綺麗なままではいられない
「ユーディット、君との婚約を解消したい。理由は分かっていると思うが」
ああ、ついにその日が来たのね。
分かってはいたことだ。それでも締め付けられたかのように胸が苦しくて、息が浅くなる。
私たちの間には長年培った信頼と情愛があると、彼はそれを軽々しく捨てたりしないと……思いたかった。
そんな私の様子を気遣うこともなく、アルノルト殿下は声高に言葉を紡ぎ続ける。まるで自分の言い分が正しいのだと、知らしめるかのように。
ここにいるのは私たちと側近だけだというのに、誰に聞かせるというのかしらね。
「婚約者として長年仕えてくれた君には申し訳ないと思っている。しかし俺は王族として、聖女を妻に迎える必要があるのだ。だから聖力を失ってしまった君と婚姻することは出来ない」
「承知致しました。もとより聖女としての力を失った時点で、殿下の配偶者たる資格はなくなったと覚悟はしておりましたので」
「君なら分かってくれると思っていたよ。俺はソフィア・リーツ子爵令嬢と新たに婚約を結ぶ。この件は既に国王陛下の認可も得ている」
荒れる心を淑女の仮面で覆い隠し、私はアルノルト殿下へ微笑みを返した。
既にそこまで準備を整えていたのならば。
私がこの場でどう答えようが、結果は決まっていたのだ。
それでも敢えて私の意志を尊重するような素振りを見せたのは、私が承諾したという証拠が欲しいから。双方が納得した上での穏便な婚約解消だと、すなわち自分は間違っていないとしたいのだろう。
貴方は『正しい事』に拘る人だから。
この国は女神ラビガータを信仰するラビガータ教を国教としている。ラビガータは清廉と愛を司る神様。その教えを一言で表すならば清く正しくあれ、さすれば神の救いが得られるだろう――というもの。
女神の恩恵の象徴として、この国には時折聖なる力を持った女児が生まれる。そのため貴族であろうが平民であろうが、女は10歳になった時点で神殿にて洗礼を受け、聖力を測定しなければならない。その際に基準値を超えた聖力を持つ女児は、聖女認定及び神殿の奉仕活動への従事が義務付けられる。
といっても、聖女の仕事はさほど厳しいものはない。
戦乱期であった建国時は国境を守る結界の維持や、怪我人の治癒のため聖女たちは各地を回ったそうだ。しかし平和な世となった今ではその必要はない。
結界の維持を聖女に頼るなどという非効率なことはせず、国境には訓練を受けた騎士団が配置されている。また医療技術の発展や医師の教育にも力を入れたため、聖女がわざわざ治療のために遠方まで出向く必要もない。
だから聖女としてやることは、祭事で祈りを捧げたり、公開治療の際にちょっとした病人を治癒したりするくらいである。
結局のところ、私たち聖女は民の信仰を集めるための宣伝塔に過ぎないのだ。
そして聖女を王族が娶るという古いしきたりを王家が持ち出してきたのもまた、パフォーマンスの一環だろう。
ラビガータ教は広くこの国の民に浸透しており、聖女は根強い人気がある。
聖女の中で最も高い聖力を持っていた私を王子の婚約者に定めることで、下がりつつある民衆からの支持を集めようという魂胆が透けて見える。
聖女の仕事が多くないとはいえ、貴族学院に通い、王子妃教育を受ける傍らで神殿へ通うのはキツいものがあった。楽しむ暇など与えられず、王子の婚約者として、また聖女として常に人目に晒される日々。
そんな生活に耐えられたのは……私がアルノルト殿下を慕っていたからだ。
「聖女たる貴方を婚約者に出来たこと、嬉しく思う。これから苦労を掛けてしまうかもしれないが、共にこの国を支えていければと思っている」
「光栄でございます。微力ながら誠心誠意、努めさせていただきます」
「微力などではないだろう。ユーディット嬢の優秀さは聞き及んでいる。頼りにしているよ」
青い瞳に優しい色を浮かべて微笑む殿下は本当に麗しくて。私は彼に恋をした。
アルノルト殿下は第二王子だが、御母君は正妃様だ。側妃腹の第一王子より、アルノルト殿下を次期国王にと推す声も多い。
そんな声に応えようと、アルノルト殿下が幼い頃より懸命に努力なさっていたことを知っている。正しくあれ、強くあれと自らに言い聞かせていたことも。
そういう彼だからこそ、私も婚約者として支えていこうと思っていた。
それが崩れたのはソフィア・リーツ子爵令嬢が貴族学院へ入学してからだ。
彼女は私を遙かに凌ぐ聖力を持っている。更に類まれな美貌と、誰にでも慈愛深く接する心優しい性格の持ち主だった。
「あの心優しさ、清らかさ……リーツ子爵令嬢こそ真の聖女だ!」
「聖力の高さは、彼女がラビガータ神の寵を受けていることの証。ソフィア様は初代聖女の生まれ変わりかもしれない」
彼女が生徒たちの人望を一身に集めるようになるまで、時間はかからなかった。賞賛の声と共にソフィア様を囲む人々の中に、アルノルト殿下が混ざるようになったのはいつからだっただろう。
彼がソフィア様へ向けて浮かべる優しげな微笑み。そしてソフィア様もまた、いつしかその瞳が熱を帯びるようになって。
「取らないで。そこは、私の居場所だったのに……!」と何度叫びたかっただろう。
二人が見つめ合う様を眺める私の心が血を流していたことなど、アルノルト殿下は想像すらしていなかったでしょうね。
元々減少気味だった私の聖力は、その頃から急激に減っていった。
小さな怪我の治癒にすら手こずり、終わった後は疲労で立てなくなる有様。
私は焦った。聖力を持たぬ私など、アルノルト殿下にとっては何の価値もないと分かっていたから。
しかしどれだけ女神に祈ろうとも無駄だった。燃え尽きる寸前の蝋燭のように私の聖力は細り、そして遂に消えてしまったのである。
ラビガータ神は清らかな者を愛する。きっとこれは、醜い嫉妬に囚われた私への罰なのだ。
私たちの婚約が解消されてから一ヶ月後。
アルノルト殿下とソフィア様の婚約が正式に発表され、王宮の大広間では盛大な夜会が催された。
「ローゼンハイン侯爵令嬢、来てくれたのだな」
「アルノルト殿下、ソフィア様。この度はご婚約、まことにおめでとうございます」
殿下へ寄り添うソフィア様は、今日の為に誂えたであろう豪奢な薄桃色のドレスを身に付けている。春の妖精のように清楚で美しいその姿には、女である私ですら目を惹かれてしまう。
膝を折り頭を下げようとした私を、殿下が「畏まらなくともよい」と手で制した。
「先日の話は考えてくれただろうか」
「コルネリウス・ベッシュ侯爵令息との婚約のお話でしたら、父からお断りさせて頂きましたわ」
「何故だ?ベッシュ侯爵家は由緒正しい名門。コルネリウスは優秀で浮いた噂ひとつない真面目な男だ。君にとって、これ以上の良い縁談は見込めないと思うが」
納得いかないとばかりにアルノルト殿下は眉を顰める。
むしろ、何故私が引き受けると思うのか不思議だ。
コルネリウス様は殿下の側近であり、優秀な令息であるのは事実。自らが瑕疵を付けた女に良い縁談相手を紹介することで、誠意を示したつもりなのでしょうけれど……逆効果だと分かってないのかしら?
己の元婚約者を臣下へ下げ渡すという行為が、私とローゼンハイン侯爵家への侮辱に等しいということを。
「ローゼンハイン侯爵と君には、これからもコルネリウスと共に王家を支えて欲しいのだ」
「私、来週よりシュトルツ領の神殿へ異動することになっておりますの。あちらの神殿は常に人手不足と聞き及んでおります。聖力を失ったとはいえ、長年神殿の仕事を手伝っていた身ですから、役に立てることもあるのではと」
「シュトルツ?そのように王都から遠く離れた辺境の地へ、ユーディット様がわざわざ赴かなくとも……」
「ソフィアの言う通りだ。君のように優秀な才女は、王都でその力を発揮するべきだと思う」
「シュトルツ辺境伯は常に国境へ睨みを利かせ、我が国を護って下さっているのです。かの領の民のために働くことは、即ちこの国へ尽くすことにもなりましょう」
「しかしシュトルツ領には、魔獣が出没する危険な地域もあると聞く。ローゼンハイン侯爵も反対するだろう?」
「父も同意の上ですわ。私の護衛については、辺境伯様が請け負って下さいましたから問題ございません」
きっぱりと答えた私に対して、殿下は目をせわしなく動かしている。何とか引き留めたいが、反論の材料が見つからないのだろう。
私を側近に娶せて、これからも私やローゼンハイン侯爵の力をいいように使おうと考えていたのでしょうけれど。
浅慮過ぎて笑ってしまうわ。
王太子候補と縁戚になれると言うメリットがあるからこそ、父はアルノルト殿下の後ろ盾になったのだ。自ら梯子を外しておいて、そんな身勝手が許されるわけがないでしょう。
「ユーディット様……!その……私のせいですよね。私が、ユーディット様をそこまで追い詰めて」
ソフィア様が涙を零しながら叫び、慰めるかのようにアルノルト殿下が彼女の肩を抱いた。
「ソフィア様のせいではありませんわ」
「そうだ。ソフィアは何も悪くない」
「でも……!」
「貴方を妃に選んだのはアルノルト殿下です。それに、聖力を失ったのは私が至らなかったからですもの。ソフィア様をお恨み申し上げる心は、私には一切ございません」
「ユーディット様……なんてお心の広い……。貴方こそが、アルノルト様の妃に相応しい方だったのに」
気まずそうに下を向いたアルノルト殿下と違い、ソフィア様の瞳は真っ直ぐだ。
聖女の勤めを共に行ってきた私には分かる。この方は、本心からそう仰っているのだ。
他の聖女たちが嫌がるような、貧しくみすぼらしい平民に対する治癒をソフィア様だけは厭わず行った。
遠地で瘴気が出たと聞けば、率先して出掛けていく。王子妃教育で忙しいだろうと、私の分のお勤めを替わってくれたこともあった。
心の底から純粋で清らかな人。
だからこそ、皆が彼女の放つ光に心惹かれるのだ。
――どうして貴方はそんなに清廉でいられるの。
その澄み切った心に接すればするほど、私の心はどす黒いモノに染められていくのに。
ソフィア様が性の悪い女ならば、どんなに良かっただろう。そうであったなら、遠慮なく貴方を憎めたのに。
「今のアルノルト殿下に相応しいのはソフィア様です。私は遠く辺境の地から、お二人の幸せを祈っておりますわ」
私は淑女の礼を執り、彼らに背を向けた。
§§§
「アルノルト。あの娘はまだ回復しないのですって?」
「はい。医師の話では疲労に加えて、精神的な負荷も原因ではないかと」
母上は眉を顰めて盛大な溜め息を吐いた。
「やはり子爵令嬢如きに王子妃は無理だったのよ。こうなると分かっていたら、ユーディットを囲い込んでおいたのに……。今からでも遅くないわ。彼女を王都へ連れ戻さなければ」
「しかし、ユーディット……いえ、ローゼンハイン侯爵令嬢は既にシュトルツ辺境伯と婚約しております。先日、王宮に婚約届が提出されたとの報告がありました」
「婚約ならばまだ間に合うでしょう?シュトルツ辺境伯と婚姻する前に、貴方の側妃として召し上げるのよ」
「シュトルツ辺境伯が黙っていないでしょう。それに貴族の婚姻に王家が口出しすれば、他の貴族たちからも反発を買うのでは」
「ユーディットが婚約解消を望んだことにすればいいじゃない。あの子が長年貴方を慕っていたことは、皆知っているもの。そうすればこちらが批判される事も無いわ。いいこと?あの忌々しい側妃の息子を蹴落とすために、何としてもローゼンハイン侯爵家をもう一度こちらに引き入れなければならないの。貴方は正妃たるこの私の子。貴方こそが次期国王になるべきなのよ」
「はい……」
俺の母は隣国の王女だ。
側妃の子であるディートリヒ兄上ではなく、両国の王家の血を引く俺が次期国王になるのは当然だと、幼い頃から言われてきた。母の期待に答えるべく努力を重ね、厳しく身を律してきた自負はある。
元婚約者であるユーディット・ローゼンハイン侯爵令嬢に不満はなかった。
身分教養共に申し分のない才女で、かつ高い聖力を持つ聖女。何より俺を慕い、よく支えてくれていた。
次期王妃にこれほど相応しい令嬢はいないだろうと思っていた。……ソフィアに出会うまでは。
その目に欲を湛えながらおべっかばかりを口にする者たちの中にあって、彼女だけは違っていた。ソフィアは、王子という立場ではなく俺自身を見てくれるのだ。
これは俺に限った話ではない。彼女は誰に対してもそうなのだ。相手の地位や容姿に拘らず、平民相手にも態度を変えることはない。
俺の一挙手一投足は、常に注視されている。
ディートリヒ兄上を推す派閥の連中は、俺が少しでも弱い所を見せればここぞとばかりに責め立てるだろう。日和見を決め込んでいた貴族たちは、我先にと兄上の方へつくだろう。だからひと時も気を抜けない。
そんな気の休まらない日々で、ソフィアと過ごす時間だけが癒しだった。もっともっとソフィアの傍にいたい。そう願うようになった。
婚約者のいる身で、他の女に心惹かれるのは不貞だと分かっている。王子として正しくない行為だ。
だから俺は自分の気持ちに封をした。
しかし、事態は思わぬ方向へと動いた。
ユーディットが聖力を失ったのだ。元々弱りつつあったが、ついに小さな傷の治癒すらできなくなったという。念のため聖力の再測定をさせたが、針はぴくりとも動かなかった。
これはラビガータ神のお導きだ。
女神がソフィアを伴侶にするべきだと仰っている。俺は正しかったのだ。
俺はすぐに陛下へ奏上し、ユーディットとの婚約解消及びソフィアとの婚約の認可を得た。
ソフィアは当初「私など王子妃に相応しくありません。ユーディット様にも申し訳ないです」と必死で断っていた。
これが他の令嬢だったなら、諸手を上げて喜んだだろう。その慎ましさに、俺のソフィアへの愛はますます深くなった。
「ユーディットはもう聖女ではない。最も聖力の強い君を王族が娶るのは、しきたりに則った正しい事なのだ」
何度もそう説得し、ようやくソフィアも頷いてくれた。
ユーディットに対して申し訳ない気持ちは、勿論ある。
聖女でなくなった上に婚約を解消された令嬢など、ろくな嫁ぎ先が無いだろう。良くて後妻か、あるいは修道院で余生を過ごすか。
長年尽くしてくれた彼女にそのような不遇を味合わせたくはない。
だからユーディットには俺の第一の側近であるコルネリウスとの婚約を用意した。これ以上ない待遇だと思っていたのに彼女はそれを断り、あろうことかシュトルツ領へ行くという。
「娘は突然の婚約解消で傷心なのです。騒がしい王都を離れたいという気持ちを、汲んでやって頂けませんか」
ローゼンハイン侯爵にも娘を引き留めるように伝えたが、そう返されてしまってはこれ以上強く言えなかった。
ユーディットは未来の王子妃として十分な教育を受けている。国の為に必要な、優秀な人材だ。
婚約者でなくなったとはいえ、臣下としてローゼンハイン侯爵と共に王家へ尽くすのが正しい貴族の在り方ではないか。
なのに、そのような私情で王都から逃げだすとは……。
公私の区別が出来る人だと思っていたが、俺の見込み違いだったのか。
ユーディットがいなくなったことで多少の混乱はあったが、幸い俺の側近には優秀な者が揃っているので、しばらくすれば問題なく公務を進められるようになった。
ソフィアの王子妃教育も順調。努力家である彼女は、元々下位貴族ながら学院でも上位の成績を取っていた。時間は多少かかるかもしれないが、結婚までには何とか間に合うだろう。
聖女として求心力のあるソフィアが教養を身に付ければ、ユーディットとの婚約解消を批判していた連中も黙るに違いない。
そうなれば俺の立太子は間違いない。順風満帆だと思っていたのに……。
「ソフィア、体調はどうだ?」
「申し訳ございません。もう大丈夫で……コホッ」
真っ白な顔をしたソフィアが苦しそうに咳をした。口ではああ言っているが、とても大丈夫なようには見えない。
「無理をしなくていい。休んでいなさい」
「でも、聖女の勤めが……。王子妃教育だってずっと休んでいるのに」
「今は身体を治すことが先決だ」
優しい言葉をかけたものの、内心は焦りで一杯だった。
ソフィアが体調を崩してからもう一ヶ月になる。回復の兆しが見えない上、彼女の聖力が減少傾向にあるとの報告があった。
今はその情報を伏せてはいるが、ソフィアが公に姿を見せないため貴族たちも不審に思い始めている。中にはソフィアが王子妃教育に耐えられず逃げ出したなどというデマを囁く者もいるとか。
兄上の派閥の連中は、ここぞとばかりに『下位貴族の令嬢に篭絡されてローゼンハイン侯爵家の後見を捨てた、先見の明のない王子』と揶揄していると聞く。
母上の言うとおり、このままでは立太子どころか俺の立場すら危うい。
「やはり、ローゼンハイン侯爵令嬢を呼び戻すしかないでしょう」
側近たちも母上と同意見だった。
「そもそも、ローゼンハイン侯爵家とシュトルツ辺境伯家が繋がるのは厄介です」
「それは分かっているのだが……」
広大な農地を有し、王国内の食料の実に三割を支えるローゼンハイン侯爵家と、強大な私設騎士団を持ち辺境の防衛を一手に引き受けるシュトルツ辺境伯家。彼らが手を組めば、王家にとっては脅威となりかねない。
「貴族同士の婚約を取り消すには、父上から王命を出して頂く必要がある。どうやって父上を説得するのだ?それに一度こちらから婚約を解消した相手に、再度婚約を申し込むというのもな」
それ即ち、婚約の解消が間違っていたという事になってしまう。こちらの瑕疵になることは避けたい。
「王妃様の仰る通り、ユーディット様から切り崩せば良いのでは?相手は『血濡れの狂狼伯』です。彼女もこの婚約に本意ではないかもしれません」
「シュトルツ辺境伯といえば、自分を小馬鹿にした家門の者を一刀の元に切り捨てて、血だらけの刀を持ったまま『他に逆らう者がいれば、俺が相手をする』と吐き捨てたとか。自らが倒した魔獣の肉を食べているという噂もありますね」
「それは……本当なのか?」
「だいぶ誇張が入ってるとは思いますが、何にせよ無骨者ではあるんでしょう。今頃はユーディット様も、殿下の傍から離れたことを後悔なさっているかもしれませんよ」
側近たちの言う通りかもしれない。
あれだけ俺を慕っていたユーディットだ。
父親の命とはいえ、そのように無骨で乱暴な男との婚約を喜んではいないだろう。俺が手を差し伸べれば、案外すんなり戻ってくるかもしれない。
側妃云々はひとまず置いといて、俺はこちらの現状と、彼女の手助けが必要だという内容を記した手紙を辺境へ向けて送ることにした。
§§§
「それで、手紙には何が書いてあったんだ?まあ、だいたい想像はつくが」
私は王都から届いた手紙をヴェルナー・シュトルツ辺境伯へと渡した。
手紙にはソフィア様が病となった事、私の手を借りたいため、彼女が回復するまでの間だけでも王都へ戻ってきて欲しいと書かれている。
「ふん。自らに都合の悪いことは書かずか。こちらが王都の情報を得てないとでも思っているのか」と、ヴェルナーは嘲るように鼻を鳴らした。
「本音はローゼンハイン侯爵家の後見が欲しいだけだろう。アルノルト殿下の評判は下がる一方だからな。第一王子派からの突き上げにさぞ困っていると見える」
「殿下より、王妃様が躍起になっているのではないかしら」
「王都へ戻ろうものなら、そのまま君を引き留めて妃にすると言い出すだろうな」
「でしょうね。殿下にはお断りの手紙を出しますわ」
「いや、返事は俺から出しておく。妻は身重ゆえ、王都に赴くことはできないとな」
私はそっと自分のお腹を撫でる。
アルノルト殿下の一方的な婚約解消に怒った父は王家から距離を置くと決め、シュトルツ辺境伯へ同盟を持ち掛けた。
シュトルツ領の神殿へ異動は表向きの理由。裏では同盟の要である、私とヴェルナーの結婚を押し進めていたのだ。
貴族の婚約と婚姻は届け出の義務がある。
そこで私たちは王家からの横槍を躱すため、婚約の翌日にこちらの神殿で結婚式を行った。
辺境から王都までは急いでも2週間強はかかる。更に、使者にはできるだけゆっくりと進むよう指示を出しておいた。
王家へ婚約届けが提出される頃には、私たちは既に夫婦となっていたのだ。今頃、後から提出された婚姻届けを見て慌てているかもしれないわね。
「そろそろ休んだ方が良いのではないか?」
「ええ。この書類を書き上げたら、部屋に戻るわ」
「……駄目だ。朝からずっと座っているじゃないか。今すぐ戻りなさい」
ヴェルナーは私から書類を取り上げると、侍女を呼び私を自室へ連れていくよう命じた。
『血濡れの狂狼伯』などと呼ばれているが、実際に会ってみればヴェルナーは実直で優しい人だった。
血生臭い仇名は、自ら剣を振るって騎士団と共に領内の魔獣を平らげた事実に寄るものだろう。若くして爵位を継いだ彼に対するやっかみもあったのかもしれない。
「これは政略結婚だ。君を愛せるかどうかは分からない」
婚約の際にそう言われた時には、思わず首を傾げてしまったが……。彼は続けて「だが、妻として誰よりも大切に扱う事を誓う」と、跪いてくれたのだ。
その言葉に嘘はなく、どんなに忙しくとも私と会話する時間を取り、「困ったことはないか」「何か欲しいものはないか」と気を使ってくれる。
無骨な辺境の騎士たちが出入りする本館では落ち着かないだろうと、私のために新館を建て、庭には温室まで作らせた。紅茶が好きだと言えば、すぐに王都から珍しい茶葉を取り寄せてくれた。
今思えばアルノルト殿下は『正道』を言い訳にしてご自分の意志ばかりを押し通す人で、私はいつもそれに合わせるだけだった。愛する方の為だと自らに言い聞かせていたけれど、どこか息苦しいと感じていたのも事実。
ヴェルナーの傍にいるのは息がしやすい。彼となら、互いに敬愛し合う夫婦になれると思う。
意図したことではなかったが、このタイミングで身籠ったのは僥倖だったわ。
生娘でなくなった以上、王族の妃になることはできないけれど、正妃様辺りが私を公妾として召し上げろと言い出すかもしれないもの。
こうなることは分かっていた。
ソフィア様の聖力が減るであろうことも。
そして困ったアルノルト殿下が、私を呼び戻そうとすることも。
殿下の婚約者であったとき、私は婚約者の座を狙っていた令嬢たちからの妬み嫉みに晒されてきた。
夜会で遠回しに嫌味を言われることなど日常茶飯事。令嬢たちの意を汲んだ王宮侍女に嫌がらせをされたこともある。
だけど私には侯爵家という盾がある。嫌がらせをしてきた者たちは、父や一門の者により報復を受けて消えていった。それが出来る力が、ローゼンハイン家にはあるのだ。
しかし子爵令嬢であるソフィア様はそうではない。
殿下の婚約者となった彼女は、様々な嫌がらせに晒されたことだろう。そして残念ながら、リーツ子爵家に彼女を守る力は無い。
ソフィア様がどれだけ優しい精神の持ち主であろうとも、許容量を越える悪意を受けてはその清らかさを保つことは難しいだろう。
最新の研究によれば、高い聖力を持つ幼児は国内に一定数存在するらしい。しかし長じるにつれ、多くの者はその力を失ってしまう。
聖力は清らかな魂に宿る。
子供たちは、自分を取り巻く世界が美しいものばかりではなく、善も悪も混ざりあった灰色で満たされているのだといずれは知る。他者の悪意を、あるいは自分の醜さを自覚し心から無垢な薄皮が剥がれ落ちた時――神の恩寵は失われる。
誰しも赤子のように綺麗なままではいられないのだ。
アルノルト殿下。これが貴方の選択の結果なのよ。
自分の欲望と浮気心を『正しい道』などという欺瞞で覆い隠して私を捨て、ソフィア様と婚約した。
そのせいでソフィア様の聖力は減衰し、ローゼンハイン侯爵家は王家から距離を置いた。
国王陛下はいつまでもお姫様気分で傲慢な王妃様より、側妃様を寵愛なさっている。
アルノルト殿下が私との婚約解消を言い出した際にあっさり承認したのは、彼を切り捨てる機会を狙っていたからだろう。
私が出産を終えて動けるようになる頃には、第一王子のディートリヒ殿下が立太子を済ませているでしょうね。
アルノルト殿下の凋落を喜んでしまう私は、だいぶ心が汚れているのだと思う。
それでも構わない。私はもう、聖女ではないのだ。
これからは辺境伯夫人として、ヴェルナーと共に魑魅魍魎渦巻く貴族社会を渡って行かなければならないのだもの。
綺麗な心なんて必要ないわ。
ちょっとだけ補足:
ユーディットが高い聖力を保持していたのは、ローゼンハインの姫として父や一門から大事にされていたこと、かつアルノルトを一途に慕っていたからでした。しかし度重なる嫌がらせや正論しか言わない婚約者に心をすり減らしていた所へソフィアが現れたため、心が保てなくなり聖力を失いました。
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