「POOL」〜湖水〜
ネット記事を参照しながら概要をまとめた姉は、この件を紐解く上で最初に調査の必要を求めたのが、市の北西に位置し少し高台にある貯水湖の遺体発見現場だ。
探偵っぽさを強調する言い回しをしたけど、単に僕は姉のライフワークに毎度のように巻き込まれるので、連れ回されるのを覚悟して、ベッドの横で何かを調べ準備する姉の物音を聞きながら眠っていただけ。
▼プール閉鎖から三日目の朝。
両親が仕事へ出かけると、姉は水筒やら何やら詰め込んだバッグを前かごに入れ、僕を連れて自転車に乗り休み休み一時間程を漕ぎ、最後の急坂を押して歩いて到着したのが十時半。
一周十キロにも満たない小さな人造のダム湖で、湖東に在る堰の上は歩いて渡れるようになっていた。
ここまで来て言うのもなんだけど、警察が報道規制までして隠すそれを、姉がどうして見付けられると思うのか。
自転車を降りた姉は堰から湖面を眺め、水筒の氷を一つ口に入れては惜しみながらに喰み終えると、一息吐いて周囲を見渡す。
「居た。先ずは!」
そう言ってウォーキングするお爺さんに声を掛けに行く姉。
「おはようございます。ここって弟と二人で一緒に遊べるような所ってありますか?」
何の質問なのか意図が解らずキョトンとする僕を尻目に、姉はお爺さんの話に耳を傾け、よく分からない史跡が有るとか無いとか聞いてフンフン肯き、納得した顔を見せた直後に本題を訊ねる。
「へえ、それ後で行ってみますね。そう言えば、この湖で殺人事件が起きたって本当なんですか?」
そう言えばも何も、それを目的に来ておいてよくも言えたものだなと、警戒心を解こうとする悪い大人のやり口を真似してか、姉の問いに素直に応え始めたお爺さんの姿は、騙され易い老人のそれを理解させられる。
「お嬢ちゃん達も気を付けなよ。どうやら上がった遺体は子供みたいだし、あっちで湖畔に入れる道が作られてたとかで、ここの湖は人が入れるようには出来てないから二人共、絶対水辺には近付くな!」
「はーい。」
いや、お爺さんこそ悪い人に騙されないでよね。
とは言え、あっという間に凡その答えを手に入れた姉には敬服する以外ない。
お爺さんがあっちと指した湖の西南には、丘に建つ家々を繋ぐ道が幾つかあり、その中のどれかに湖畔への入口と道が作られたと判る。
けれど遺体が子供と判れば、姉や僕が訊いても教えてくれる筈がない、ある程度の場所が知れただけでも儲け物だ。
道も入口も誰が作ったのか知らないけど、作為的に子供を誘い入れた結果なのか、それとも他の用途に作った事で子供が容易に入れてしまい、その結果に水辺で命を落としたか。
どのみち行ってみなければ姉の気が済まないだろう事は目に見えているから、行くのは確定と諦めて尚、僕が不安に感じているのは高台へ続く坂道を何本登る事になるのかだ。
自転車をここに置いて歩いて行こうと提案したけど、姉曰く。
「堰に置かれた自転車なんて、それこそ自殺したみたいに思われるじゃん!」
と、却下され、諦めに乗り込む自転車を何度となく降りては押して歩いて登り、突き当たる度にひとときの涼風を味わい、横道を見付けては惜しくもブレーキをかけてまた降りる。
飽きる事なく瞳を煌めかせて前を行く姉に付き合うも、十数回と繰り返せば汗が出切ったのか慣れたのか、喉の渇きに飲む水も底をつく。
この道の最高位に建つ家はアパートで、その先に延びる道を二つ斜めに曲がると突き当たり、金網フェンスが現れる。
フェンスの奥には湖を囲む植林帯があるが、フェンス手前の雑木林は一つ斜めに曲がるまで南天の陽射しを遮り木陰の道を作り出していた。
「ちょ、休ませて!」
僕は突き当たりに自転車を駐めて座り込み、姉の持つ水筒の氷一つとラムネで口から涼を飲みつつ、スプレーボトルで水を掛けては百均の手回し扇風機で顔や身体に風を当てる。
「一回下まで降りて、凍ったジュース買おっか……」
姉の声にも覇気がなく、湖が近いからか湿度の高さに汗も乾かず、木陰で休んでいても夏の気温が体力を奪い続ける。
暫くして立ち上がろうとするも力無く、這ってフェンスの金網を掴んだ僕は、次の瞬間にはよろけて転んでいた。
「悟、平気?」
何が起きたか解らず呆ける僕を心配する姉だったが、僕が返事をするより先に、何かを見付けた姉は大きな声を上げて指さし、何が起きたかまでを僕に知らせた。
「あああああああぁぁぁった……」
僕が掴んだフェンスの金網はドアのように開いて外れて、その先に広がる林には、踏み固められ草木を分け入る三十センチ程の獣道。
よくよく見れば外れた金網フェンスの裏側には、ドラマとかで警察が貼る虎テープを紐代わりに草を纏めて留めてあり、外からの見た目には草が生い茂っているように思えて、そこに道が在るとは気付けない。
これを警察が仕組んだのかは判らないけど、単に入口を塞ぐだけならこんなにも手の込んだ隠し方をするより、フェンスは金網なんだから針金で留めるなり、南京錠でロックすれば済む話だ。
危険な上に本来は無い筈の道なら、態々隠すまでして開けて置く必要も無い。
つまりは、何かの用途にこの道を必要とする誰かが、今後も使おうと考えている。
この道は突き当たりに家は無く、二つ斜めに曲がった所の角より下に二階建てのアパートが建ち並び、車の回転場としての役割りにもならない狭い道。
一つ曲がるだけでも、それこそ何をするにも人の目に触れる事無く出来てしまう。
声を上げた所でこんな辺鄙なアパートに住むのは苦学生ばかりで、昼は学校、夜はバイトで殆ど居ない。
その証拠に、アパートのベランダには部活名や大学名が入った物が散乱していて、駐車場には誰も咎めないからこそに花火の痕跡まで残っていた。
見たもの一つ一つを整理していく姉の探偵まがいの話に肯くも、追いつくのがやっとな僕の頭は、何を知ろうとするのか整理しきれず混乱し始めている。
けど、それよりも気になる事が……
「入口を見付けたのに、姉ちゃんが入らないなんて珍しいね」
「これが開いてから、何かその辺りに凄い嫌なモノを感じるの」
入口付近のアスファルトをよく見ると、獣道からはみ出る草を伝っているのか濡れたような妙な滲みがあり、姉は睨むようにそれを見詰める。
首を傾げたかと思うと、姉は前かごのバッグから何やら取り出しセットし始めた。
それが何か知らない僕には、ヤバいSF映画に出て来る化学兵器のようにも思えて、妙な期待感に魅せられる。
「何それ、エモッ!」
姉曰く、父親の部屋で見つけたと言う古いデジカメに、小さな三脚みたいな物を使って自転車の荷台に固定するにも、カッチリ決まらない所が何かエモい。
モニターを見ながら写真の設定を弄り出し、入口に向け角度調整を終えるとボタンを押して少し離れ、十五秒程が経つと音が鳴った。
――KASYA!――
入口の写真を撮り終えた姉がモニターを確認する。と、唐突に僕を制して静かに林の方を覗き、滲む地面を睨みつける姉。
不意に入口の方から吹いて来る涼しい風は、僕にもそれが凶々しい何かと理解出来るほどで、凄まじい怒りや怨みに痛み苦しみを凝縮した情念みたいなモノが、感覚として襲い伝わって来る。
――ZASARAZASARA――
「ここは駄目……」
そう言って僕の手を引き後退りした姉は、デジカメをしまいつつ自転車に乗るよう僕に告げ、開いたフェンスを脇からそっと閉めると自転車に跨り、急ぎ二つ角を曲がった所まで走り陽射しを受けてブレーキをかけた。
自転車を降りた姉は、後方の道に出来た陰と陽の境界線を注視する。
「……ふむ。」
――ZASARAZASARA――
雑木林の枝葉が風に揺れ動けば葉陰も揺れるが、道の境界線上にある陰は別の何かに衝き動かされているように蠢いていて、風はなくとも蠢いているように視える。
「何かが足りない……のか?」
“それ”が探し求める何かは何か? と、姉が思考に溢す言葉の意図など分かりはしない。
だけど何かを求める“それ”に近付けば、喰われ蝕まれ兼ねないからこそ容易に近付く事は危険とだけは理解した。
「とりあえず、出て来られてもだし……」
そう言って姉は前かごのバッグから取り出したチョークで道に落書きを始めた。まるで幼稚園児が描くような太陽の絵と赤と白のチョークで変な線を……
「いや、それ何してんの?」
「一線を引いてんの。水引的な?」
真顔で応えられると返す言葉もない。けど、水引は魔除けの効果があるとか結界がどうとか習字の三上先生が言ってたような気もする……
「陰陽線とす!」
姉は例の元筆を振りかざして唱え終えると、今度はバッグから地図のコピーを取り出し、アパートの前で電柱の住所を確認して書き込み、印に赤線を引こうとする。
小さいとはいえ貯水湖、凡その目星を付けるも姉の持つコウリンMAPは家が少ないからか縮尺を違え、範囲は広く昨夜コピーしていたが二枚のみ。
視力が良くてもコピーされた印字の数字は見え難く、この暑さの中で目を近付けて集中するのは酷なのか、諦め早く凡そを赤丸で囲う姉。
「よし、氷食べ行こ!」
ようやく色んなモノから解放された気がして安堵の表情を浮かべた僕に、にこやかな顔で次に告げた姉の一言は、上向きかけた僕の気持ちを萎えさせる。
「涼んだら今度は遺体の発見現場を探さなきゃね!」
だけど暑さに呆けて混乱していた僕の頭は今の一言で整理され、入口を見付けて尚も納得出来なかった違和感が何かを理解した。
そお、僕と姉が見付けたのは入口と湖畔への道であり、あの場所は遺体発見現場では無いという事。
また登り下りを繰り返すと思うと、塩で縮こまるナメクジみたいに体力だけでなく気力までもが汗と共に漏れ出すようで、仰ぎ見ると南天より西へ傾く太陽が昼も過ぎた事を知らせていた。
「マジか……」