「余りある佳」
僕の姉はとても危うい。
中学生になっても華奢な身体に似合わず度胸は有って活発で、根性の座った真っ直ぐな瞳で迫り来る。
「ほら行くよ! 悟、早くしないと置いてくからね!?」
そう言って僕の腕を掴んで離さず、陽も陰り始めた夕刻に、住宅街の外れに公園として残る林の中の小径を、葉の擦れる風音に怯えながらも姉の歩調に合わせ少し小走りについて行く。
灯りを必要としないギリギリの明るさに、今ならまだ独りでも引き返せるが、姉を独りにするのはどっちの意味でも危険と知れる小四の夏休みも中盤お盆明けの日暮れ。
「姉ちゃん、やめようよ」
言った処で歩みは止まらず、弱気になった僕の嘆きは鬱蒼と生える影と化した木の葉の囀りに掻き消され、姉の好奇心は揺らぐ事なく林の奥に在る池の方へと突き進む。
姉が意気揚々と向かっているのは、噂に聞いた事のある謎が解けたから……
【水神様の祠】
地元でも知る者は少ないそれは、池の南北二箇所に在る小さな祠。
池の畔にポツンと置かれる十五㌢程の勾玉のような碧いマーブル模様が入った玉石を囲むように、同じサイズの花崗岩の丸石と角石と凸石を配してあるだけで、落ち葉が被れば見失う事もある程に質素な祠だ。
けれど地元の者しか入らないような保護樹林帯を公園とした林の奥深くに在る池の畔で、一応に神域と判るよう祠の前には鳥居を建ててもあった。
けれど、いつの頃にか紅い倒木と化したまま再建もされず、今では祠の位置も何となくの鳥居があった記憶から、辺り程度しか判らない。
池の東岸は丘斜面に鬱蒼と生えた笹が薄気味悪く、まるで何かが隠れ覗いているかのようで歩くも出来ず近寄れない。
明治の中頃、乳呑児を抱えた母子が丘上の道から池の中へと滑り落ち、溺れまいと岸へと向かうが池の中まで飛び出た笹の茎や葉が行く手を阻み、茎を掴むも沈むばかりで役には立たず、笹の葉に手や顔やを切られ池を血に染めて行く。
通りがかった村の者から声をかけられ北の岸へと来るよう言われ、必死で泳ぎ何とか岸へと上がり腕に抱いた乳呑児の様子を窺うと、そこに乳呑児の姿は無く、泥石を絡めた茎や葉を抱いていた。
周りを見渡し探すも見当たらず、まさかと振り返った水辺に浸る笹の隙間に茎の絡まる果てた我が子の足が見え、何かが笑うような風がそよぐと揺れる笹は足をも隠し、飲み込むように池の中へと沈んで行った。
との伝承に、乳飲池の由来が書かれた立札には、乳呑児を飲み込む池から今の名になったと書かれているが……
こんなの、怖すぎるだろ!
今まで古臭い昔の漢字がいっぱいあって読んでもいなかったけど、乳飲のイメージに水の色が乳白色っぽくもなる時期があるから、それでかと思っていたのに、こんな時に読むんじゃなかった……
「姉ちゃん何で今コレを読ましたのさ! ライト当てるから読んじゃったじゃん!」
「え、だって白い物に光を当てた方が反射して広範囲に光が拡散されるから、周囲の確認に良いかなあと思ったんだけど、何で今更そんなの読んでるの?」
くそ、ド天然がっ!
僕はどんだけ素直なんだよ!
「夜になるとココ、本当に見えないんだね」
「そんな百均ライトじゃ無理に決まってるじゃん」
尚、今僕の目はライトに照らされた立札を読んでいたせいで林の方はまるっきり見えない状態だ。姉がどれほどナメていたのか知らないが、上を見ても木々の葉が夜空を隠して月すら見えない。
今夜は満月が出ている筈だけど、ここは月明かりも届かない林の奥深く、姉は南の祠が在る方向を判っているのか歩みを始め、仕方なく僕は隣に付いて行く。
「ねえ、悟は三上先生が本当に自分の死期を悟っていたと思う?」
洒落で言ってる訳では無い。
ここに来たのもそれが理由で、三上先生が僕等に託した便りに書かれた池の祠に纏わる伝承の謎を解いたからだ。
三上先生は姉と僕が通っていた習字の先生で、何でも楽しそうに話を聞いてくれる優しい女の人、歳は両親よりも少し上なんだけど頭や心は若くて、何度か不思議な力を見せてくれた事がある。
自然と調和すると使えるとかで、手品かと思って見ていた記憶はあるけれど、今に思えば超常現象以外の何物でもない事を笑顔で平然としていた人だった。
姉の所に便箋が届いたのが五日前の午後、けれど姉と僕は翌朝から家族旅行で、その内容を読んでも焦るしか出来ず、帰宅後から必死に謎を解いて今に至る。
手紙には、自分はもう長くないから居なくなっても泣かないでね。先生が居なくなったら二人にして欲しい事があるの、祠の秘密を解く謎を二人に教えてあげるから、お願いね。と、解くべき謎が別の紙に書かれていた。
読んだ時は何の事だか意味が分からず、長くないの文字に入院してるならお見舞いに、との思いに焦っていただけだったのに、帰宅した夜その手紙が最期の便りだったと知る事になり、姉と僕はその謎解きに全力を尽くそうと躍起になっていた。
虫の知らせ処か本人から直接届いた便りに、頼られたお願いに部屋に籠もって全力で向き合っていた中、海で焼けた肌がヒリヒリと痛み出し、姉のローションを塗り合いながら謎を解く。
「ギョクセキコンゴウ?」
「そう、玉石混交。宝石もそこらの石と混ぜたら見分け難くなる事を例える四字熟語」
「でもそれ、色で判るんじゃないの?」
「原石とか化石とか翡翠とか、どれがどれだか悟に判る? 判るなら翡翠海岸に連れてってあげるから、私に翡翠いっぱい採って来てよ!」
素朴な疑問にも凄みを利かす姉の眼は、僕に黙れと言っているようにしか思えない。けど……
「ごめん、ヒスイって何?」
姉は何も言わずにパソコンを起ち上げた。
謎とは、南北二箇所の祠に置かれる五十個の石を組み替え、神と人、あの世とこの世の境界線をも曖昧にしてしまうというもので、満月の夜に南北二つの祠の石を組み替え、境界の中に足を踏み入れたらこれを唱える。
「御開帳願います」
役所の人や所管する神職の人ですら正しい並びを判っていないらしく、更には遊びに来た人や犬の散歩やと色んな人が踏んだりした際に適当に並べて帰って行くものだから、枠の中でバラバラに置かれている。
当然のように祠の石並べを元にしたオカルト的な噂は後を絶たず、噂の内容も年代により様々で、UFOを呼ぶと聞いた姉と僕は何度か挑戦した事もある。
けれど先生の手紙に図解された祠の石の絵によると、本来は以下↓のように置かれていたらしい。
北の祠 南の祠
回■回■回 回●回●回
■●●●■ ●■■■●
回●◎●回 回■◎■回
■●●●■ ●■■■●
回■回■回 回●回●回
これを組み替えて境界線を曖昧にしたら中に入れるんだけど、組み替えるのに必要な、先生が教えてくれた祠の秘密を解く謎っていうのがコレで、図解の下に書かれた礼節みたいな言葉が何を意味するのか……
【覚悟を持って丸く納めて縁を広げれば末広がりに幸福を呼ぶ】
姉が画用紙にコンパスと定規で器用に書いた二十五個の石型を、画用紙を二枚重ねてカッターで切り取った五十枚を二人で南北として分け、パズルのように並べ替えては互いの意見を出し合った。
そう実は、二つの祠の石は並びが違うだけで形と数が全部同じだと判り、姉はその数に秘密の言葉の解釈にも気が付いた。
中心に置かれる勾玉みたいなマーブル模様の石以外、角石も丸石(円柱)も凸石(上から見ると回)も全てが八個で、八は末広がりの意を持つ事に!
他の言葉も石に例えて変換すると【角を持って丸く収めて円を広げれば八個の石……】となる。
円を広げるの意には文字通り、縁である縁に置かれた凸(回)石でないと意に添えない。
縁の円を円柱として捉え、丸(●)石を広げてしまえば間違いが起こる気がする。多分これは元の石の図解を持たない者が、この秘密の言葉を盗み見るなり聞くなりした者が並べ替える事を防ぐ罠にも思える。
言葉に沿って縁(円)を広げるの意に伴い、縁に置かれた凸(回)石をそのまま外へと広げ、角(■)を持って丸(●)く収めるとなれば、変換させるのは■石と●石だ。
残る【幸福を呼ぶ】はそのまま、口で福を呼ぶという意味だろう。
詰まりは↓こうする!
北の祠 南の祠
回■●回●■回 回●■回■●回
■ ■ ● ●
● ● ■ ■
回 ◎ 回 回 ◎ 回
● ● ■ ■
■ ■ ● ●
回■●回●■回 回●■回■●回
「姉ちゃん、本当にこれで良いのかなあ?」
「後はもう、踏み入ってみるしかないじゃん!」
先生の手紙には満月の夜に北の祠から入る事って書いてあったから、先に南の祠でこの形に置いて来たけど、この北の祠へ入るのは姉で僕は姉が戻って来るまでここを死守する役目だ。
もしもの時にと便箋には護符も入っていたけど、南の祠の周りを囲むように結んだ麻紐に括り付けて来た。
で、何だか神社でよく見る折られた紙の紐みたいな作り方も書いてあって、使い古した習字の筆先を落として洗ってから結んで使いなさい。と、その通りに作って持って来たのをリュックから取り出す。
満月の夜に姉と二人で外に出られた理由が、三上先生の葬儀に両親が出席しているからとは皮肉にも感じるけれど、何故だか今も三上先生が隣で見守って居るようにも感じてならない。
準備が整い、姉ちゃんから預かったライトで周囲の林を照らしていると、急に池の水面が輝きを放ち、雲が晴れたか夜空に満月が現れた。
「じゃ、行くね!」
僕を抱きしめた姉は少し震えているようだったけど、体を離すと何の覚悟か息を吐き出し笑顔になり、足を踏み入れ大きな声でアレを唱えた。
「御開帳願います!」
一瞬だ。
唱えたと同時に光に包まれた姉は、閉じた光の中へと吸い込まれるようにして服を残して消えてしまった。
「うそ、間違ってた?」
光と消えた姉に焦りが止まらず、これが正解なのか間違いなのかも判らず残された服を見ては不安ばかりが押し寄せる。
とはいえ、姉が戻って来るまでここを死守する役目に、姉の服を拾い集め周りを見ては祠の石を確認する。
どれほどの時間が経ったのかも判らずリュックから時計を探して見たが、姉が消えた時刻が判らないのだから経った時間も判らない事に見てから気付く。
時計は夜の八時二十分、暫くして満月が陰り出すと、強く吹いた風が水面を揺らして波を生み、ピチャピチャと音を立てて騒ぎ始めた。
池の畔とはいえ夏の暑さがまだ残り、羽虫や蚊も舞う闇夜の林の奥深く、汗が滲み濡れた服を覆い尽くして這うような身体に纏わりつく物凄く嫌な空気が背後に迫り来るのを感じて足が竦むが、姉はまだ戻らない。
あの光と共に三上先生の気配も感じられなくなったが、ここを死守する為にと勇気を振り絞り、作ったアレを体を回して背後に向け振り翳す。
「鬼は外ーっ!」
何か違うとは分かってる。
そもそも外で外へ行けと言っているのだから無意味にも程がある。けれどそれしか浮かばなかったんだから仕方がない。
けど、僕が立っていたのは神域の中だった。
何でか風も治まり、静まり返る池の水面に満月の明かりが戻って来ると、池の対岸にポワっと仄かに光が灯った気がした数秒後。
「悟ー! 早く戻して服持って来てーっ!!」
と、僕に叫ぶ姉の声が聴こえ、了解を叫んで返し、ライトで照らす石を急ぎ元の位置に並べ替える。
「今行くねー!」
乏しい灯りで何とか南の祠に辿り着くと、裸の姉がそこに居た。
「遅い! 誰かに見られたらどうすんのよ!」
いや、そうなんだろうけど……
何だか姉の周囲に光が纏っているようにも見えるんだけど、姉は光の中で水神様と友達になったと言っていた。
そして、水神様に仕える役目を姉が託され、その前任者こそが三上先生だったらしく、光の中で先生と話してさよならをして来たと言う。
で、その仕える役目とは、この池を綺麗なままに守り続ける事と、町に這い出る悪鬼を封じる事だと聞かされた。
それからの姉は、元から一部の人達には神格化されていたけど、今は何だか……
肩甲骨まで真っ直ぐに伸びる黒く艷やかな髪が表すように、姉は佳余という名の通りに美と優しさを持て余し、心根までもを美しくあろうかとする勢いだ。
他の者の悪気を知れば真っ直ぐに向き合う瞳で優しく包み、悪気に染まるその心根深くまでもを浄化してしまう。
清廉潔白という言葉は姉の為に造られた言葉にすら思えて来る。
何故かと考えるまでもなく、姉は白い服が大好きで、夏も冬も全身白コーデだからだろう。
けれど何処か世間とかけ離れて見える輝かしい程の純白さは、一見すると白装束にも思えて遠くに行ってしまいそうな儚さもあり、地に足が着いてないというより羽でも生えているかのように浮いている。
馬鹿正直に突き進む性格は時に危うく、コンビニの前で屯するヤンキーを怖れるお婆さんを見付けた姉は直ぐ様近付き声をかける。
「買い物するんでしょ? 私と一緒に行こ! 悟はココに居て、もしもの時は解るよね!」
お婆さんが大丈夫大丈夫と帰ろうとする腕を掴んだ姉は、屯するヤンキーの方へと向かって歩み出す。
僕には、お婆さんが悪の巣窟に引摺り込まれて行くようにしか見えないが、屯するヤンキーの数人が姉に気付き睨みを向けたは一瞬で、何を見たのか皆ビクッとして目を逸らし、何も言わず起こらず入店した。
老人故に手間取ったのか数分後、姉とお婆さんが出て来る頃には出入り口から離れた所に屯していたヤンキーは、姉を見るも嫌がり逆を向く。
コンビニの防犯カメラに撮られただろう姉の顔、ヤンキーの睨みを姉がどう跳ね除けたのか確認したいと思った僕の思考を打ち砕くように、お婆さんの問いに姉は、ん? と首を傾げ笑みを向けるとバイバイし、今度は僕の腕を掴んで歩き出す。
「姉ちゃん、カメラの映像消したってどゆ事?」
「何が?」
お婆さんと同じ質問をしたのに何がと問われ、次の言葉を発しようとする僕だったが、姉の余りにも清々しい笑みの向こうに怖さを覚えて押し黙り、何でも無いと伝える事にした。
防犯カメラの映像を消すのに神の御業をコンビニ店員さんに使った事だけは判ったけど、カメラに映っていただろうヤンキーの睨みを跳ね除けた姉の顔は、恐らく……
けれど、僕の前で見せる悪戯な笑みは、何時だって僕を恐怖のどん底に陥れる。
還り咲いた悪戯な天使は白装束の姉だった。