いいからやれ! 俺の命令が聞けないのか?」
「当然です。そんな作戦とも言えない無謀な提案、賛成できるわけないじゃないですか」
「だがこのままだと遅かれ早かれ同じ運命だ。言い争っている暇なんて無い。とにかく俺を信じろ!」
信じろ――何と説得力のない言葉だろう。ゲイルの日頃の行いの何をとれば、信じる事ができるのだ。いつもいつも非常識で身勝手で幼稚で予測不可能な行動のどこに、信じられる要素があるというのか。
しかし逆を言えばそんなゲイルだからこそ、不可能を可能にしてきた彼だからこそ、この状況を打破する何かをやらかしてくれるかもしれない。
「……わかりました。これより最大加速でバーニアを噴射し、暴発させます。うまく爆風でこの包囲網を突破できたら――」
「ああ、後は俺に任せておけ」
どこにそんな自信があるのか、ゲイルの声はいつもと同じように力強い。普段なら溜め息をつきたくなる声だが、今は不思議と心強い。電子頭脳が弾き出した成功率は絶望的だが、何故かサムは不安を感じなかった。計算や確率など問題じゃない。サムはゲイルがやってくれると信じている。そしてゲイルはこれからやる事が失敗するなどとは微塵も思っていないはずだ。
「どうかご無事で」
「お前もな」
今生の別れではない。ただお互いの無事を願うだけの簡単な挨拶を交わすのは、すぐにまた会えるという確信からなのか、それともそうあって欲しいという願望なのか。
「準備はいいですか?」
「いつでもいいぜ」
それでは――とサムは四基のバーニアのノズルを最大に広げ、最大火力で噴かした。