「POOL」〜浄水〜
▼プール閉鎖から四日目の夕刻。
母親からの電話で『今夜はお父さんも遅くなりそうだから、何か注文してもいいから先に食べてて』そう言われた姉が素直に従う筈はない。
当然の如く、夕夜に出歩くCHANCEと捉え、姉は先のワカラン何かを解く鍵を見付けていたのか、不穏な笑みを僕に向けると急ぎネットで何かを確認し出す。
「16:23発で行って……21:10なら、ギリ間に合うか……」
嫌な予感しかしない姉の呟きだけど、何の時刻を言っているのかも凡そに知れる。
昨日のスーパーで石黒さんが降りて来たのを視た事で、この辺りから貯水湖までバスが出ていると気付いたからに他ならない。
けれど車社会を宣う政策に推されバスは減便、貯水湖行きも日に数本の貴重なバスになっているのか、時刻合わせに悩む姉。
子供の移動に自転車を叩き、更にはバスを渋滞の要因として減便させて尚、社会を自分勝手な大人の指針に合わせろとばかりに、恰もな正義論で生活道路すらも車ばかりの危険な道に変えていく。
習い事にも送迎する親の車が増えていて、駐車場の入出庫で轢き殺されて亡くなる子供が増えている。
子供の僕達が移動する手段をむしり取っておいて、公共の場に爺婆子供は邪魔だと吐かす大人の勝手。
帰宅ラッシュの電車やバスは、大人しくしていても大人の嫌気な視線が向けられるから僕は苦手だ。
多分だけど、乗り物酔いする子供は、そんな苦手意識から電車やバスに乗る事自体にも緊張してる。
「バスで貯水湖に行く気?」
問いの応えに不適な笑みを僕に向け、出掛ける準備を始める姉だが、地図やライトや元筆やチョークや身体を冷やすグッズやと、詰めたバッグはパンパンだ。
「やっぱコレ、咄嗟に出せないとだから悟のリュックに入れといて!」
そう言って元筆を取り出し僕のリュックに入れる姉。
この時間に姉と二人でバスに乗り込む事にも、石黒さんがそうであったように習い事か何かと考え、子供の勝手な出歩きを疑う大人は居ない現代社会。
昨夜、食後に父親が観ていたスポーツ番組を横目に、石黒さんについて思い出した事がある。
休み時間に何かの話で石黒さんがバレエを習っていると聞いた僕と赤星君は、その背の高さからバレーボールの事だと思ってた。
それでクラス対抗ドッジボール大会の時に、石黒さんを盾代わりにしてたんだけど……
「男が女の後ろに隠れんな! 弱虫のチビ助共が!」
と、詰られ応えた僕達の「だってバレー習ってんだろ」に対する冷めた目の呆れ顔は今でもハッキリ憶えてる。
直後に石黒さんが華麗に避けると、ボールは赤星君の顔面にヒットし倒れ、鼻血を出して保健室行き。
「カメ、オレの敵を取ってくれ……」
誰を敵とするのかも判らない赤星君の捨て台詞は兎も角として……
その華麗な避け方で僕はバレーとバレエの違いを理解した。
陽炎に揺らぐ午後世界の屋根を眺める視点の高い後部座席で、石黒さんの習い事を姉に伝えたバスの中では、買い物帰りのおばさん達の多さに惣菜の匂いが溢れてる。
緊張よりも空いたお腹が鳴り響き、隣りのおばさんから飴を渡され、緩い時間の流れにバスの印象も好転しそうだ。
「あれ、降りるのここじゃないの?」
貯水湖の堰から少し南西に位置するスーパー前のバス停は、昨日に知った位置を判らせたが、降りるおばさんに手を振り別れを告げる。
「うん、次の次の……次の……」
姉の目する行き先を知らぬままでもバスの揺れは眠気を誘う、けれど停留所を二つ過ぎた所で聞いた名前を耳にして、古地図に見た位置関係から向かう先に見当が付いた。
――TUGIHA―HIGUTI―HIGUTIDETH――
湖の北側は丘を下り切ると市を違え、工業地帯が広がり人の住処は殆ど無い、栄えているのは商業施設が建ち並ぶ古池駅前のみ。
対して湖より南側は、樋口家が他の領主から奪い取った土地すら税金対策に細々切り売りした為か、歪な小道に街道が横切る住宅街は生活に必要な店すら殆ど無い。
降りるバス停が樋口家の土地を過ぎた先なら、貯水湖建造の際に西の基点となる分水工の在った湖西のトンネル辺りだろうと予想した。
湖西トンネルの上には展望公園があり、熊爪川から水位差で丘上に上げた水の勢いを緩め、広がる芝生の下で地下水のように湖へと注がれている為、入水は禁止で柵が設置されている。
広い駐車場を有する展望公園はドライブの休憩所としての利用が多く、熊泪湖と聞いてイメージするのはここだろう。
では何故ここが姉の目的地と思うのか!
一般には知り得る事の出来ない捜査情報も、アパートに住む大学生の皆が刑事の聴取から知れた僅かな話を集約すれば、聴かれた内容で繋がり全体像まで見えたと言う。
遺体発見現場は数カ所あり、一つは昨日行った湖東の堰にある南岸に併設された用水路への放水施設。
放水量を調整する為に区切られた調整域に数体浮かんでいるのを、激坂好きのサイクリストが発見し通報、警察は湖の東側を中心にボートと潜水で物証等の捜索を開始。
けれど警察が捜索を終えた翌朝、熊泪湖展望公園にてバズーカレンズで野鳥を撮影していた写真家が、新たな遺体を発見した。
湖西の展望公園近くには水面に浮かぶ噴水フローターがあり、噴水に集まる魚を狙う水鳥に合わせズームしていた処、浮き上がる妙な異物にピントきたらしい。
噴水フローターは湖水を腐らせないよう撹拌する為の噴水で、噴水の吸水口がフローターの下部にある。
中位層を漂う遺体が引き寄せられ、吸水口を塞ぐと水詰まりのゴミと判断されて噴水は自動的に一旦停止し逆噴射、噴射に泡を纏わせた遺体は浮き上がり湖面に姿を現す。
けれど浮き上がる頃にはフローターが再起動して噴水に隠れて見えなくなり、暫くしてまた吸水口に引き寄せられて中位層まで沈みと、遺体は浮き沈みを繰り返していたらしい。
湖水を腐らせない為の自動制御が遺体を隠し腐らせ散らしていたとか、何とも皮肉な話に思えてしまう。
で、この遺体発見現場に姉が興味を示さない筈がないと思う理由が、もう一つある。
この熊泪湖展望公園は、幾度となく痴漢や誘拐事件が起きている事から、公園なのに危険な場所として認知され、車の乗り入れが多く未だ犯人は捕まっていないと聞く。
警察がこんな事件を放って置くのも、過去の事件に照らせば大人の事情を浮かべてしまう。
ふと、月陰洞のカマキリと痴漢や誘拐事件の犯人とを重ね合わせてみると、それが可笑しくないように思えて答えに行き着いたような錯覚に陥りそうにもなる。
けれど同じ犯人とするには隔てられた時の問題があり、カマキリが当時何歳かも判らないけど、二十歳前後だったとしても今は九十歳を超える爺さんだ。
――TUGIHA―TENBOUKOUEN―TENBOUKOUENDETH――
――PUUUUU!――
姉に小突かれブザーを押すと同時に確信した。
トンネル手前の道にバス停車用の窪みまである展望公園のバス停は、それなりに人が降りる事を想定して造られてるけど、この時間に降りるのは僕と姉だけ。
公園への入口となる坂道は車道と歩道の二つあるものの、歩道は夏に伸びた枝草に侵食されて通れそうにない。
仕方なく車道の左脇を歩くも、帰る車が一台反対車線を過ぎただけで、登り終えると広い駐車場とトイレが現れ、大きな時計が17:05辺りを指していた。
駐車場の車は六台、内二台は水道局の作業用トラック、残る何台が管理者のものか判らないけど周囲に人影は見当たらず、局の施設から離れた所に駐めた車を二台確認。
姉と顔を見合わせ覚悟を決める。
虫除けスプレーを向け合いトイレを済ませ、歩み出す姉を追いかけ湖の南岸へ延びる散策道へと。
僕の予想は地図の読み込みが甘く、立て札に書かれた行き先でようやく理解した。
【月陰洞跡 ←320m先】
着く頃には植林帯の中が暗くなるだろう事を陽の傾きに理解しながらも、姉の白装束を追えば良い。
何の脈略も無くそんな甘い考えを浮かべる自分が不思議に思える。
芝生の広場には人影が無い事からも、この散策道の先に知らぬ誰かが居る可能性が高い。
警戒心を持つべきなのに今の僕はそれが出来ず、謎解きに魅せられ危険を軽視しているのか脳裏に妙な期待を走らせていたが、それが間違いと気付くまでに時を必要としなかった。
「シィッ!」
人差し指を口に姉が屈んで振り返る。
目前に視える史跡広場には、石碑と解説文の書かれた立て札があるのみで、屈んたせいか少し高台なのか湖岸に設けられた柵からは湖面が観えない。
その石碑に向き立つ男が一人、余程に頭が可笑しいのか真夏に膝丈まである艶皮のコートを羽織り、肩より下まで伸びる白髪まじりの長い髪はゴワゴワで、背中からでも厳つい身体を判らせる。
そんな男が肩に担ぐ大きな袋を脇に捨て置き、手にするスコップを地面に突き立てた次の瞬間、周囲の空気を一変させる低く大きな怒りに震えた唸り声。
――ZAAAAVAAATH!――
まるで何かの呪文を叫ぶような男のそれは対岸の反響が響鳴して震えを増すと、両腕を広げ何かを鼓舞しているかに思えて来る。
湖畔の木陰で暗くなり始めたとはいえ、まだ明るさを保つ空とは対照的に、石碑の陰で男が薄っすら緑の光を纏い出す、男が人では無いと判らせた。
「ぇ゙ぇ゙っ……」
恐怖に漏れた僕の嗚咽が聴こえたか、瞬時に男は首をこちらに振り向けギロリとした鋭い眼光で様子を窺う。
老人のようでいて歳を計り知る事の出来ないこの世のモノとは思えぬ表情で、髭に覆われた口では歯を食いしばり、見つかった瞬間に殺されそうだ。
口に手をやり音を隠すが今更なのか、怖がる僕とは違える姉は、何かを理解したような顔を浮かべてそれを見詰め、少し怪訝そうな目を向け立ち上がる。
白装束で目立つ姉が直ぐに見つかるだろう事は誰の目にも容易に判るが、まさか自ら立ち上がるとは思っていない。
「姉ちゃんっ!?」
咄嗟に止めようと手を伸ばすも間に合わず、姉は何を思ったか鬼気迫る顔でこちらを睨む男の方へと歩み出す。
訳が分からず頭も固まり、僕の身体は恐怖で動く事すら適わないのに更なる脅威か、道で縮こまる僕の背後から聴いた事のある声が呪文のようなものを呟き近付いて来る。
ガナルベルデザルボフ
ズィグクォルケルムンド
ダジルムゲエデゾイゴアッザエル
エルブンドゥレイム……
声を辿り向けた視線に散策道を歩く黒装束で頭までを覆う少女が見えた。
「石黒さん……」
道にうずくまる僕を抜いた次の瞬間、石黒さんが男に何かを翳して語気を強める。
「闇より来たる死刑執行人 ブーロー 、復讐の任と掟を破り現世を彷徨う悪魔と成りては、ゾロアスターの教えにも禁忌となる。その代償にこの湖で人を殺めた罪人の生命共々闇へと帰せ! オッパドゥム!!」
――OPPAADOUM!――
石黒さんが翳した何かが青い閃光を放つと、空間にヒビが入り闇が噴き出す。
けれど次の瞬間、男はスコップを手に取り振り上げ、腹の底から響き渡る悍ましい咆哮を上げてスコップの先を地面に突き刺した。
――AAAAAALASTOR――
スコップの突き刺さる地面から緑の雷鎚が空間へと這うように走り、噴き出す闇はヒビへと戻り、ヒビをすらも緑の発光体が包んで消し去った。
「どうして? 地獄の門に抗う事が出来るなんて……」
驚く石黒さんの様子にも僕は意味が分からず頭を抱え、争いを避けて屈んでいた姉が立ち上がると、焦りも見せず石黒さんのそれを知っていたのか冷静に問う。
「やっぱり、それ黒魔術でしょ?」
眼光鋭い石黒さんの視線が向けられても尚、気丈に言葉を続ける姉の話は僕の頭の理解を超えていた。
「貴女の云う死刑執行人は熊泪湖の守り人になってる。貴女の持つ魔術の力では神の理を解く事は出来ない!」
「神? 貴女が神だと言うの?」
怪訝に首を傾げて姉に睨みを向ける石黒さんは、両の掌を姉に向けると黒魔術で真意を見抜こうとでもしているのか眼光が増す。
「私は乳飲池の畔に住まう南北二つの祠の主、水神様に仕える者。今市内で起きてる水道水の問題を追って、熊泪湖の邪な汚れに気付き静めに来ただけ」
■あとがき
◆悪魔解説
▼ブーロー(死刑執行人)
ゾロアスター教ではブーロー(死刑執行人)と呼ばれていたが、ギリシア神話ではゼウスの異名とされるアラストル (Alastor) と呼ばれ、地獄の刑執行長官を務める過酷な魔神。
ギリシア語で復讐者、復讐するという意味で、アラストールとも呼ばれる。