前日談9 乱暴な事言っちゃえばホルモンの一種
手術の最中に私達は院内食堂で昼食を取り、その後は個室のあるフロアのフロアロビーで終わるのを待つ事となった。両者共にほとんど会話も無く、私は携帯のメールやWeChatで仕事関連のやり取りを行いながらほとんど無言でやきもきする時間を待ち続けた。
テレビでは世界中の観光地で人がいなくなった事、病院の入院ベット数が足りない事、医療体制がひっ迫している事、マスクや消毒液が転売ヤーの商材になっている事等が流されていた。
携帯でスポーツ関連のニュースを見ようにも、世界中のあらゆる競技共に開催中止や延期になっていて日本のプロ野球やMLB、海外リーグも含めたサッカー等の結果で一喜一憂する事すらも出来なくなってしまった。
空はピーカン、皆どこかに出かけたくなる様な梅雨前の一番良い季節なのに、世界は閉ざされ世の人達は口を噤み私達は肉親の生き死ににやきもきしている。
ま、しゃーねーかこんな世の中だし、と心の中でこの日何度目かの諦観をつぶやく。
つぶやく事で、胸の奥に溜まってるモヤモヤを無理やり飲み込んでいく日々が、まるでワインの澱の様に蓄積していくのが自分でも判った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
当初話があった予定終了時刻を過ぎてようやく手術が終わり、手術室からベットで自分の個室に移動された父にはドレーンチューブや色々な管がついていて正に「たった今手術室から帰って来ました」といった状況そのもので、先生の「手術は成功しましたよ」というセリフもそのまんま受け入れて良いのか判断を躊躇してしまう程だった。
「頑張ったねぇ。パパ、ホントに頑張ったねぇ」
そう言いながら父の頭を撫でる母の声は震えていた。
良い年をしたシワがここ数年更に目立ってきた顔にもっと深いシワを刻みながら涙声で愛おしく慈しみながら父の髪の無い頭を何度も何度も撫でる母のその姿は、長年連れ添った夫婦のひとつの形なのだろうなと漠然と感じた。
「ああ」
と父が反応したかの様に一瞬思えたのだが、正直声が出ていたのかすら判らず聞き取れなかった。
個室にベットごと戻り、テープでグルグル巻きにされた腕や指先から幾つかのケーブルが自己主張強く鎮座しているモニター付き血圧脈波検査装置に繋がっていた。
また間欠的に脚を圧迫する機器も取り付けられていて(フットポンプと呼ぶそうだ)それらの姿が観る者に物々しい印象を与えていた。
各種装置やケーブルをつなぐ作業をしている時に、先生から呼び出され、室外に出る。
「これが今回摘出した前立腺とリンパです」
部屋の外で先生から見せられた昔のフィルムケースを彷彿とさせる形状の透明な円筒形のプラケースに保存液と一緒に入れられてプカプカしているそれは、何だか鶏の砂肝を一回り太らせた様な大きさ形で、色合いなんかも肉屋で売ってるソレにそっくりだったので驚いた。
まあ確かに人間の臓器も乱暴な事言っちゃえばホルモンの一種ではあるのだから、似ていたって可笑しくもなんとも無い、とも言える。
私の場合、別にこう言うのを見たからと言ってもうホルモン焼きや焼き鳥が喰えないと言う訳では1ミリも無い。何故だかは判らないが、それはそれ、これはこれ、という区別を勝手に脳内で判断してくれるらしい。
ただこれがガン細胞に浸食された父の臓器で、過去に何度も行われた検査の数々や今回の手術の発端なのか、となると目の前の小さな臓器に対しある種の感慨の様なモノが湧いて来たのも事実だった。
今まで父の身体の中にあって75年もの間、黙々と働き続けて来た臓器でもあるし、ガン細胞に浸食され命の危機を招いてしまった臓器でもある。
「では今回の手術で摘出したこのこの臓器から細胞を抽出、検査することで他の部位への転移の有無とかを確認するんですね?」
私が先生に確認する。
「ええ、そうです。結果が判り次第報告出来ますよ」
「よろしくお願いします」
仮にこの検査でリンパの奥深くまでガンが進行していたら、ガンは他の部位に既に転移している、あるいは今後転移する可能性があるという事だそうだ。
こればかりは、私達にはそういったバッドシナリオが無い事を祈る事しか出来ない。
先生との会話も終わり、個室内に入る。
まだ、麻酔が抜け切っている訳では無いから、父の反応もぼーっとした感じだった。
ただ、後1~2時間もすれば麻酔も抜けるだろうから、そこからしばらくは手術後の痛み、術後痛が出て来るそうだ。
痛みが我慢出来ない時には痛み止めの追加処方もされるそうだが、現在点滴されている薬は終わってから次の投与まで最低2時間は空ける必要があるそうで、その間に痛みが我慢出来ない場合は看護師等に相談して下さいと説明を受けた。
ところが、看護師曰く痛みは個人差があるそうだから父の場合、術後痛がどれ位の痛みなのかは、何とも言えないのだそうだ。
要は、サイコロの出目次第と言った所なのか。
無論、痛みが我慢出来ないケースで看護師が医師と相談して、医師が判断をする事によって痛み止め投与の時間をもっと早める事も出来るし、場合によってはもっと強い効能が期待出来る薬の投薬も可能だそうだが、副作用等の面から通常においては推奨されていない様だ。
プシューッ・・・シュコーッ・・・シューッ・・・
定期的に膝から足首までの部位にガッチリと装着された下腿型カーフポンプの稼働する動作音が部屋に響く。
これを装着する事によって寝返りとかもやり難いだろうが、静脈血栓塞栓症の防止と言う意味で必要な装置らしい。
「・・・てぇ」
何か父が話そうとしていたので、顔の近くに頭を持って行き
「ん?どうかしたか?」
と聞き返す。
「なんが、いでぇ・・・」
父の顔が苦痛に歪んでいた。
いやいや、まだ投薬の点滴終わってすらいないんだが・・・幾ら何でも痛み出すの早すぎないか?
人生の要所要所で振らなきゃいけない賽の目がことごとく最悪の出目なのは私のキャラクターシートにガッチリ固定されたデフォルトスキルなのだろうか?
私は心の中で毒づきながら、ナースコールのボタンを押した。