朝星に願いを
透真:とうしん。華爛の世話役である青年。
華爛:からん。この街の闇社会、上流階級では知らぬ者のいない占い師。盲目。
灯彩が、剥き出しの混凝土を照らす。
ひび割れた壁の溝に沿って光は埋もれ、金、銀、瑪瑙、紫紺、瑠璃、真珠と、走る割れ目は宝石にように彩られ脈づく。それは、天上に咲く樹々の葉脈を思わせた。
喧噪の移り変わりと共に、一時も同じ色を留めはしない灯彩とその色合いは、明かりもないこの部屋の窓辺に腰かける、華爛の白い頬をぼんやりと浮かび上がらせる。朝露に濡れた黒髪は、夜の毒々しい明りに彩られようと静謐な星の煌めきを宿し、夜風に軽くなびいていた。
死骸の上を蛆虫が這うのに似て、この街は人の命を糧に人々が生き抜く。蛾が篝火に惹かれるように、この街は夜に火を灯して燃やし、飛び込んでくる餌を少しでも多く喰らおうと、口を開けて待つ。
そうして、生きる踏み台を得るのだ。
朱色の窓枠に置かれた華爛の手は、淡く脈を透かす程の白さを誇る。その彼女の手の下、上、すべてを飲み込むように広がる街で、人々はこの夜の熱気と狂気に窒息しないように、必死にもがき泳ぎ続けている。篝火を一層激しく焚き、今日明日の祭りに乗じて更に糧を得ようとする喧噪は、祭囃子と混じり階上のこの部屋にも届いていた。
しかし、不思議と音は微かに反響するものの、玻璃もない壁をくり抜いただけの窓を持つ部屋の静寂を、壊しはしなかった。
薄氷を足許にして立つような空気。
ほんの小さな違和感が混じれば、この静けさは一瞬にして霧散するだろう。けれどもこの部屋の静けさは、主である華爛の影響が強いと透真は思う。
部屋の入り口、そこはもう玄関だが、そこに佇み、華爛の後ろ姿を透真は眺め続けていた。彼自身が結い上げた華爛の髪は、普段なら花売りの少年から貰う季節の花を挿しているが、いまは何も付けてはいない。禊ぎを済ませた身には花の香りさえも許されない、と天帝の遣いである女官が告げていた。
透真は、華爛の姿を切り取るように、じっと、微動だにせず見つめ続ける。人より感覚の鋭い華爛は、その視線を感じているであろうに、同じく微動だにしないで外へ顔を向けている。
「透真」
華奢な外見とは裏腹な、低めの声が名を呼ぶ。
「何、華爛」
「手の届くくらい、近くに。透真」
「……天に召される貴女に、俺はもう軽々しく傍に行く訳にはいかないよ」
ゆるりと、首を傾げて華爛が振り向く。肉の薄い肩も、桟に置かれた綿雪にも勝る白い手も、灯彩が輪郭を儚く浮かび上がらせるその様は、誰にも犯せない気高い静寂をたたえている。
ただの一度も袖を通していない紫の婚礼服は、質素と言うにもおこがましい、脚が腐りかけた樹の机の上に無造作に放り出されていた。
明日、この世で一等上質な布で織られた紫の婚礼服を纏い、丹念に飾り立てられ、華爛は天帝の許へと召される。
無秩序に、それこそ死骸の上にさらに死骸を積んでいくように、この街は建物の上に建物が建設され、生き物のごとくくねり生きている。各々の欲望に忠実に増築を続ける街は、他人のことは端から頭にない。各自の勝手に手を加えられた街は、そのものが一つの迷路のようだった。そして人々を誘い込み目を眩ませ、身の内で飼い育て続ける混沌を肥大させる餌にする。
しかし、空さえも手にできると驕るこの街も、どうやっても天帝の住まう天までは届かない。
遥か高い雲の上のそこは、天上人の楽園だ。足許を蠢く蟻にも等しい地上の人間は、天に住まう天上人たちにとってさしたる害にもならなければ薬にもならない、そんな存在であるから、天の箱庭であるこの街で、生きることを許されていた。
正しくは、気にも留められないから、許されている。
そんな天上人の帝である天帝と華爛には、本来なら何の接点もない。なかった筈だった。
華爛の身じろぎに、薄闇が蠢く。頬を微かに歪め、華爛は翳りを帯びた笑みを唇に佩いた。秀麗な顔に浮かんだ笑みは、何処か疲れて見える。
「私は、お前を労うのに、手を握ることもできないのだな。これが、最後だというのに」
「……こうして傍にいて、同じ時間を共有しているだけで、俺は十分だよ。それに、労う、なんて、まるで迷惑でもかけたみたいに言うなよ。華爛と一緒の日々を、そんなふうに思ったことはないさ、ただの一度も」
儚い、とも形容できる微笑みを浮かべたままの華爛に対し、透真の面に笑みはない。深い湖を思わせる瞳には、ひたすら華爛ばかりを映す。
部屋の隅から動くことはできない透真は、眼差しで華爛を搦め取れればよいと、深く、瞬きもせずに見つめ続ける。そうして身体は傍へ侍ることはできなくても、目に見ない、一番大切なものは彼女の傍へと差し出す。
包み込む、では生温い、熱の宿った透真の視線に、ゆっくりと閉じたままだった華爛の瞼が上がる。
色素の薄い、水縹の瞳。
しかし焦点はぼんやりとして、それでも相対した者の本質を映すその鏡は、いまは透真だけに向いていた。
華爛は、盲だ。目が見えない代わりに感覚が鋭く発達し、常人とは異なる力を持ち合わせていた。
占えるのだ、人の過去や未来を。曖昧で抽象的な物言いでなく、華爛ははっきりとした形で告げることができる。蕩々と抑揚なく、
その唇から己の知る筈のない未来や過去を紡ぐ。神がかったその光景に、透真はどんな感覚なのかを尋ねたことがある。
「大きな占のとき、自分の意識はほとんどないよ。勝手に何処ぞの誰かが私の口を借りている、というのが近いな。それこそ、いま透真が言ったように神でも降りているのかもな。統括府やらお偉い方、果ては脛に傷持つ者たちも、その神様が好きで堪らないのさ」
あの日は、清廉な朝陽が窓から降り注ぐ、温かな日だった。朝のその時間は、まだ華爛の占いを目当てとする客も来ない。いまと同じように窓辺に腰かける華爛の、いまはもう決して立てないすぐ傍に佇み、透真は耳を傾けていた。
意識はあの日へと還っていく。
華爛は呟きの後、自分の占いの客へと、確かな皮肉を持って笑った。そして自嘲の色が一際鮮やかに塗り込められた唇から、柔らかで弱い声を漏らす。
「でもな、小さな占の方が私は好きだ。近所の犬がいなくなったから探してくれ、女房を怒らせたから仲直りするにはどうしたらいいか……」
そんなことまでわかる筈ないだろうに、と華爛はふっと肩の力を抜く。純粋な笑みに震わせた肩を正し、閉じていた瞳を開いた。
占いのとき以外に、華爛は滅多に瞳を人には晒さない。焦点の合わない目は人を怖がらせる。それを知り尽くした華爛は、だから瞳を滅多に開かない。
しかし、いまその水縹の瞳を透真へと向けている。やはり焦点は結ばれていないが、しっかりと華爛の瞳には透真の影が映っていた。
真剣な華爛に飲まれ、自ら話を振ったにも関わらず気のない相槌を打つだけだった透真も、思わず背がすっと伸びる。
華爛はいつだって背筋が通っている、などと、緊張からか気の抜けた考えが浮かんだ。
「……初めてだな、人に話したのは」
「何、を?」
「お前から、聞きたがったのだろう。占う際は、どういう感覚なのかと」
「初めて?」
「そうだよ。占の感覚を人に話したのは、初めてだ。私はあまり、いや、まったくかね、この力が好きではない。それに人離れした力を人は羨み、手にしたがるが、心の奥底では畏怖する。けれど私から話を引き出し、その力を自分も得られないかと試みる」
背筋を伸ばし常に人に頼られ、人に頼ることなく凛とした華爛。
そんな華爛が、透真を前に苦い呟きを漏らし、弱い声で囁いた。そして滅多に人に晒さない瞳を見せ、目許を和ませ微笑む。
「透真が、初めてだ」
呆然とする透真に、春よりも穏やかに華爛が微笑む。人への不信感が滲む言葉を口にしながら、声音はただ柔らかで温かかった。
ふわふわと羽先で胸をくすぐられるようなむず痒さに、透真は何が原因か知りながらそんなのは知らないと心中で叫び、華爛からばっと顔を反らす。
「……俺、華爛の世話役として信頼されちゃった?」
されちゃった、などと、普段は使わない言葉尻で、透真は照れを隠す。隠してるんじゃない、この変な空気をどうにかしようとしてるだけだ、とまた心の中で叫んだ。
盲目であろうとすべてを見透かす華爛は、日向で微睡む猫のように喉で一つ笑うと、信頼しちゃってるのさ、と微笑む声音のまま囁いた。
ば、な、と言葉にならない透真に、それでも朗らかに華爛は笑っていた。
ああ、あの日は途方もなく遠い。
思い返せば胸が軋む。
どうやっても、あの日々たちを手許へと引き戻せない。
いや、と透真は首を横に振る。最近の忙しさに放っていた髪が、少し伸びたのか振った頭と一緒に揺れて首筋をくすぐった。
違う、自分でそう決めたんだろうが。
ぐっと、拳を握り締める。握り込み過ぎて血が滲めば、視覚以外の発達した華爛に悟られてしまう。痛い程、ありったけの力を手のひらに込めることはできず、しかしそうせずにはいられない。
思い通りにいかず癇癪を起こす子供。
いまの自分がそうだ。そうして、その子供にできる唯一で最後のことが、華爛の幸せの為に天へと彼女を送り出すことだった。
そうするのだと、透真は自分で決めた。
刻々と、新しい夜明けが透真と華爛に近付く。夜が朝へと向かい、張り詰めていく。
迫る足音は、永遠の決別という名を持つ。
肉体的には数歩である二人の距離は、海を隔てたよりも遠くもう埋まらない。
味わうような沈黙が降り、漂う。長く華爛の世話役をしてきたが、こんな沈黙はよくあった。会話が途切れ、ふいに沈黙が落ちても息苦しさを感じることもなく、それは透真に心地よさを与える。
現在も、その沈黙が訪れたたけだ。ただ、こんなに重くのしかかる空気を含んでいるだけ。
灯彩の移り変わりとともに、華爛を縁取る光も踊る。纏わり付くその毒々しい光も、華爛を一欠けも穢せやしない。これだけ汚濁に塗れた街なのに、いつまでも華爛は凛とし毅然と立ち、廉潔だ。
じっと、仄暗い真夜中でも煌めきをたたえる、水縹の瞳を玄関から愛でながら、うつろうことのないその瞳に映る自分の影を追う。
人は、焦点の合わない瞳より、この自身の影を恐れるのだろう。偽りなど容易く剥ぎ取って、そこには真実の自分が映る。その透徹な瞳は、覗けば自分の薄汚れた深淵を映す鏡であり、人はその自身に怯えるのだ。
華爛と初めて出会った頃に比べ険の消えた表情の自分に、ふっと様々な色を瞳に乗せ、透真は目を細めた。
この街は、幾ら欲望を飲み込んでもまだ空腹だと訴える。際限がないのか、穴が空いているのか、そのどちらかはわからないし、どちらも正解であるような気がした。
醜悪で悪臭を放つ欲。街がそれを飲み込む許容量に際限がないと仮定するならば、透真は次々と飲み下し膨れる欲に押しやられ、底辺で圧死するひしゃげた虫だろう。仮に穴が空いているのなら、そこから落下し無様に身体を潰し、下に広がる暗闇に骨までしゃぶられる家畜だ。
親もいない守る者もいない大切なものなどなく、自分さえもない。
透真は道端の石よりも多くそこら辺に転がり、道端の雑草よりも簡単に生えてくる、この街のそんなものの一人だった。
個すらすり潰され塵芥と括られた透真は、それでも華爛と出会う。
そこから、個である透真は生まれ、始まった。
「俺が華爛の世話になって、五年か」
「そうだな」
自分が何歳か正確な歳はわからない。けれど華爛と出会ってから五年なら、自分の歳は五歳で構わなかった。真実、透真が人として生きてきたのは、その五年間だけだ。
「五年、か。長かったな」
「……いや、短いよ」
近付く夜明けに胸を潰されそうになる。それを感慨深さが締め付けるているのだと置き換え、目を一層細めた。しかし、華爛の瞳はそんな透真の心を見透かす。
「お前との五年は、私には短かった」
短かったんだよ、と、その五年自体が宝物であるかのように、そっと華爛は囁いた。
敵わない。そうやって華爛は、透真を畜生から人へと生まれ変わらせてきた。
「……うん、そうだな。短かった」
そう、いつもだ。いつも結局敵わず、無理に浮かべた透真の笑みは歪む。
透真が華爛の世話役兼護衛になったのは、彼が統括府から遣わされていた、華爛の前護衛を殺したからだった。華爛の占いは外れることはなく、顧客には街を喰い荒らす大企業の重役や裏社会の顔役、さらには統括府の人間も名を連ねている。
統括府、則ち資本主義が高じて企業が治める国家の様を呈す街で、企業を取り纏める機関であり、権限を持つ彼らまでもが重宝する占い師。それが、華爛だった。
そんな華爛をどの組織にも独占させず、また個人的に手出しをさせない為、そして保護と監視を目的に、統括府が代表として華爛に護衛を付けていた。それを、まだ少年の域を出ない頃、塵芥の一片であった透真は、塵、犬、虫、そういった畜生から人間になろうと考え、実行に移し殺したのだ。
影だけで構成されたようなこの街の、さらに裏で密かに噂される、名高い占い師。
計画があった訳ではなかった。人になる為の尾を掴む、頭はすべて、それが占めていた。
そして、あの頃からいまも相変わらずの、色の禿げた看板が傾き落ちかけ、柱が腐り、さらに壁は崩れ鉄骨が剥き出した、この華爛の住処である廃虚に忍び込んだ。
押し入った華爛の部屋には護衛が一人おり、透真は躊躇いもなく、手慣れた鮮やかさで、その男を短刀で斬って捨てた。浴びた血を拭いもせず、そこら辺に転がる石を跨ぐより無造作に息絶えた男を踏み越え、血に濡れたままの短刀を一つ振り下ろす。空気を割く鋭い音が響き、跳ねた血飛沫が華爛の足下に赤く短刀の軌跡をかたどった。
夜の中、白黒の世界に浮かんだ赤の色濃さを、透真が忘れることは一生ない。
華爛は人殺しを前にして、取り乱すこともなかった。欲しいものは金か身体か、私が占う過去か未来か、と尋ねられた。
その落ち着いた態度は、過去にも何度かこんなことがあったのかもしれないと、いまなら冷静に考えられる。
「畜生から、人になりたい」
そう透真が答えたら、滑稽だな、そして、惨めだ、と憐れみの笑みを受けた。短刀の柄を握る手に力を入れても、彼女は怯まない。
「俺はごみでも、虫でも、犬でも、それでもない。俺は……人だ」
「怒ったか、少年。しかし、お前は人になりたいと言うが、たったいま人を一人殺した」
「それがなんだって? 生きる為だ」
「誰も、誰の命は奪ってはならない」
現実を知らない理想論者がいる。一瞬、殺してしまおうかと、考えが過る。
「その殺された男にも未来があった。妻子がいたかもしれぬし、将来、妻子ができたかもしれない。お前が殺したことで、生まれる筈だった子が一人、失われた。出会う筈だった女は、出会えなくなった。そして、男もそれらを失った」
「なら、俺に這い蹲って死ねって? ああ、尻突き出して、尻の穴でも掘られて生き」
「違う」
強い声が言葉を遮る。勢いを止められ、ぐっと透真は息を詰めた。そうじゃないと、小さな、けれど響く声が耳に染み渡る。
「誰も誰を殺めてはいけない。殺めてはいけない誰もに、お前も入ってる。けれどな、殺められてはいけない誰かの中にも、お前は入っているんだよ、少年」
耳を疑った、そして目の前の女のおめでたい頭も。
ちっぽけで、何処で死のうと歯牙にもかけられない、虫で物で屑で畜生でそれの自分。
殺すな。
それは、お前みたいな屑に命を奪われるなんて、ということ。
殺せ。
これは、お前なんてそれしか能がなく、それくらいの価値しかないのだということだ。ならば。
殺められてはいけない。
それならば、これは、何だろう。
目を剥き呆然としていると、肩に置かれた手が腕をつたって滑り、手に手が触れた。たおやかな指が手の甲を労って撫で、手のひらに包まれる。顔を上げると、向き直った占い師の微笑みにかち合った。
「私は華爛。よろしくな」
そういうと、笑みと同じ温かさで包まれた手を握られた。返り血で汚れるのも厭わず、繋いだ手を華爛は放さない。
血の生温さなどではない、程よい体温がむず痒くそれが嫌で、手を振り解こうと払う。しかし、力は碌に入らず、微かに手と手を揺らすだけだった。
目の前には、穏やかな微笑み。
人肌は丁度よくて、これが優しいと言うのかもしれないと思った。そして、ああ、と強張った顔をくしゃりと少年は歪める。
人とこんなふうに初めて触れた。
人に、初めて微笑まれた。
この女は、自分をどうにかしてしまう。駄目にする、何かを奪う。きっと、畜生としてでも生きてきた自分を、殺す。
殺して、人、へと生まれ変わらせようとしているのか。
呆然と開きっぱなしの目が乾いて、涙が滲みそうになる。
「それで、少年。お前の名は?」
泣きそうに歪んだ顔の彼の手をあやし、目許を和らげ華爛は笑う。
名なんてない、と掠れた声でやっと答えると、それなら透真はどうだと言う。
「透徹な真。お前だけの真実を探すとよい」
それは、温もりがこの世に存在しているのを、透真が初めて知った日だった。
夢に包まれたようにぼうとしていると、護衛が殺されたのを察し、別の男が二人やってきたが、華爛が毅然と追い払った。護衛を殺した透真をこちらで処分すると主張したが、透真はいまから自分の護衛で世話役だ、もしも手出しすれば今後一切占わない、と顎を上げ華爛は言い放ったのだ。
「手出しすれば、私が指一本動かすだけで何ができるのかを、お前らは思い知るぞ」
酷薄な笑みを浮かべて告げたこの一言が決め手になり、それ以来透真は華爛の護衛と世話役を勤めている。元々、衣食住の確約もない日々を送っていた透真に、住み込みでの華爛の世話役は願ってもない幸運だった。
「これで、人になる尾は掴めただろう? 後は、自分の行く末を自分で決めるのだよ」
世話役に就いて翌日、悪戯に成功したように、透真の顔を覗き込んで華爛は笑った。
いつまで、と華爛と透真の間に取り決めはなされていない。また、いつまでも透真が華爛の世話役でいなくてはならない、という束縛も存在しなかった。
それでも、透真は華爛の隣に常に控え、そうして徐々に人となり、感情を覚え、笑うことを学んだ。優しさも労りも、学んだ。
それらすべては、華爛がくれたものだ。
この灯火が胸にあれば大丈夫。そうだろうと、言い聞かせる。
「祭囃子の音、華爛にも聞こえる?」
「ああ。楽し気な声がちゃんと聞こえるよ」
時間が惜しい。眠らない街は祭り、そう華爛の、天への輿入れの祝祭で沸いている。
夜が明ければ、華爛は天帝の許へと嫁ぐ。
ひしゃげる胸に蓋をし、最後は華爛と笑い合っていたかった。それなのに、自分の力のなさをここに到ってまで尚、思い知る。
反らすことのない華爛の瞳は透真に向いた鏡で、無力な己を映し出す。
「やはり、透真は透真だな」
「……え?」
「天帝はな、花の色が美しいと言うんだ。私にも見せてやりたいと」
ふっと、弱い息が漏れる。華爛の笑みは儚く細い。違う、そんなふうに笑って欲しい訳じゃないのに。
「そして、私の髪が黒く艶やかに輝いていると褒める。瞳は、水のように澄んで美しいそうだ。指は細く肌は白く透け、その姿は華奢で、守りたくなると言っていた。それらすべて……私には、何の意味もない」
目が、見えないと言うのにな。
そう呟き、華爛の表情に諦観に似た憂いが滲む。
天上人の帝である天帝と華爛には、本来なら何の接点もない。なかった筈だったのだ。
ただ、華爛が噂に名高過ぎた。
下に降りてこない筈の天帝は、外れることのない華爛の占いに興味を持ち、華爛に出会い、そして華爛に興味を持った。
「綺麗なものを見せてやりたかったんだよ、きっと。それに……華爛は、綺麗だ」
緩慢に、華爛から笑みが剥がれた。
笑っていて欲しい筈なのに、儚い笑みよりもこっちの表情の方がまだいいと、身勝手にも思う。
「……透真に言われると、私にも見えるものを、褒められていると思えるな」
「華爛にも、見えるもの?」
「そう、ここだよ」
ぎゅっと、華爛は胸を押さえた。笑みは戻らない。それでもいい、もう、それでいい。
華爛をいつでも思い描けるように、輿入れが決まってからひたすら見つめ続け、瞼の裏に焼き付けた。もう軽々しく触れられない。
いま、抱き締めたくても、こんなに思いが溢れても、透真は華爛に触れられない。
ぐっと、拳に力と決意を込める。
静かに、透真は一歩を踏み出した。
「なあ、華爛」
天には天上人のみが住まう。天帝に召される華爛は天上人になるが、透真はただの人に過ぎない。華爛と別れれば畜生に戻るだけの、ただの人。
透真の、華爛とは対称的な男にしては高めの声が、華爛、と名を呼び終えるのを惜しむように、再びゆっくりと優しく名をなぞる。華爛はそっと睫を震わせ、瞼を開く。
「天は、何の憂いもない所だから。天に召されれば、生きる為に、もう占いなんてする必要もなくなる」
一歩、二歩、三歩目で透真は腐りかけた机に辿り着き、時を刻んだ机の木目を撫でた。
水縹の瞳は微塵も動かない。折れそうに華奢な華爛。けれど、誰よりも凛とした華爛。
深く、息を吸った。
夜の濁った匂いと、部屋に染み付いた生活の面影、そして華爛にいつも挿していた花の香りが、胸をいっぱいに満たす。
胸を締め付けて、痛くする。
そうだよ、華爛。
華爛が好きじゃない占いの力を、もう使わなくていい。こんな、どうしようもない街で一番治安の悪い、肥溜めと呼ばれる地区から抜け出て
「幸せに、華爛」
そう、この街なんていい、俺なんてどうでもいいから。
だからどうか、幸せに。
「幸せになって、華爛」
送り出す為の一押しをするのに、肩も叩けない。せめて最後の、餞別でも家族愛でも友情でも、恋慕でも、それの篭った抱擁もできない。
カリ、と机を引っ掻いた。
そして、抱き締めた背中に回した手に力を込める代わりに、机に爪を立てる。
夜明けが近い。朝陽が牙を研いで、透真の心臓を狙っている。
長い沈黙が落ちた。
華爛は茫洋とした瞳で、透真を見つめている。華爛の目は見えない、けれど、華爛にも見える、見えると言った、ここ。透真のここをまっすぐに見つめている。
透真は、華爛を脳裏に焼き付ける。
もう、天に行けば会えない。けれど、自分の力に縛られ身動きも取れなくなったまま、この街に喰われずに済む。ここでずっと暮らさずに済む。
凛とした華爛、でも誰よりも自由のない華爛。
覚えておこう。
毎日自分が結い上げ花で飾った、艶やかな、星の煌めきを宿した黒髪。透真の頭を撫で、頬に触れ労った指。彼女だけが呼ぶ、透真、と甘く優しく囁く声。水縹の、自分を映し、その影で自分を律してくれた瞳。
強く、清らかで、時々茶目っ気を出し、柔らかく微笑む、その心。
穏やかな眼差しで、華爛を見つめる。
初めて見つけた。慈愛という言葉は、この感情を指すのかもしれない。
最後の一夜が、微笑みでなく沈黙でもいいと思った。それなのに、見つめていた華爛が、ふいに笑みを浮かべる。
その心と同じ、温かく柔らかな微笑みだった。
目尻に微かに皺が寄り、五年という年月が長くもあったのだと、透真に気付かせる。
「透真も、幸せに」
もうそれでいいと思っていたのに、華爛の微笑みは、生温い偽りすべてを崩した。
「もう、私の世話をする必要もない。私に縛られることなく、いまはもう、自分の道を歩けるのだから。自由であれ、透真」
唇が震える。それを透真は血が滲む程噛み締める。
華爛に悟られてしまうというのに。
「幸せになれ、透真」
この五年間で、いや人生の中で、最高の微笑みを、華爛は美しい顔にたたえた。穏やかで、天の楽園など足下にも及ばない、並び立てない、春を芽吹かせ綻ばせる、温かな微笑みだった。
そして、華爛の人生最大の見栄と嘘だ。
「夜が、明けるな……透真」
ぽつりと、憑き物の落ちた声だった。ゆあんと、華爛の呟きが空気に溶ける。
華爛が笑っていなくても、自分は笑って送り出そうと決めていたのに。
泣かないと、決めた筈なのに。
自由であれ。
力に縛られ、誰よりも自由のなかった華爛。
自由って何だ。
華爛がいたから、呼吸の仕方も知ったというのに。指先にも、耳にも、瞼にも、胸にも、俺のすべてに華爛が住み着いているのに。
忘れるなんて、決してできないのに?
……大丈夫。華爛がいなくても大丈夫だ。
そうだろうと、強く強く言い聞かす。
華爛の、幸せの為。
窓の外で、祭囃子がいっそう声高になった。牙を研ぎ終えた朝陽が、うっすらと建物を照らし始めている。
「夜が、明けたな、透真」
「……ああ」
明けなければいいのに、なんて思わない。
それは、華爛の幸せを奪う。
泣かないと決めていた。笑っていようと。
それなのに、朝陽の牙が胸に食い込む痛みに、左目から一筋、雫が零れ頬を伝う。
「幸せに……華爛」
噛み締めた唇の間から囁いた、無様な声に涙を察し、華爛は苦笑した。
まるで、子供の悪戯を見咎めた母のように。或いは、恋人のささやかな、けれど的外れだった贈り物を大切に胸に抱いたように。
知らぬ間に冷えていた透真の頬を、温かさが伝い濡らしていった。
街は祝祭に沸き、天から七色の輝く輿と天女が、天帝の妻となる女の住処である、肥溜め地区の廃虚の屋上に舞い降りた。
人々の声も祭囃子も一際高く上がり、街全体が揺れる。耳をつんざく程の歓声に包まれ、紫の婚礼服を纏い、街の女は天帝の許へと召されていった。
屋上で見送った青年の呟きも、妻となる女が神輿に乗り込むときに囁いた言葉も、歓声に消され、形にはならなかった。