「POOL」〜止水〜
▼プール閉鎖から三日目の午後。
「怪我は?」
姉に問われた大学生は首を振るも神妙な面持ちを見せ、おばさんの謝罪を聞いて黙し何かを考えている。
おばさんの魂は浄化されるも、未だ意識は謝罪に向いていて思考が無く、ただただ謝り続けるばかりで僕達の呼び掛けにも応える様子はない。
僕が心配そうに覗いているのを気にしてか、大学生は少し大人に気を張り唾を飲み込むと、また暫く考えた後に意を決したように話し始めた。
「このおばさんが謝ってるの、多分だけど、湖で見付かった子供の事だ。テレビに出れると浮かれて、嘘の証言で自転車に乗ってた子供を悪者にした事を悔いてるんだけど、これ、ウチラんとこに来た刑事が『自殺の可能性』とか言ってた子供の話と重なるんだよ」
僕達が事件を調べているのは、姉が遺体発見現場を訊ねていたから大学生も知っている。
それで姉や僕に話して良いものか、変に話を拡散されないかと心配したのかも知れない。
それでも話してくれたのは、先の異様な光景を共に目撃したという仲間意識からに思える。
大学生が刑事に聴取されたのは、あのアパートより先の道に向かった車など不審なものを見ていないか。
けれどその問いは、湖で複数の子供の遺体が発見された日の前日の事ではなく、とある子供が失踪したとされる日から数日間についてを聞かれたと言う。
その、とある子供の事件というのは、昨夏メディアが騒いでいたから僕達も知っている。
同じ市内の小学生が起こした事故だからか、学校でも夏休み明けに先生が「自転車は気を付けなさい」を何度も言ってて、注意喚起で朝礼に来た警察官の話が長くて、隣の列に居た子が倒れたから余計に覚えてる。
名前が確か、“ハラ何とかエミリ”って、同じ習い事に通ってた子から漏れた情報だ。
テレビ新聞の話では、事故を起こしたエミリさんが乗ってた自転車は点検整備を怠たってて、ブレーキが効かない状態だったとかいう話で騒いでた。
『整備不良で相手の車に傷を付けたんだから高額な賠償金を支払うべき! 保険は必須にしないと! 子供の自転車なんか禁止でも良いくらいだ!』
コメンテーターの芸人はカメラ目線で叫んで満足気な顔を浮かべてたけど、別の番組では子供時代に自転車で遠出したとか話してた。
元々面白いとも思わなかった芸人だけど、僕がお笑い番組も芸人も大嫌いになったのはこれが理由、だからこの件は凄い覚えてる。
大学生が言うにも、メディアは議員や警察と同じく車業界との繋がりが強くCMでもあり、車の代わりに法規制を強めて自転車から金を取ろうとする警察に媚び、なりふり構わず自転車叩きに躍起。
そんな最中の事故をCHANCEと捉えた当時のメディアは、片っ端から近隣住民にインタビューをしていて、あのアパートにも来たらしい。
けれど近隣住民が口にしたのは利権メディアが欲しがる話とは真逆で、事故を起こした子供の自転車よりも、アパートに住む大学生が取得したばかりの車の運転への不安、湖を見に来る車の暴走や禁止されてる夜釣りの路駐を問題視。
自転車を叩くに有用なインタビューを得られずに居た中、このおばさんが虚偽証言をした事で自転車の子供が悪いと報じられ、法定でも不利が生じてしまった。
その後の事はメディアで報じられてないから殆どの人は知らないと思う、僕も校内で耳にした噂程度で、多分同じ習い事に通ってた子から漏れた情報だと思うけど……
エミリさん一家は、報道を観た同級生や近隣住民から白い目で見られ、一家は見知らぬ人々からの誹謗中傷や罵詈雑言の集中砲火を浴び、身に危険を感じる嫌がらせまでを受けるようになり、それを苦にエミリさんは失踪したらしい。
そこまでは僕も校内の噂で聞いていたけど、大学生が刑事の聴取で聞いた話の中では、エミリさんは湖で自殺した可能性が高いとの見立てに捜査していたと言う。
「遺体で発見されたのが四日前で、聴かれたのはその翌日……」
姉が溢した思考の欠片を読み解けば、貯水湖に浮かんだ複数の子供の遺体、その一体が直ぐにエミリさんと断定されたって事になる。
何を考えているのかは判らないけど、姉は推測にも思考を止めようとはしない。
けど、エミリさんを死に追いやったのは、おばさんの嘘が要因って事は確かだ。
こんなの謝って済む話じゃない。
けど、これはおばさん一人の問題でもない。
自転車叩きを過剰に煽ろうとする考えから、嘘と知ってて流したメディアの責任の方が問題に思える。
そう、満足気に語っていたあの芸人も含めて。
それに、エミリさんの失踪の件を報じなかったのは、虚偽報道や報道姿勢を責められる可能性に都合が悪いと考え、ネットでマスゴミと云われている通り“報道しない自由”を選択したって話だ。
ネットで調べても、報道が無ければ警察しか知り得ないエミリさんの自殺が記載される筈もない。
けど警察から直接聴いた大学生の話で、姉は解けずにいた何かを繋ぎ合わせ、同時に別の事件の匂いを嗅ぎ付けていた。
「なら、他の子については判ってないって事か……」
コピーした地図を丸め棒のようにして持ち、何のリズムか肩を叩いて上を向く姉の思考を待つ僕と大学生。
一瞬、リズムがズレたのか止まったのか、姉が横か背後かに妙な警戒心を寄せた気がする。
けど、待つ間にもおばさんは謝り続け、謝罪の中には不穏な言葉が幾つか混じっていて、僕が大学生に問うように顔を向けるより先に、姉が問う。
「ブレーキが溶けるって何?」
僕が問おうとしたおばさんの発言『議員の息子だから』ではなく、『ブレーキが溶けるなんて知らなかったのよ……』の方に対して大学生に問う姉。
すると突然、おばさんがすくっと立ち上がり、姉や大学生の心配する声にも応える事なく歩き出し『ごめんなさい』を連呼したまま交差点を渡り向こうの脇道へと去って行く。
引き留めるのも可笑しく思えて、呆気に取られつつも先の問いに応える大学生。
「いや、二三年この丘に住んでる二輪乗りなら判る話で、陽当たりが良過ぎて車体やシートだけじゃなく、気温が高い日なんかはブレーキとかタイヤのゴムも太陽熱で急激に劣化しちまうんだよ」
大学生が続けるディスクブレーキの話は解らないけど、自転車もバイクもブレーキが熱で止まれなくなるのは、タイヤが溶けちゃいそうな気がしてたから何となく理解は出来る。
けどそれなら、エミリさんの自転車は整備不良と言うよりも、不慮の事故って事じゃないの?
そう考える僕の思考より先を行く姉は、それを踏まえておばさんの『議員の息子だから』を聴いていたようだ。
「ひょっとして、事故の相手は議員の息子?」
姉の問いに肯く大学生は、応えに続ける。
「この辺に住んでる人はみんな知ってるよ。だからだんまりを続けて、車が問題って言うにも、敢えて俺等アパートの学生を引き合いにしたんだと思う……」
そう言って大学生が見詰める先の塀には選挙ポスターが貼られていて、僕達が振り向きそれに気付くと話を続けた。
「親が議員で伯父は副署長、当の息子は何だかよく判らん店の経営者とか言って威張ってるけど、後ろにドス黒い団体が居るの丸わかりで、あんなの誰も近付かねえって」
応えには凡その見当を付けていたのか、だろう顔を浮かべて姉が問う。
「さっきの車もその系統?」
「多分……」
解らない顔をしていた僕に、姉と大学生が言葉を変えて解説するのがくすぐったいけど、何となくに理解は出来た。
ドス黒い団体と関わる息子の起こした事故に、親は権力で優秀な弁護士をつけて利権に繋げようとしたって話だ。
警察も法定も権力とドス黒い団体の靴を舐めて正しい判断をせず地に落ちて、メディアを使い一人の子供を自殺に追いやって尚も正義の面を被り続けてる。
「最低……」
思わず漏れた僕の台詞に、笑う姉と大学生。
何だか一人子供扱いされているのが悔しくもある、けど僕より少し大人の事情を理解する姉と大学生が、大人になって早くそんな大人の事情を壊して欲しいとも思う。
けど二人に期待してしまうからこそ、僕は子供なんだなと自認させられてしまう。
地図に印を書き込んでもらうと、姉は声量を下げて大学生に警告する。
「今日は友人の家か何処かに泊まって自分の部屋には帰らないで下さい」
え? と言いた気な顔をする大学生に、更に小声で忠告する姉。
「見ないで下さいね。議員の関係かおばさんの関係か判らないけど、向こうの脇道の電柱の陰に、こっちを覗いてる人影が視えたんで……」
姉の言う人影が本当に人かどうかも判らないけど、僕は丘上からこの交差点に吹き下ろされる生温い風に、さっきの林と同じ嫌なモノが渦巻いてるように感じていた。
それが怨念のようなモノかは判らないけど、その生温い風に触れると憎悪に苛つきを増すような感覚に襲われる。
風が纏わりつくように身体の中を駆け巡る憎悪は、向ける先が無いと何だか気持ち悪くなって来るようで、ストレスが溜まる感じに近い。
ふと、この坂道には丘上から吹く風しかない事を肌感覚で今更に気付く。
だから自転車で下っていても殆ど風を感じなかったと解れば、やはりこの風には、あの林の獣道から吹く嫌な何かが混じっていると理解した。
早くこの場から離れたい。
そんな気持ちが僕の顔に不安として表れていたのか、姉は会話を切ると大学生に感謝を告げて振り返り、僕の背中を押して自転車へと向かう。
交差点を渡る最中に、例の電柱で動く物陰を見た気もするけど、姉の押す角度がソレを視る事を許さない。
「とりあえず、コンビニで涼も!」
自転車に跨り下るにも、安全確認に左右確認を必要とする。
それを知ってか姉は地図のコピーをバッグに入れると、原付を取りに下る大学生に声を掛け、敢えて下る事をソレに知らせた。
「ありがとうございました! お兄さんもお気を付けて!」
一応に見た左方の道には、おばさんの姿もなく、誰かが居たようには思えない。
「暑いから熱中症に気を付けろよ!」
大学生の声にも『はーい、アイス食べて来ま〜す!』と姉は妙に明るく応えてその場を離れる。
やはり風を感じる事の無い下り坂、纏わりつくソレが放れた気がしたのは、道沿いに家もなく段丘の茶畑が広がる脇道の無い緩いカーブに入った辺り。
少し風を感じる速度になってソレが消えた感じがしたけど、直ぐにブレーキ、坂道の終わりにT字路が現れ、下り切った事を判らせる。
その道を左折し、信号を幾つか過ぎた辺りにスーパーの看板を見付けて飛び込んだ。
姉と二人イート・イン・スペースの蛇口で腕まで洗い、汗ふきシートで顔や首やを拭ってようやく店内の涼が感じられた。
店内でアイスとジュースを買ってイート・イン・スペースで身体の芯まで涼を行き渡らせると、心にも余裕が生まれたのか、姉と話しながら窓の外を眺めていた。
「え、何で石黒さんが……」
向かいのバス停から歩き左方へ向かうスラッとしたモデル体型の女子の姿に、直ぐに石黒さんと判るも、何故にここに居るのか理解が及ばず目で追っていた。
「同じ習い事に通ってた子とか?」
姉の一言に目が醒めた。
だって図書館での話を進めたら、同じ習い事してた石黒さんにとっては辛いものになってしまう。
赤星君と青田君が宿題を済ませる前に、姉と僕でこの事件を解決しないとだ!