16
ゲイルの次はサムにも逃げられ、二人の服を洗濯しようというサーシャの予定は、脆くも崩れ去った。
「ちぇっ、サムにも逃げられちゃった」
足元の小石を蹴る。小石は庭を転々と転がり、井戸に淵に当たる。石を積み上げた淵には、大きなたらいが立てかけてあった。今日このたらいを使うはずだったのに、今は自分と同じで予定が空いてしまっている。
サーシャはとぼとぼとたらいに近づくと、井戸野淵に腰かけた。
「あと三日か……」
ゲイルとサムがこの村に来てから、今日で四日目になる。用心棒として滞在するのが一週間だから、残すところあと三日で二人との別れが来るのだ。
「それまでに、ちゃんとお礼言わないとねっ」
サーシャは立ち上がり、スカートを叩いて払う。すると老婆が一人、こちらにやって来るのが見えた。
「おはようサーシャ」
「おはようございます。おばあちゃん、今日はどうしたの?」
今日は休診日だ。だがゴードは患者が来れば診療するので、休診日はあってないようなものになっている。
だが老婆はにこりと首を振ると、持っていた籠をサーシャに差し出した。
「これね、ウチで採れた野菜。あの二人に食べさせてあげて」
そう言ってサーシャに籠を渡すと、老婆はそれじゃあと帰っていった。
籠はずしりと重い。きっとこの重さが、老婆の感謝の表れなのだろう。
「それじゃ、今日はこれで何か作りますか」
洗濯の予定はなくなったが、代わりに料理の予定ができた。ただでさえゲイルは馬車馬のように食べる。これはなかなかやり応えのある仕事になりそうだ。
サーシャは籠を両手に持ち直すと、家の中に戻っていった。
◆
巨体を揺らしてサムは走っていたが、サーシャが追いかけてくる気配がないので、スピードを緩めて徒歩に切り替える。
朝の散歩をしている人が挨拶をしてくれた。手を上げて返礼する。外を駆け回る子供も、サムを見て逃げなくなった。むしろ近寄って話しかけてくることもある。
絵に描いたような平和な村の様子を眺めながら歩いていると、背後から足音が聞こえた。足音の距離はまだ遠く、サムにしか聞こえない。
足音から相手の体重と歩幅を計算し、歩幅から身長を割り出す。算出したデータを脳内の人物データベースと照合すると、一人の人物がヒットした。この村の住人。危険度ゼロ。武装している様子はなし。
足音を察知してから、相手の特定まで一秒とかからない。そしてサムは、あえて相手の接近に気づかないふりをして歩き続けた。
「サムさ~ん」
まだ声変わりの気配も見当たらない、純粋なボーイソプラノの声がサムを呼ぶ。
ここで初めて相手に気づいたようにサムが振り向くと、ボーエン少年がこちらに手を振りながら走ってくるのが見えた。
「おはようございます、ボーエン」
「おはよう、サムさん」
ボーエンは息を弾ませながら、挨拶を返す。相変わらず目はきらきらと輝いており、多感な時期の少年特有の、憧憬と羨望の篭った眼差しを惜しげもなくサムに投げかけている。
「これから見張りですか?」
少年は元気よく「うん!」と答える。
「感心ですね。今日も暑くなりそうですから、体に気をつけてくださいね」
「ありがとう、気をつけるよ。あ、そうそう、さっきゲイルさんが丘のほうへ慌てて走って行ったけど、何かあったの?」
「何でもありませんよ。怖いお姉さんから逃げてるだけですから」
「なあんだ」とさっきまで心配そうにしていた少年の顔が笑顔になる。
「あのね、サムさん……」
「なんですか?」
「あのこと、ちゃんと秘密にしてるからね」
「それはどうも。助かります」
「えへへっ。だってサムさんと僕だけの秘密の約束だもん。絶対誰にも話さないよ」
少年は意思の固そうな顔をする。サムが頭を撫でると、少年は目を細めてくすぐったそうに笑った。
「それじゃ僕、見張りに行かなきゃいけないから。またね」
「はい。頑張ってください」
少年は駆け出すと、上半身を捻ってサムに手を振った。そのままずっと走り続けているので、転ぶのではないかとサムは心配したが、どうにか転ばずに走って行った。
ボーエン少年の背中を見送ると、サムは方向転換をして丘へと向かった。
愛用の釘バットがいつになく重い。肩に担ぐ気力もなく、引きずるようにしてグレンは歩いていた。
見回り帰り。いや、見回り中止の帰り道。
あの二人――ゲイルとサムがこの村の用心棒になって以来、見回りや訓練の集まりが悪くなった。皆あの二人におんぶにだっこで、自分たちが村を守るのだという気概がすっかり抜けていた。
詰め所の集まりもどんどん悪くなり、今朝はついにルイスしか居なかった。だからグレンは見回りを中止にして帰路についているのだ。この調子では、恐らく門番もいないだろう。
「クソ、胸糞悪い!」
忌々しいあの二人の顔を思い浮かべ、全力で釘バットを木に叩きつける。太い釘が木の幹に食い込み、樹皮を引き裂いた。
だが、それだけだ。いかに屈強なグレンといえど、一振りで木をなぎ倒すような非常識な真似はできない。
あの二人なら、素手の一振りで木の一本やニ本は軽くへし折ってしまうだろう。何せあの大岩を二人で持ち上げ、あまつさえ粉々に砕いたのだから。
そして二人は大岩と同時に、グレンのこれまで築いた自警団のリーダーとしての地位やプライドまで砕いた。あの日から他の団員はもとより、村人の自分に対する態度ががらりと変わった。まるであの二人がいてくれれば、グレンは用なしとばかりに。
いっそこの手で二人を叩きのめし、がた落ちになった自分の権威を復活させようと思った事もある。だがそれは無理だ。最初っから勝負にならない。大人と子供の勝負どころか、怪物と人の勝負だ。怪物を倒せるような奴相手に、自分のような凡人が勝てるわけがない。しかしそれほどの力を持っているからこそ、村人たちは彼らの滞在を歓迎しているのもまた事実である。
「あんな奴らに尻尾振りやがって……」
村の連中がよそ者になびくのが気に入らなかった。ただ強いというだけで何の権力も地位もない奴が、村長の孫であり自警団のリーダーでもある自分よりもちやほやされているのが我慢ならない。
そして彼らがサーシャの家で寝泊りしているのが、最も気に入らなかった。
グレンとサーシャは幼い頃からの知り合いで、言わば幼馴染である。彼は小さい頃から、サーシャの長い赤毛と少し強気な性格に魅かれていた。慎ましい胸も良いと思っている。
昔はケンカで自分よりも強かった彼女が、涙に暮れていた時期があった。彼女の父親が怪物に殺された時だ。あの頃のサーシャは、グレンに改めて彼女がか弱い少女だという事を再認識させた。そして、彼女と村を守るために強くなろうと決意した。
だがそれがどうだ。グレンは自分が大事にしているものを、ゲイルたちに横からかっさらわれたのだ。
村人たちの羨望も賞賛も。
そしてサーシャも。
あのどこの馬の骨ともわからぬ、とっぽいチンピラ野郎がサーシャの家で暮らしている。ゲイルは彼女に手を出してなどいないし、その気すらないと言うが、あんな奴のいう事など信用できるものか。
もし、ゲイルがサーシャに――そう考えるだけで腸が煮えくり返る。一刻も早くあの害虫をサーシャの家から、いや、この村から追い出さなければ。
だが具体的にどうすればいいのか、グレンにはまったくわからなかった。体は鍛えてあるし、ケンカならこの村で自分に敵う者はいない。だがケンカでは絶対にあの二人に勝てない。
ではどうすれば良いのか。例えば、あの二人の信用を落とすというのはどうだろうか。思えば、あの大岩の件さえなければ村人たちもよそ者の二人をあんなに信用する事はなかった。怪物より強いというが、それはサーシャが一人で言っている事で何の証拠もない。信用さえ落ちれば、村人たちもきっと自分と同じようにあの二人の胡散臭さに気がつき、彼らに対する態度も以前に戻るに違いない。いや、上手くすればこの村から追い出せるかもしれない。
これだ、とグレンは思った。何か、彼らの信用を落とす方法はないだろうか。あの二人がこの村を守る英雄などではなく、ただの疫病神だという事に気づかせる方法を。
(待てよ。疫病神か……)
あの大岩が転落した事を、あの二人のせいにできないだろうか。岩はこれまで何度もあった地震にもびくともしなかったのだ。それがあの二人が来た途端、これまでにないほどの大地震が来て転落した。偶然かもしれないが、これを上手くこじつけられないだろうか。
(いや、こんな強引な話じゃ無理だ)
何かもう一つくらい二人を貶める材料がないと、今の村人たちの目は覚めないだろう。中途半端な中傷だと、反って自分が彼らをやっかんでいると思われかねない。
だがこれは案外名案かもしれない。村人たちが二人を信用しているほど、それが裏切られた時の反応は大きいだろう。そして信用というものは、いとも簡単に壊れる。
(いいぜ……。これはいいぜ。あの二人の信用をがた落ちにして、村から追い出してやる)
グレンがにやにやしながら歩いていると、道の向こうをボーエンが走っているのが見えた。きっと今日も見張り櫓に行くのだろう。ルイスと最年少の彼だけが、喜んで仕事をしている。他は皆、ゲイルとサムの存在にかこつけてサボっているのだ。たった二人、しかも一人はまだ年端もいかぬ少年だ。それだけしか自分についてこなかった事が、グレンの自尊心をいたく傷つけている。
「よう、ボーエン」
グレンが声をかけると、少年はあっという顔をした。たぶんこんな時間に自分が村を歩いているとは思わなかったのだろう。それもそうだ。本来なら、見回りの時間だ。
「おはようございます、グレンさん……」
今まで楽しそうだった少年の顔が、急に暗くなる。嫌なヤツに会ったという顔だ。グレンは自分が少年に好かれていない事は、とっくに知っている。何しろ少年が自警団に入りたいと言ったのを子供だからと却下したのは自分だ。それを人の良いルイスがとりなしたから、渋々見張り櫓に置いてやっている。嫌われて当然と言えるだろう。
「今日も櫓に行くのか?」
少年は小さく頷く。俯いたまま顔を上げないのは、顔も見たくないという意思表示だろうか。ずいぶん嫌われたものだ、とグレンは苦笑する。
「お前、しばらく櫓に行かなくていいぞ」
どうせ怪物が来たって、あの二人が何とかしてくれるのだ。それなら余計な時間を使わせるより、さっさと帰らせて家の手伝いでもさせたほうがいい。そう考えての言葉だったのだが。
「そ、そんな。行かせてよ。お願いします!」
少年が勢いよく顔を上げる。てっきり仕事から解放されて喜ぶと思っていたグレンは、少年の必死の懇願に意表をつかれた。
「お願いって、お前……行ってどうするんだよ?」
すると少年は急に黙り込む。何か言えない事を口の中に押し込めているように、唇を固く閉じている。
(怪しいな……。コイツ、何か隠してやがる)
少年の不自然な言動は、明らかに何かを隠している事をグレンに感じさせた。ついさっきまで少年に感じていた情が、急激に怒りに変わる。
「お前、何か隠してるだろ?」
「何も……隠してなんかないよ……」
おどおどする態度が、ますます怪しい。知られてはまずい事が、何かあるのだろうか。いや、それよりも、このガキが自分に隠し事をするという事自体が気に食わない。
こんな子供にまでなめられているのかという思いが、グレンの怒りをますます大きくする。鬱積した怒りに新たな薪をくべられ、炎がさらに大きくなる。怒りの炎は、火力が上がると色が変わるように変質した。
「言えよ」
胸座を掴みぐいと持ち上げると、少年の足は易々と地面から離れた。圧倒的な力の差が少年の顔に怯えの色が加え、グレンの嗜虐心を刺激する。
少年に対する労いや同情といったものは、今やすっかり消え失せている。代わりにどんな手段を使ってでも秘密を喋らせようという歪んだ感情だけが、グレンの心を支配していた。
目に涙をいっぱい溜めながらも、必死で首を横に振るボーエン。泣き喚きたいだろうが、恐怖のあまり声も出ないようだ。少年にも想像がつくのだろう。これから自分が何をされるのか。どれだけ痛い思いをしなければならないのか。それを如実に想像させる顔が、少年のすぐ目の前にあるのだから。
だがそれでも口を割らない少年にグレンは舌打ちを一つすると、軽々と草むらに放り投げた。往来では人目についてできない事をするためだ。