17
叱られた子供がいつも同じ場所に隠れるように、ゲイルは昨日と同じ丘の斜面に寝そべっていた。
ただこうしているだけでは何も解決しないのはわかっている。だが他にする事もなかったので、仕方なくここで寝転んで時が過ぎるのを待っている。
「参ったぜ」
ゲイルは自分の服をつまむ。相変わらず緑色に染まった服は、今朝から何も変わっていない。いや、思い返せばこの村に来た頃から変化していないように思えた。
「まさかぶっ壊れてるとはなあ……」
よく見れば、服のあちこちにできた焼き焦げも残っている。森で蟻頭と戦っている時にできたものだ。体温調節機能を切った時はまだちゃんと機能していたから、恐らく蟻頭に叩き潰された時に故障したのだろう。
「まずいぞ……。このまま戻ったら、今度こそあいつに丸裸にされる……」
「それ以前にもっと心配する事があるでしょう」
「うおっ、びっくりした!」
いつの間にか、ゲイルを覗き込むようにサムが立っていた。常々疑問に思うが、あの巨体でどうやれば、気づかれずに背後に立てるのだろう。
「ただ単に貴方が鈍いだけですよ。それより――」
サムは周りの草と同化しているような相棒を見て、「ふむ」と呟いた。
「ナノマシンの制御装置が故障していますが、これなら修理可能です」
「ほ、本当か?」
サムの診断に、ゲイルの顔がぱっと明るくなる。
「良かったですね。官給品を破損させたら、始末書ものですから」
「ま~たあのハゲにクソ長い小言を聞かされるところだったぜ。お前は俺の上司かっつーの」
「全然ハゲてないし、彼は一応我々の上司ですが……」
「うっせえ! いや~しかし良かった良かった。一時はどうなる事かと思ったぜ」
ゲイルは嬉しそうに服を撫で回す。
「あ、でも今すぐ修理は無理ですよ。一度船に帰還しないと、道具も何もありませんからね」
「なあ~にい~? それじゃあ意味ねえじゃねえか~……」
へなへなとゲイルの体から力が抜ける。ぬか喜びもいいところだ。
「始末書と小言が回避できるじゃないですか」
「ぐぬう……。けどこの汚れを落とさないと、あいつがまた俺の磨きぬかれた肉体を貪ろうと服を剥ぎ取りに来る……」
「どうしてそう歪んだ表現をするんですか……。ただ単に洗濯したいだけでしょう」
「お前はどうなんだよ? どうせあいつから逃げてきたんだろ」
「まあまあ。私の事より、まずはその服をどうにかしないと」
「……お前も逃げてきたな」
「二キロほど向こうに小川がありましたよ。あそこなら、人目に触れずに服を洗えるでしょう。なあに、この陽気ならすぐに乾きますよ」
「この仕事が終わったら、速攻でお前の脳を分解掃除してやる」
「はっはっは、面白い冗談ですね。ささ、私も手伝ってあげますから、早く行きましょう」
サムはぐいぐいとゲイルの背中を押す。ゲイルは喚きながら抵抗するが、重量差はどうにもならない。こうしてゲイルは、倉庫の荷物のように林の中に押し込まれた。
◆
日が暮れる頃、ゲイルとサムが朝より少しだけ小ぎれいになって帰ってきた。どうだとばかりに仁王立ちするゲイルに、明日こそは二人の服と鎧を洗ってやろうと予定していたサーシャは複雑な気分になる。
「これで文句ないだろ」
得意顔で胸を張るゲイルに向けて、サーシャは小さく「チッ」と舌打ちした。
「おい、今チッって言ったろ? 舌打ちしたよな?」
「してないわよ。馬鹿なこと言ってないで、さっさと手を洗ってきて。夕飯にするから」
「いや、言ったよな、『チッ』って。何だよ、何か文句あるのかよ?」
「だからしてないって言ってるでしょ。変な言いがかりつけると、盛りを減らすわよ」
食事の盛りを人質にすると、ゲイルは渋々手を洗いに行った。
サーシャは溜め息をつく。これでまた明日の予定が空いてしまった事よりも、こんな調子ではいったいいつになったらゲイルに助けてもらった礼を言えるのかと思ったら、つい溜め息が出てしまった。
どうしてもっと素直に、普通にありがとうと言えないのだろう。たった一言。それだけを言うために、自分はどれだけの遠回りをしているのか。また溜め息が出た。
野菜をメインにした料理が、もりもりゲイルの胃袋に納められていく。この野菜はもちろん、朝サーシャが会った老婆から貰ったものだ。ゲイルは知っているのだろうか。今だけでない。大岩を砕いて村を救った日から、食事はずっと村人たちから謝礼として貰った食材で調理されていた事を。
サムは相変わらず何も口に入れない。食事を持って行っても「ゲイルにやってくれ」の一点張りだ。今日も手付かずの料理が乗った盆は、ゲイルの前に置くとあっという間に空になった。
ゲイルはサムが何も食べない事を知ってか知らずか、まるでサムの分まで平らげんばかりの食欲を見せつける。よくあれだけ食べられるものだとサーシャが感心していると、外からサムが窓をノックした。
サーシャが窓から外を覗くと、たくさんの松明の灯りがこちらに向かってくるのが見えた。灯りの数は尋常ではなく、村人のほとんどが加わっているのではないかと思われた。
慌ててサーシャが外に出ると、すでに集団の先頭は庭に足を踏み入れていた。ざわざわとした声が徐々に大きくなる。
距離が近くなると、先頭を歩いている人物がグレンだとわかった。彼は騒然とする集団を率いて、まるで行進のようにこちらに向かって歩いてくる。
「なに、あの集団は?」
「わかりません。ですが、何か様子がおかしいです。危険なので、貴方は家の中に入っていてください」
そう言われても、集団が目指しているのは自分の家だ。他人事のような顔をして家の中に引っ込むわけにはいかない。
「ちょっとグレン、いったいこの騒ぎは何!?」
サーシャが大声を出すと、グレンが片手を上げる。集団はその場で停止し、口々に話していた声も止む。集まった村人の数はかなり多く、庭に全員入りきれずに後ろのほうは垣根より外に出ていた。
「よう、サーシャ。今すぐあの野郎を出せ」
今日のグレンは、やけに自信に溢れている。だがいつもの根拠のない尊大さではなく、自信を裏打ちさせる何かを持っている。そんな傲慢な態度に、サーシャはどこか不安を覚えた。
「……ゲイルのこと? 彼なら――」
「おいおい、何だよこの人ごみは? 今日パーティーがあるなんて聞いてないぜ」
――中にいる。そう言おうとする前に、玄関から食事を中断させられて虫の居所が悪そうなゲイルが現れた。
「よくも俺たちを騙してくれやがったな。この疫病神が」
グレンの不遜な態度は、相手がゲイルでも変わらない。相手によって態度を変える男ではないが、それにしてはやけに強気だ。
「疫病神? なに言ってんだお前。脳ミソにシワ足りてるか?」
「そうよ。二人は村を救ってくれたじゃない。騙すなんて言いがかりだわ」
サーシャが文句を言い返すと、グレンは地面に唾を吐く。まるで彼らに村を救われた事を、不愉快に思っているようだ。
「目を覚ませ。それがあいつらの手口だったんだよ」
「手口? いったい何の話よ?」
「こいつらが村に来てから、碌な事がありゃしない。でかい地震が起きるわ、そのせいで大岩が転落するわ。まるでこいつらが災厄を運んできたみたいじゃないか」
そんなのはただの偶然だ。こじつけや後づけなどいくらでもできる。靴を放り投げて明日の天気を予測するのと同じで、何の根拠もない。
だがグレンを始め、彼の後ろにいる村人たちは口々にそうだそうだと囃したてる。彼の言った仮定ですらないものを、真実だと信じて疑っていない。
「そうやって自分たちが引き寄せた事件を解決して、こいつらはまんまと俺たちの信用を得やがったのさ。怪物を村に手引きするためにな。こいつらはハナっからこの村を滅ぼすためにやってきた、怪物の手先なんだよ!」
グレンの力説に、何という事だ、ああ恐ろしいと村人たちが騒然となり、人々の目が恐怖と嫌悪に染まっていく。
「アホかこいつは……」
突拍子もないたわ言に、ゲイルは心底呆れて溜め息を吐く。くだらない茶番をさっさと終わらせて、早く食事に戻りたいという顔だ。
「ちょっと待ってよ。二人は怪物からあたしを助けてくれたのよ。その彼らがどうして怪物の手先なのよ? 理屈がおかしいわ!」
「じゃあサーシャはこいつらが怪物を倒す瞬間を、その目で見たのかよ?」
「そ、それは……見てないけど……」
たしかに、サーシャはゲイルが怪物を倒すところを目撃していない。あの時はゲイルが怪物に潰されてしまったのを見たショックで気絶してしまい、目が覚めたらすべてが終わっていた。人が怪物を倒すなんて信じがたい事だけに、目撃者がいない点をつかれるとぐうの音も出ない。
「そもそも、ただの人間が怪物を倒せるわけがないんだ。ましてやたった二人で丘の大岩を持ち上げたり、素手で破壊するなんて非常識にもほどがある。要するに、こいつらは人の皮を被った怪物なんだよ。化け物だから、あんな真似ができたんだ」
グレンがゲイルとサムを指さすと、村人たちから悲鳴が上がった。聴衆は完全にグレンの話を鵜呑みにしている。こうなるともう彼らに冷静な判断は期待できない。
「皆さん、落ち着いてください。まずは話し合いましょう」
とことん冷静かつ紳士的なサムが、牧師のような穏やかな口調で両手を広げる。自分には争う気はないという意思表示だろうが、巨体の彼がすると熊が立ち上がって威嚇しているようで逆効果に見える。
「あんたも黙ってないで、何か言い返しなさいよ。自分たちが疑われてるのよ!」
「フン、化け物か……。まあ、間違っちゃいねえわな」
サーシャは当事者の一人であるゲイルに反論を促すが、彼は困惑と皮肉の混じった複雑な表情を浮かべているだけだ。
サムの必死の説得も虚しく、村人たちから再度野次が飛ぶ。つい昨日まであれほど二人に感謝していたはずの村人たちは、ついに足元の石を拾って二人に投げ始めた。サムはすかさず一歩前に出て、ゲイルとサーシャを石つぶてから守る。
「おい、やめろ! サーシャに当たる」
グレンが彼らを制しても、一人また一人と投石する人が増える。サムの鋼の体に石が当たり、はね返る音が人々の罵声の中に飲み込まれた。
サーシャは彼らの中に、今朝野菜をくれた老婆の姿を見つけて愕然とした。今朝まであんなに二人に感謝していた彼女が、何故この場にいるのだ。何があったら、こんなに短時間で感謝が嫌悪に変わるのだ。それとも人間というのは、ここまで容易に態度を変えられるものなのだろうか。人とは、かくも醜いものなのか。
集団に紛れ、しゃがれた声を精一杯張り上げて罵倒し石を投げる老婆の姿を見て、サーシャは涙がこぼれそうになる。
悲しかった。二人が村人たちに憎まれているのもそうだが、何より人がこんなにも醜いと思えてしまう事が悲しかった。生まれてからずっと同じ村で暮らしてきた人たちの中身が、こんなに汚らしくて卑しいものだったなんて。それとも、自分では気がつかないだけで、自分も彼らと同じなのではないだろうか。立場が違えば、自分も二人を責めたてるために集団に加わっていたかもしれない。だから彼女は、ただ悲しかった。