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段取り編41 予定は狂うよ何時までも

 コロナ禍以降中止が続いていた地元で行われる隅田川花火大会が7月29日の土曜日、4年ぶりに再会され、約2万発もの花火が夜空を彩り、約100万人もの来場者が久方振りの花火を堪能し終えその余韻が終わる頃には、暦の上では8月8日の立秋が間近に迫っていた。


 暑さ寒さも彼岸までとは言うが、今の気象条件だと下手すりゃ10月上旬まで半袖で過ごせる環境な訳で、とてもじゃ無いが表に出れば最高気温が35℃近くの猛暑日の見本市な状況でとてもでは無いが冷房無しの生活など考えられないし、用事が無い限りあまり外に出歩きたくも無い生活パターンになりつつあった。


 とは言え、新聞の折り込みに週末のスーパー特売チラシとかあれば『狩猟民族』の血が騒ぐのは逃れ難い本能な訳でして、息子が部活で夜まで戻って来ないって事もあって、2人して帽子を被り日焼け止めをしっかりと塗って、汗だくになりながら何店舗かスーパーを梯子して幾つもの「戦利品」をゲットする楽しみを満喫し、つい先ほど戻って来たのだが、そん時には確実に体温が出かける前よりも上昇している訳でして・・・


 「・・・いや、マジであちぃわ、こりゃ。何も対策しないとホントに熱射病で倒れるだろ」


 と言いながら、冷房の温度と風力をマシマシな状態にしたエアコンの風下で上半身まっぱになってメンソール系の汗拭きシートを2~3枚使って顔から首筋から上半身の前後ろと、太ももから足先まで一通り拭き体を風に当て続け、気化熱によって体温を下げる事でようやく体内の熱が引いて来た感じになって来た。


 「ホント、これ昔の人とかどうしてたんだろうねぇ?」


 と先程一足先に「冷却作業」を終え室内着に着替えた妻が、氷を小ぶりのタンブラーに満たしながら聞いて来る。

 キッチンではケトルから湯気が出始めて来て、ドリッパーにセットしたペーパーフィルターからは特売品でゲットしたコーヒーが贅沢におごられていて、リビングダイニングにいる鼻の利きが悪い私ですら、その香しい芳香を堪能出来た。


 「そうさねぇ・・・丁度78年前の明日、1945年8月6日の広島の気温が記録に残っていてねぇ、あの日の朝8時の気温は26.7度だったみたいだね。今の東京の気温よりも若干低かった事になる。でも当時の人達からすれば「2023年現在の東京の気温」を知らない訳だからそれこそ暑いと感じていたんだと思うよ」


 妻はその事に対し無言でコンロからケトルを外し、蓋を押さえながらドリッパーに向けて上からトポトポとお湯を注いだ。


 「あの核攻撃によって多くの機材であったりスタッフであったりが失われたんだけど、残った人員で観測を継続したそうだよ。継続して記録を残し続ける事が何よりも重要な事だ、と言う事を理解しているからなんだよね」


 ドリッパーから注がれるお湯によってコーヒーの香りが広がっていき、先程よりもはっきりと判る位に室内がレトロな喫茶店に早変わりしていく。

 贅沢に奢られた細かく挽かれたコーヒーは濃い目の味わいでドリップされ、下に設置されたコーヒーサーバーにつつっーと黒色の雫が糸を引く様に垂れて来て、サーバーに漆黒の珠玉が満たされていく。

 いきなりお湯を注ぐとドリッパーから溢れてしまうので、ドリップされるコーヒーとドリッパー上で注がれたお湯の量を測りながら、小まめに円を描く様に均等にお湯を注いでいく。

 コーヒードリッパーにお湯を注ぐ妻のその姿が、私には詩を諳んじている様にも見えたし、声楽を奏でている様にも見えた。


 「あゴメン、グラスそっちに持ってって。もう直ぐコーヒー入れ終わると思うから」

 「んー」


 2つの氷で満たされたタンブラーをダイニングテーブルに持って来る。

 除湿器をかけながら、しかもエアコンをドライで設定しているのに、室内の湿度は60%を切る事は無く、一旦結露をキッチンペーパーで拭いて持って来た筈のタンブラーは、まるで夏の俺みたいに直ぐに汗をかき始めた。

 やがて、入れたてコーヒーで満たされたサーバーを持って来た妻は、それぞれのタンブラーの上から静かに注ぐ。

 

 「本当は理想を言えば、ドリップ出来た後にコーヒーサーバーを冷やした濡れ布巾とかで一定程度液温を低下させた方が、氷が溶け難くなってより濃いコーヒーになるんだけど、ちょっと時間がねぇ・・・」

 「んなもん、良いんだよ。直ぐに飲みたい時に直ぐに飲みたいものが手元にあるって事が何よりの馳走なんだから」

 「ん、りょーかい」


 待っている間に火照った体もかなり落ち着いて来たから、シャツを着替え、ノートパソコンの電源を押し準備をする。


 そうこうしている間に、等分に分け終わったコーヒーはタンブラーに満たされた氷を解かす事によって液温を低下、良い塩梅の濃さと冷たさになった。

 そして2人して席に座った後、共に両手を合掌させ


 「「それでは・・・頂きます」」

 

 と一緒に言い、アイスコーヒーを飲む。

 妻はきゅーっと半分位を一気に飲み乾してから


 「・・・んっんっんっ・・・っはぁーっ」


 とまるで新橋高架下の居酒屋で身も心も乾き切ったサラリーマンが末期の水だと言わんばかりの勢いでビールを飲み乾すような声を出した。

 うん、良い感じでオッサンテイストが入ってて微笑ましいねぇ。


 私も手にしたタンブラーを傾け口内にアイスコーヒーを2口分程流し込む。

 最初に新鮮な苦みがガツンと来て、同時にアイスコーヒーの持つ清涼感が嚥下した時の喉越しを心地良くする。

 アイスコーヒーだとホットの時とは違い私なんかの味覚や嗅覚だと後味とかは全く良く判らないし、カッピングコメントの様な的確な分析、評論とか出来ないのだが、今の季節なら喉越しや飲みやすさ、冷たさに起因する清涼感の方が優先度が高いから、問題無いのだ。

  

 「ところで、さっきの話だけどあの当時、よく記録を取って置くことが出来たよね。記録を取り続けている人だって家族だっているでしょうに。重要なお仕事なのも判るけど、内心では結構寂しい思いをしていたり、家族の無事を確認したい思いに駆られていたりするんじゃないかなぁ・・・」


 と言いながら妻はアイスコーヒーを8割方飲み終えていた。

 こっちはまだ2割も飲んでいなかったりするのだが、何か折角入れてくれたアイスコーヒーを清涼感を味わう為だけに一気に流し込む事に抵抗感があったのだ。


 「まあ、当時の人がどんな思いでいたのか、に関しては何とも言えんけど、日誌の中では多くの職員が負傷した、とあったから今残っている人達で何とかするしかない状況だったんじゃないかな。となれば、職員の家族とかの心配もあっただろうけど、遂行すべき義務(つとめ)を果たす事を優先しないといけない状況だったんだと思うよ」

 「何かつらい仕事だよねぇ」

 「まあ、あんときゃ戦時だったし、大なり小なり皆さんヒデェ目に遭っていた訳だから、その手のつらいお話は沢山あったよね。そう言う点でも今の私達は平和と言うベネフィットを享受している側だったりするのは間違い無いと思うよ。しばしば、そう言うの忘れがちになるけど」


 8割方飲み終えた妻は、サーバーに残っていたコーヒーをタンブラーに注ごうと持ち上げる。

 こちらを一瞥してサーバーを持ち上げながら首を傾げ「ん?」と問いかける。

 サーバーに大してコーヒーが残っていなかったし、今タンブラーに残っている分だけで十分だった私は横に首を振り、それを確認した妻が残りのコーヒーを自分のタンブラーに注ぎ、試験管を振る様にして残っている氷を使いアイスコーヒーにする。


 「私はおかし食べるけど君は食べないよね?ん判った」


 と俺に一言も返事を求める事無く一方的に早口でまくし立てて決めつける行為に、思わず苦笑する。

 これ仮に「うんいるよ、お茶菓子俺にも頂戴」とか言ったら果たしてどんな反応を示すのだろうか?

 ちょっとおっかないけど、何時か試してみようかしら?


 そうこう思っている間に、妻はパントリーからお茶菓子が何種類も入ったケースを丸ごと持って来て、どれにしようかなぁ、と物色を始めた。

 その姿が何となく畑を荒らすシカの様に見えたりもしたのだが、当然家庭の平和と安全に為に心の奥底に仕舞って置いた。


 「今回の旅行で911とかも行くんでしょ?あの子に施設の説明とか時代背景とかしたの?」


 と言いながら、選んだクッキーの小袋をテーブルに置いてケースをパントリーに戻す。


 「ああ、以前一通りあのテロ事件に関しての説明はした。まあ、でも実際に話した内容はさわり程度だったし、父には何の説明もしていなかったから、重複する分も含めて現地でガイドを行うと思う」

 「そっかぁ・・・あの時は私達もう付き合っていて来年の式とかどうしようかって話が出ていた頃だったでしょ?あのテロ事件は直接的に私や家族には関わっていなかったんだけど、当時勤めていた会社の同業他社が事件当時、あのビルにオフィスを構えていたの。私の同僚の中には同業繋がりであの会社の本店社員さん達とも知り合いだったって人が何人かいたし、あの事件当日以降それこそ大騒ぎになっていたって話を何回か小耳に挟んだ事があったのよねぇ・・・ああ、もうあの時から22年かぁ・・・ああいう話を聞いたりすると、ホントに一寸先は闇ってあるんだなぁって思ったものよねぇ」


 そう言いながら妻はアイスコーヒーを口にし、合間にクッキーをかじる。

 継ぎ足した分も結構な勢いで飲んでいて、もう私のタンブラーに残っている量よりも少なくなっている。

 そして、先程開けたはずのクッキーの小袋はもう空っぽになっていた。

 いや、貴方飲み食い早くね?


 「それを言ったら、今ここで2人してアイスコーヒーしばいてる時点で、共に過去からの色んな破滅フラグを知らない間に回避し続けた結果、と言う偶然の産物なんだと思うよ。貴方の場合だったらそれこそ95年の地下鉄サリンの時に「もし出勤時間がもう少しずれていたら」とか、俺の場合だったらガキの頃交通事故で病院送りになってたから「打ち所のサイコロの目が悪かったら」もうこの世にいなかっただろうし」


 一方私はチビチビとアイスコーヒーの苦みを楽しんでいたのだが、氷の溶けるスピードが速いので中盤以降はある程度早めに飲み切らないと、加速度的に薄くなってしまう。

 名残惜しいがもう飲み切らないといけないな。

 タンブラーの半分以下になったアイスコーヒーを一気にあおり飲み乾す。


 「だから今までの幸運に感謝、感謝なんだよ」


 と妻が両手を合掌しながらにこやかに言う。

 とは言え、私も彼女も何らかの宗教の熱心な信者では無い。

 要は彼女の言いたい事は「御陰様」って事なんだと私は解釈している。


 私も彼女の言わんとする事は十分理解出来るのだが、一方でそれを思えるって時点で十分幸福度が高く、生命財産の危機に瀕していない状態にある、と言う側面もある。


 それに個人的には、だったらもうちっとだけでも俺の人生の賽の目を良くしてくれたってバチ当たんなくね?毎回毎回賽の目振る時にアホみたいにマイナス補正が決まってる気がするのは俺だけか?とは常に思ってたりするのだが、こんな罰当たりな事を言ったら彼女から色々と言われそうだから言わないでおく。

 それに、溜息の数や口に出してしまう呪詛の言葉が多ければ多い程その重さによって結局自分自身が沈んでしまう、って彼女の信念には確かに一定の真理もあるな、と思えるので大抵の場合は黙っている方が吉なのだ。

 彼女は彼女でそんな事を考えている私の事を見ながら『あ、コイツロクな事考えてないな』と思っている様で、


 「そう言えば、旅行の段取りってほとんど終わったの?」


 と話の話題を変えて来た。


 立秋が来たらその2日後には旅行当日である。

 ついにここまで来たのか、と言う感慨よりも「何か見落としがあったら困るんだが」と言う不安の方が日々大きくなっている様な気がしてならない。

 もう残り日数が1週間も無い状況で出来る事は何か、ガイドブックや今まで書き記して置いた備忘録やToDoリスト等を再度チェックする日々になっている。


 「ToDoリストの順番で言えば・・・メッツの千賀投手の状況に関してだけど・・・7月の登板が、7月5日、7月15日、7月21日、7月27日となっていてね。で、8月に入ってからが8月2日に登板して残念ながら打線の援護が無く負け投手になってる。7月11日にオールスターゲームと言う両リーグの花形選手のみが選出されるイベントがあったから、その日以降でカウントすると、15日から中5日で21日登板。でそっから中5日で27日登板。そいでもってそこから中4日で8月2日登板になった」


 とエクセルシートに書き込んでいた千賀投手の登板日を指折り数えながら中日をカウントする。

 すると妻が、


 「野球選手ってそんなに休むもんなの?今年の春に大活躍していた大谷選手とか毎日出ているみたいじゃない」


 という事を言って来た。

 うん、まあ、そうなるわな。

 別に大谷選手の活躍は今年のWBCからでは無く、それこそ花巻東高校時代から凄まじい逸材だったし、日ハム時代でその才能は見事に開花していたし、メジャーに行ってから更にバケモンっぷりが加速したんだが、そんな事はスポーツ全般に疎い人には何の事だか判らないのはむしろ当然の事なのだろう。


 妻の場合、そもそも野球と言う競技において先発投手と抑え投手、野手とDHの違いも判らないし、ア・リーグとナ・リーグの違いやセ・リーグとパ・リーグの違いもやはり判らない。

 当たり前だがインフィールドフライなんてのも訳判んないし、第4アウトに至ってはそもそも存在自身知らない。

 つか世間一般では、むしろそれが普通なんだけどね。


 「野球の球って、石ころみたいにメチャクチャ固いんだよね。そんな石の様な球を100球近くも全力で投げると肩や肘に物凄い負担が掛かっちゃうんだよ。だから、先発登板するピッチャーは1回登板したら基本的に一定期間休息を取って肉体の負担を軽減しないといけない訳。それに今の野球って分業制が進んでいるから、試合の中盤に投げる中継ぎの投手や、後半に投げる抑えの投手の様に役割が分担されているんだ。その分担のお陰で投手陣の負担は多少軽減される事になる」

 「へぇ、そんなに投手って負担が掛かるもんなんだぁ」

 「だから、今回の旅行で千賀投手の先発登板日に野球観戦出来たら面白いよねって話が出ていたんだけど、今言った理由から運任せな所があって、旅行に行っている日程中に観戦可能か否かを測っているって話。で、さっきの続きだけど、前々回登板日が7月27日、そこから中4日で前回登板日が8月2日、そっから仮に通常ルーティンで考えれば中5日となるから次の登板予定日は多分8日、でもってそっから中5日だと14日・・・ってなる訳だ」

 「・・・って事は・・・どういう事なの?」

 「ニューヨークに滞在する日取りが10日から14日となってて、ニューヨーク滞在最後の夜が13日の日曜日となっている。だから・・・このままだと野球観戦のオプションは消える事になる」


 指折り日取りを数えながら段々と頭が垂れ下がっていく。

 そうなのだ。今の所8月2日のケースを除いて中5日で登板しているから、このままだと荒天による中止とかでローテーションがズレない限りニューヨーク滞在中に野球観戦を行う、というイベントは消える事になる。


 「おおゆーしゃおーくよ、しんでしまうとはなさけない」

 「いや、死んでねーし、つか殺すなや・・・まあ8月7日から16日までメッツは本拠地シティーフィールドで試合が組まれているから、このイベントのカギは7日以降のニューヨークの天候次第って事になる。仮に荒天中止とかなったら、先発登板日がスライドする可能性もあるから、そこにワンチャン賭ける事になるかもね」

 「・・・あぁーそーゆーことね。完全に理解した」

 「わかってない乙」


 今現時点では、天候の事もあるから11、12、13日の雨天好天によるルート選択はまだ確定では無い。

 ただ、次の登板日が確定する事で、天候による中止が無い限り11、12日のシティーフィールド野球観戦ルートのシナリオは潰える事になる。

 次の登板日だ。それ次第でスケジュールの選択肢が幾つか狭まる事になる事は確実となった。


 となると、明日以降のニューヨークの天候をチェックする必要があるだろう。

 海外の天気予報でチェックしてみよう。


 その前に、飲み終えたタンブラーとか片付けなきゃな。


 「それでは」

 と私が言うと妻も併せる様に合掌し

 「「御馳走様でした」」

 と一緒に唱える。

 そう言えば、会話中にたまたま同じ言葉を同時に発してしまった時に「ハッピーアイスクリーム」と先に言った人がアイスを奢って貰える、って何時の話しだっけ?

 何か都市伝説の様な気もするのだが・・・


 取り敢えず、タンブラー2つを流しに持って行き、水に漬け、そしてクッキーの袋をゴミ箱に入れる。

 洗い物は食洗器先生の出番待ちなので、昼食が終わってから以降にまとめて行うのだ。


 取り敢えずパソコンで海外の天気予報のサイトをググって確認してみる。

 すると、どうも8月7日前後が結構怪しそうだという事が判った。

 メジャーリーグのスケジュール表では7日からメッツは本拠地シティーフィールドでシカゴカブスと対戦予定となっている。

 って事は7日か8日が荒天中止となった場合はローテーションにズレが生じる可能性が出て来る、という話になるし、それ次第で千賀投手の先発登板予定が変わって来る可能性がある、となる。


 いずれにしても、天候と次の千賀投手の先発日次第だ、と言う事が確定したので、この件はこれで一旦終了となる。


◇     ◇     ◇     ◇     ◇


 昼飯はそうめん。

 空調の効いた部屋で食べる氷で〆たそうめんの味はやはり格別な訳で、冬場に暖かくして温麵で頂くのも悪くは無いのだが、どちらかで言えば夏のクソ暑い季節に冷たくして頂く方がやはり満足度と言う面では一段高なのは間違い無い。


 食事が終わり食洗器先生がゴウンゴウンと五月蠅く『俺は今仕事をしているんだぜ』と激しい自己主張をする音だけが室内にこだましている静寂の中で、私は妻の肩から背中にかけてマッサージをしていた。


 最初は肩から。彼女にとっては叩くよりも揉む方が良いらしく、指先で摘まむよりもむしろ手の平全体を使って圧をかけるイメージで僧帽筋から三角筋にかけて押していく。

 ある程度解れてきたら、次は肩甲骨と首の間、僧帽筋でも背骨付近であったり、深層筋で言えば肩甲挙筋や頭板状筋、小菱形筋の辺りをやはり手の平を使って挟み込む様に押す。

 指先で挟み込めない箇所は両手を使ってサンドイッチにする様にして押し揉む。

 ただ首の所をダイレクトにマッサージするのは揉み返し等を考えると怖いので、そこの部位までマッサージが必要な場合は整体に行くようにさせている。

 その次の段階は背骨の筋周辺、肩甲骨の内側辺りを押す事になる。

 脊柱起立筋のラインを中心に僧帽筋でも下部の周辺であったり、深層筋で言えば大菱形筋や頚板状筋周辺を今度は親指の腹部分を使い揉み込むイメージで押す。

 背中を親指でギュッギュッと押している途中途中で彼女が「うぃーっ」とか「おおぅー」とか「ぐえぇー」とか普段よりも更に1オクターブ低い声でオッサン臭い声を出すのは、まあ御愛嬌ってモンだ。


 こうして一通りマッサージを行っていると、

 「ああぁっ、りぃぃいぃいいっ、がーーーとぅうぅぅうううっ」

 と彼女が言って来た。

 これが『終了の合図』だったりする。

 何となく成り行きで決まったルールなのだけれど、『ありがとうございました』の『た』が言い終わったら終了、と言った約束事に自然となっていたのだ。

 まあ、でも『あ』からが時たま長い事もあったりするので、実際に声が出てから終わるまでの時間は本当にまちまちだったりする。

 「ごーーーっ。ごーーーっ。ごーー~~おーー~おおぉおお~」

 と今日はまるで読経の様な発音、イントネーション、長さで言っているので、まだまだ時間が掛かりそうだな、こりゃ。

 『ざ』の段になったらもっと長くなり、『い』『ま』『し』も同じレベルでさながら『有難う御座いました心経』読経大会になっていた。

 坊主聞いたらブチ切れるんじゃねーかしら?


 でも最後の「た」は

 「・・・ったっ!」

 と先程までの読経大会とは打って変わって一瞬で終わっていまい、何かあっけないと感じてしまった。


 「今日なんかスゲェ長かったね。これだけマッサージして後で揉み返しとか大丈夫か?」


 と気になっていた点を言うと、


 「・・・だって、来週もういないじゃん」


 と少し拗ねたような声で彼女が答えた。

 子供か?


 「いやいやいや、いないって言ったってトータル8日間だし、その間貴方もお友達呼んでパジャマパーリーナイトやったり、ニンニクたっぷり韓国グルメ山ほど準備して韓流ドラマオールナイト大会やったり、毎日色んなバスソルト使い放題で好きな時間に好きなだけバスタイムとか、ジャンクフード各社比較採点キャンペーンとか、ソファにドッカリ座ってレンチンピザフルコースとコーラを栄養補給にしつつ映画を寝落ちするまで観ようぜイベントとか、24時間耐久惰眠貪りレースとか色々フリーダムで楽しい、でも年相応って言葉を銀河系の彼方までカッ飛ばしたアホボケ企画の段取りを楽しんで作ってたやん。それに、もういないって死亡フラグ立ちましたみたいな事言われても困るんだけど・・・」


 そうなのだ。

 私達がいない間どうすんの?って話を聞いた時に、彼女の選択肢は

 『普段から思っているやりたい事をリミッター解除でやりたい放題する』

 と言うものだった。

 実に素晴らしい提案で、もし逆の立場なら俺がやってみたい企画ばかりだったりするので、諸手を挙げて賛同したのだ。

 だから、ここに来てこんな拗ね方するとは思ってもみなかった訳で、ちょっと驚いた。


 「そりゃぁ私だって君達がいない間、普段思ってるやりたい放題のフルコースを実行するって企画を考えていて、それが実現出来る楽しみはあるよ。でも来週10日から君達が8日間もいない訳だし、君達だって私と8日間も会えない訳じゃない?なんか、それに・・・うーん、その割には何か君達いつも通り過ぎない?って思っちゃうのよねぇ・・・君の場合は今回の旅行の企画の段取りがいよいよラストスパートで何かしら申し込みの漏れが無いかとか、忘れている事が無いかとか、確認しなきゃいけない事の再チェックとかバタバタしているのは判るんだけどさぁ・・・それに、あの子にしたって普段とまーったく変わらない感じだし、何と言うかもう一寸何かあるのかなぁ?とかずーっと思っていたんだけど、きれーさーっぱり、まーったくなーんにも無さそうだし。寂しいとかそう言う感覚無いのかしら?とかって思っちゃって、でも何か私一人だけこんな事考えるのって何かバカみたいだし、アレェ、こんな思いしてるのって私だけなのかなぁ?って思ったり・・・」

 

 要は私達親子が2人していなくなって、家に8日間も1人でいるって体験が無かったので、それに対して寂しさや不安を感じているのだ。

 まあ、息子に対してちょっと子離れ出来てなくね?って思う所もあったりもするのだが、その点をあからさまに指摘するのは彼女のプライドの事もあるだろうし、それにそんな所が実は個人的にちっと「可愛いなぁ」と感じているのだって事をわざわざ口に出すのも、それはそれでこっちの方がなんだか気恥ずかしさを感じるから、言わんでおく。

 

 「毎日、アメリカ時間の朝、日本時間の夜に電話を入れたり、逆に日本時間の朝、アメリカ時間の夜に電話をくれたり、毎日の現地での動向を写真で送る、ってのはもう話をしたよね?私達がいない間に消費するであろう様々な『備蓄品』もしこたま買ったから、休みの間どうしても外に出かける必要とかは無いだろうしね。それに色々と貴方の方で段取りを組んでいたから安全、防犯面では間違い無くリスクヘッジは出来ていると思うよ」


 そうなのだ、彼女は私達親子よりも基本的にしっかりしているものだから、安全面、防犯面でのリスク低減に関しては私なんか出る幕も無いレベルでしっかりと段取りを組んでいたりするのだ。

 無論、近所に住んでいる妻の弟(私にとって義弟)にも何時でも連絡が取れる様にもしているし、私の母親と同居している弟も同様に何時でも連絡が出来る段取りも抜かり無くやっている。


 「別にそっちの方では特に心配はしていないんだけどねぇ・・・で、君はどうなの?」


 と改めてこっちを向いて彼女が言う。

 それに対して俺は手のひらを上に向ける形で両手を広げて


 「それについては、例え私達が距離的に離れ離れになっていたとしても、大空の下では私達は常につながっているのだから、私は何の心配も必要としていないんですよ。大丈夫、私は常に貴方と共にあります。May the Liquor be with you.・・・ってこってす」


 とわざと大げさに言って見せる。


 「・・・なんかすっごい胡散臭い怪しい見世物小屋の店主みたい。それに自分で「(さけ)は常に私と共にある」って君自身が言っちゃう自虐さ加減って正直どうかと思うの」

 「貴方の旦那やで。ああちなみにそこは「さけ」では無く「しゅ」と言って欲しかったんだよねぇそうすればスターウォーズシリーズの中に出て来る有名なセリフからの引用の更なる引用元である某宗教のキメ台詞に対してダブルミーニングになるから俺的にも結構面白い引っ掛けを作ったもんだよなぁって自分で自分を・・・」

 「ゴメン。知らんがな」


 うわーキッパリと真顔で割り込まれて言われちゃったぁ。

 そして彼女は頭をポリポリと掻きながら


 「うーん・・・まあ、いっか、と言うか良しとするか」


 と言った。

 何をもって良しとしたのかは判らんけど。


 「まあ、日本に帰って来たらマッサージの1時間でも2時間でもやってやんよ」


 と軽く口約束の手形を切ったら、


 「約束ね。うそついたら針3本絶対飲ます」


 と喰いつく様に畳みかけて来た。

 1時間は兎も角、2時間やったらこっちの手が軽く死ぬんだけどなぁ・・・


 「・・・そこはせめて『するめ』とか『芋けんぴ』とかにしてくんない?」


 とだけ付け加えて置いた。


◇     ◇     ◇     ◇     ◇


 夕方4時過ぎ、まだ全然日が落ちる気配も無い中、私達2人は洗濯物を取り込み一緒に畳んでいた。


 今日は夕方5時からサッカーの女子ワールドカップ決勝トーナメントラウンド16でなでしこジャパンとノルウェー代表が対戦する日だったので、急いで作業を終わらせたかったのだ。

 その作業中に、


 「ねえ、今回の旅行でスケジュールの変更点とかあったの?」


 と妻が聞いて来た。


 「ああ、前にアイツが大学の友達への土産で買いたいって理由からニューヨーク大のブックストアが目的地リストに滑り込んできたじゃん?だから、あの周辺で観光する時間があればって事でピックアップした所はあるよ」

 「ふーん、そうなんだ。ちなみにどんなとこなの?」


 と問いながらも手は休めずテキパキとシャツやタオルを片っ端から畳みまくっている。

 こう言う時俺の場合は一々手を休めながらでないと上手くいかないのがもどかしい。

 頭を使いながらと手作業が同時に行い難いんだよねぇ・・・


 「ウクライナ博物館ってとこでね、エリア的にはイーストヴィレッジにあって、ニューヨーク大のブックストアからそれほど距離が離れていない所にあるんだよ。あの辺りはリトルウクライナと呼ばれるウクライナ人が住んでいるエリアでもあるんだよね(注:ちなみにブルックリン南部にはリトルオデッサ(オデーサ)と呼ばれる別のウクライナ人在住エリアがあります)ちなみにイーストヴィレッジでは日本食用のスーパーとかレストランもあったりしてたようだけど、コロナ禍で少なくない店舗が撤退したみたいだ」


 「へぇーウクライナの博物館ってあるんだ。初めて知ったよ」

 「うん、俺も調べてみて初めて知った。なんか絵画とか民族工芸とかそう言う作品群が展示されているみたいだね」

 「もし、写真撮影がオッケーなら写真送って来てね」

 「勿論」


 こうして妻はテキパキ、俺はえっちらもっちらと服を畳む作業を終え、洗濯バサミやハンガー、ピンチハンガーを片付けている最中に携帯がピンピロ鳴った。


 まあ何時もの広告メールの類だろ?と思いながらも開けてみたら、13日に行く予定のクルーズ運航会社からだった。

 内容は・・・と、


 「・・・は?運航キャンセルのお知らせ?・・・って、なんじゃこりゃぁーっ!」


 ええ、出発まで1週間切った、クルーズ搭乗日まで残り8日の状態でまた新たに予定が狂っちゃうイベントが発生しましたよ。


 まあ、よくあることだ、予定が狂う事はよくあることなんだけど、何で今なのかねぇ・・・


>1945年8月6日の広島の気温が記録に残って


原爆投下の日も気象観測は続けられていた

https://www.nhk.or.jp/hiroshima/lreport/article/008/75/


 (引用ここから)

 過酷な状況でも観測を続けた背景にあったのは、「観測精神」、つまり、一刻も気象観測を欠いてはならないという精神でした。

記録は、今も貴重なデータとして保存されています。

 (引用ここまで)


 あの地獄の中で記録を取り続けたスタッフがいた事は、全くもって頭が下がる思いです。

 こういう記録が残るから貴重なデータとして後の世に伝えられていくんですよね。

 そして今なお様々な所で取られ続けている様々な記録が「貴重か否か」は実は今の私達が判断するものでは無い、と言う点も忘れてはならないポイントなのだと思います。


義務(つとめ)を果たす


 はい、日本サブカル史に残るレベルの愛すべき駄目で無能な臆病者、漢の中の漢、英国無双ですね。

 個人的にも歴代大好きなサブカル作品キャラクターリストに常にランクインしている逸材ですね。

 スゲェよなぁ、アレ見ると何でか知らんけど「人間って素晴らしい」って無条件で錯覚してしまうんだよなぁw


>事件当時、あのビルにオフィスを構えていた


 当時の富士銀行(現みずほ銀行)ニューヨーク支店があのツインタワーにありました。

 あの事件で日本人スタッフ12名を含む23名のスタッフが亡くなられました。

 現在みずほ銀行大手町本部ビルがある地区に「大手町の森」と呼ばれる緑地区域があり、その中にあの事件の慰霊碑があり、現在も毎年献花台が設置され、追悼式が行われています。

 大手町タワー

 https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E6%89%8B%E7%94%BA%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC&oldid=64989642


>第4アウト


 年代的には「ドカベン」で知った口だったりします。

 恐らく若い年代は「ラストイニング」で知った人の方が多いのではないだろうか?

 たまーに高校野球の予選とかでお目にかかれるシーンで、大抵のケースだと1アウト1、3塁か2、3塁、バッターがアウト&ダブルプレーで3アウトになってるのに、タッチアップが認められ得点になってしまう、と言うパターンですね。

 観てる側も?マークで審判からの説明で初めて気が付くシーンだったりしますね。


>「ハッピーアイスクリーム」


 何かエライ昔から続いている風習だった様ですけど、最近では聞かない気がするのは単に私がその手の話しの守備範囲から完全に出てしまっただけなのかも知れないw


「ハッピーアイスクリーム!」を知っていますか?|木下 華子|日文エッセイ130

https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c=blog_view&pk=15695551900104&category=&category2=


 これでみると昭和40年代には既にあった風習だった様で、結構地域によって言葉も違っているって所も面白いですね。


>May the Liquor be with you.


 ハイ、元ネタはMay the Force be with you.なんですけど、これ自身がMay the God be with you.からの引用なので、その点が判っていると2度美味しいですね。

 

>手形を切ったら


 手形とか小切手って後10年もすれば恐らく大半の銀行から無くなるんでしょうねぇ。

 約束手形と為替手形の違いなんて今後、昭和の時代小説でも書かない限り忘却の彼方に消えていく知識になっていくんでしょうね。


>サッカーの女子ワールドカップ


 優勝候補だった(実際に下馬評通りに優勝しました)スペインをグループステージで4-0で一方的にボコった時にはヤベェって思いましたね。

 あの時は世界中が驚きましたから。


>コロナ禍で少なくない店舗が撤退


May 16, 2022

NYのリトル東京が消滅寸前

https://tangoprince.blog.jp/archives/52013979.html


 コロナ禍ではホントに世界中の飲食関連やホテル関連企業が多額の負債を被ってしまいました。

 アフターコロナでどれだけリカバリー出来るかがポイントになって来るでしょうね。


>なんじゃこりゃぁーっ!

 

 はい、松田優作氏の有名なセリフですね。個人的には探偵物語の「オイ、誰にも言わねぇから、これ(ナイフ)持って帰れ。気を付けろよ」も痺れた口でしたねぇ。

 正に昭和オッサンホイホイですなw


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