「POOL」〜渇水〜
▼プール閉鎖から三日目の午後。
残り少ないスプレーボトルの水を姉とかけ合い、自転車に跨りブレーキを離して暫しの涼風を味わう下り坂。
とは言え、交差する脇道があれば一応にブレーキをかけて半減する涼に加え、南方に向く丘斜面は陽当たりの良さにアスファルトの上は輻射熱で揺らぐ陽炎や逃げ水までもが現れる。
止まればタイヤが溶けちゃいそうな気はしてたけど、まさかブレーキも暑さに溶けて効かなくなるとは思わなかった。
勿論それは、僕のでも姉のでもない。
――DONGDUNKDONGDUNK――
坂道を下るも生温い空気は風とすら感じず、交差部が近付くにつれ妙に響く低音が聴こえて来る。
その不快な音が車からの音漏れと判った姉と僕は、ダルさを堪え交差点手前で止まっていた。
すると、左の狭い脇道から飛び出して来た車のドライバーは、通り過ぎ際に姉と僕を見て何を焦ったのか、交差点のド真ん中で突然鳴り響くクラクション。
――PAAAAAAA――
ブレーキを踏むより先にクラクションを鳴らす手癖の悪さが、ドライバーの性質の悪さを判らせる。
――BUZUZUZUGAKKONN!――
急ブレーキにドラマで聴くような音はしない、急ブレーキも制御されて車はしっかり止まる、反動にズレたトランク内の荷物が壁に当たる音がするだけだ。
自転車がwwwを云うテレビや警察が『車は急に止まれない』と子供に教えるアレも、元レーサーがネット動画で話してた。
「今の車は自動制御されてるんで、適正速度で走っていればブレーキを踏んだら普通に止まります。むしろ止まれないなら法定速度自体に問題が有るか、ドライバーの適正に問題が有るかですよ」
て動画を観てから数日後、交通安全教室で学校に訪れた警察の人達は『車は急に止まれない』をやっぱり言ってて、その後のスタントマンがやる事故再現を観てたら家野君が。
「これ、アメリカとかヨーロッパでやったら子供を恐怖で煽る洗脳行為として訴えられるダメなやつなんだって」
と、テレビで交通安全のスタントを観た国際弁護士資格を持つ家野君のお父さんが、お母さんに溢した話を聞いていたらしい。
――DONGDUNKDONGDUNK――
走馬灯じゃないけど、急ブレーキを踏んで尚も交差点に尻を残して止まる車の無意味さと性質の悪さに記憶が巡り、このドライバーに運転適正が無い事だけは理解した。
――WIIIIINN――
自分が悪いのを誤魔化そうとしてか、慌てて音量を下げて窓を開けると、僕達に向けて罵声を浴びせるドライバー。
「あぶねーだろっ! 止まっとけやこのクソガキが! こんな所でチャリなんか乗ってんじゃねえぞオラッ!」
オラつく三十代後半程の男が怒鳴る声にも、呼応する者が現れる。
右の脇道で車の隣りに立っていたおばさんは、新聞テレビの自転車叩きに感化されているのか、恰も論を姉と僕に重ね説く。
「自転車で坂道を飛ばして事故になったら頭打って死んじゃうんだから、相手が怪我したら凄い高いお金も必要になるけどあなた達払えるの?」
姉と僕の話も聴かずに決め付けで悪者に仕立て上げ、善良な市民を着飾り親切の押売りに恰もな正義を語るおばさん。
これが冤罪事件を創り出す要因なんだろうな。と、子供ながらに社会の縮図を理解させられる。
いや、薄ら笑いを浮かべて悦に入るドライバーの顔を見れば、おばさんが冤罪の創作に加担しているのは一目瞭然なんだけど……
そんな中、おばさんの話に異を唱え目撃証言を告げてくれたのは、前方から原付を唸らせ登って来ていた大学生。
交差点に尻を残して停まる車を不審に思い、交差点手前で停まりエンジンを切って話を聴いていたらしい。
「あの自分、目の前で見てたんすけど、その子達手前で止まってましたよ。てか、運転手さん酒臭くね?」
「ああっ! なんだテメ殺んのかこの野郎!」
明らかに挙動が可笑しく薄っすら赤い顔が物語るそれを見て尚、おばさんは自身の発言に正義を見ていたのか、揺るがない正義を貫こうと目撃証言すらをも叩き始める。
「二輪同士で仲良くしたってダメよ。私あっちから、この車の運転手さんがこの子達を見て物凄く驚いて急ブレーキ踏んだのチャント見てるんだからね!」
見ていたなら判る筈の話に思えるけど、何故か恰も正しいかに思わせるような話しぶりはややこしく、大人の狡賢さに頭が混乱して来る。
けれどヘルメットを脇に抱えた大学生は、おばさんの視線から僕達を遮るように立ち即答する。
「道路交通法令を知ってます? この交差点、自分とこの子達が居た道路が優先で、車側の道には一時停止の義務が課せられてるんすけど、そこに止まれって書いてあるの見えません?」
――BWOOONN!!――
おばさんが大学生の後方にある脇道を覗き見ると同時に車が勢いよく走り去り、それまで車で隠されていた停止線と止まれの表示が姿を現す。
子供を叱る大人がよく言う『都合が悪いとすぐ逃げる』でも、国会中継やワイドショーを観ても僕には内容は分からないけど、テレビに出てる大人なんかそんな大人ばっかりじゃん!
『正義を振りかざす大人のそれは、自身の不満をぶつける為の言い分けなの。だからそう言う大人に遭った時は相手にしないで放っておくの!』
そう言って笑う習字の三上先生の顔を思い出し、相手にするのもアホらしくなった僕は凍ったジュースを求めて行こうとした。
でも姉は、ヘルメットを被ろうとする大学生にお礼を言うと、自転車を停めて僕に見張らせ、大学生に近付き話し始める。
妙に姉の背中が嬉しそうで、最初は誤解を解いてくれた事への感謝かと思っていたけど、どうにも違う何かがあるように思えて、ふと気付く。
「あっ!」
原付で丘上へ向かう大学生は、あのアパートに住んでいる可能性が高い。
部活で夏休み中もあのアパートに居る大学生なら、警察の聴き込み捜査とかで事件の概要や遺体発見現場を聞いてるかもしれない。
そっちの目撃証言も得られる可能性に、姉の浮かれる背中に期待を見ていた。
もう坂道は登りたくない、と……
「あ、少し待っててもらえますか……」
姉が走って駆け戻る姿に、台詞の続きが『弟も一緒に連れて行くから』とかだったらどうしよう。
成果を期待するより不安が過る。
凍ったジュースも遠退くようで、喉の渇きが心までもを乾かして行く。
遠い目をする僕を心配してか、前かごのバッグを漁りながら姉が告げた一言に、僕の心は希望に湧いた。
「地図に印付けてもらうから、もう少しだけ待ってて!」
天にも昇る気持ちで下れる事に歓喜したのも束の間、生気を取り戻した僕の目に飛び込んで来たのは形相を違えるおばさんの顔。
怨めしさに怒りを込めた鋭い眼光で、姉を待つ大学生の背後に忍び寄る。
「え?」
理解が及ばず立ちすくむ僕を嘲笑うかに、おばさんはチラリと見た僕の顔から不安を読み取り狂気を増した。
あと数歩、姉に言ってどうにかなるかも判らないけど、どうにかしたい気持ちが先走って声が出ない。
僕は思わず首から下げてる白い絹製の袋を握りしめると、それまで静かだった住宅街に蝉の羽音が迫り来る。
――GIRI――
――GIRIGARI――
――GIRIGARIGIRI――
――GIRIGARIGIRI――
――GIRIGARIGIRI――
――GIRIGARIGIRI――
何処からともなく集まり来る蝉の襲来に、空の一部が覆い尽くされ陽を隠して陰となり、耳を塞ぎたくなる程の大きな羽音が外界を遮断する。
陽だまりの丘で僕達を囲む異様な陰は、おばさんの狂気すらをも圧倒し留まらせていた。
――GIRIGARIGIRI――
皆が空の異常に見上げる中、いつから姉は気付いていたのか、僕の肩をポンとして抱き寄せ、蝉の動向を見守る他にないと見てか、その様子を窺っている。
――GIRIGARIGIRI――
おばさんの周囲を飛び交う蝉の中に、あの玉虫色の蝉を見付けた僕は、姉に指で伝えて注視する。
――GIRIGARIGIRI――
大量の蝉を手で払うおばさんの頭に停まると髪の毛で見えなくなり、直後にビクッとする動きを見せたおばさんは生気を失い座り込む。
――GIRIGARIGIRI――
すると、一斉に大量の蝉がおばさんの身体を覆い尽くすように纏わりつく。
「悟、その袋から手を離して!」
耳元で叫ぶ姉、意図は分からないけど僕が袋から手を離すと、蝉もおばさんから離れ飛び去り散り散りになり、先と変わらぬ茹だる暑さの晴れ間が戻った。
「姉ちゃん、これ……」
まさかの事実に気付かされ、知った今に後悔し始める僕の思考を読み取ったのか、姉は息が出来ないくらいに僕を抱き締め優しく諭す。
「大丈夫、悟は間違った事はしてない。アレ、コレは人知を超えてる。水神様もコレが何かまでは知らないの。けど、悟を守る為に動いているのは間違いない!」
「だけど……」
水神様も知らない何かが人を喰らい、魂を捕らえている事実は変わらない。
しかも前回は離した後も悪い事をした者とはいえ、アレは魂を喰らい続けていたのは間違いなく、水神様もその身となる池に魂を受け入れ地獄の底へと墜としていた。
「ほら見て、あのおばさんはまだ生きてる。悪い何かが抜けて魂が浄化されてるのが私には判る! 多分アレは悪いモノしか襲わない」
魂の浄化が見えたと姉が言うなら本当なんだと思う。確かにこれまで僕の目の前で喰われた者達は皆、反省の顔なんて一つとして浮かべてもいなかった。
けど、顔を上げた僕に見えるおばさんは泣きじゃくって何かを謝り叫んでいて、反省に打ち拉がれている事だけは判る。
「悟、悪いモノなら三上先生が取り払ってる!」
ふと、何一つとして状況を理解出来ない大学生が、蝉から解放されて尚も叫び謝るおばさんを何も考えず介抱する姿にハッとした。
例えコレが悪い事をするとしても、それを止めるのは僕の役目だ!
幸いおばさんは生きてるし、浄化されて謝る何かに耳を貸す方が、コレを持つ僕には重要に思える。
「うん、分かった。先生を信じる!」
姉は再び息が出来ないくらいに僕を抱き締めると、今度は直ぐに放して不満そうな顔を浮かべた。
「お姉ちゃんの事は信じてないわけ?」
いや、そう言う意味じゃないのは分かってるくせに、ここぞとばかりに圧をかけて来るのが姉のイタい処だ。
大っぴらに溜め息を吐いた僕の様子を、正気を取り戻した証拠と見てか、姉は意地悪に笑うと自転車を二台とも端に寄せ駐め、僕を連れて話を訊こうと大学生とおばさんの方へ向かった。