前日談10 あいあどな
最近の麻酔はキレが良いらしく、麻酔が切れ始めたと思ったら、いきなり痛みが現れた状態となった父は
「・・・いだい、いだい・・・いだぁい・・・」
と痛みのフルコースを堪能する羽目になっていた。
口腔内がネバつくのか、滑舌があまり良くない。
だが手術当日は水の摂取もダメなので、せいぜい口の周りを拭くとかしか出来ない。
ナースコールで呼んだ看護師はまだ投薬の点滴が終わっていないのを確認して、先生に状況を報告、次にどうするかについて指示を仰いでいた。
しばらくして、看護師を伴って先生が室内に来た。
「今、投薬している中に痛み止めが入っているから、これが終わって本来は2時間後に再投与の予定だけど、痛みが強いようだから若干投与開始時間を早めますね」
と言って出て行く。
しかし、当人からすれば、麻酔が切れた瞬間痛みで起こされ、何がなんだか訳が判らない状態で痛みの満漢全席をたらふく召し上がる羽目になっているものだから、すぐ効く最強の痛み止めを即座に投与してくれと懇願するのは仕方が無い所ではあった。
当然ながら、そんな強い薬が全く副作用のひとつも無いといううまい話などある訳は無く、私が廊下に出て先生にその点について確認した所、現時点の反応を見る限りにおいては、その手の強い薬の投与は必要無いという判断だった。
無論、今後もっと劇的に痛みが強くなる可能性も否定出来ないから、その時の為にオプションとして取って置くという結論に至り、私は部屋に戻った。
そんな結論が出ていたなんて露にも思わない父は、最先端製薬技術の粋を結集させたガツンと一発で効く都合の良い最強痛み止めを今すぐ投与して貰えるのだとばかり思っていた様で、
「・・・ぐすりは・・・まだなのが?オイ・・・まだなのが?」
と同じセリフを繰り返していた。
「今医者にも確認したんだが、現時点ではこの投薬がベストなんだそうな。でもってさっきも言ったけど、次の投薬スケジュールを早めてくれるようだから、それで様子を見ましょうって話だよ」
と言うと、
「・・・はやぐしてぐれ」
とだけ言い、またイタイイタイ言うモードに戻った。
医者が最終的に判断したのだから、恐らくこれ位の痛みの反応は全くもって予想&許容の範囲内なのだろうけど、本人や周りの人達からすれば、今までそんな経験をしたことが無い人の割合の方が多い訳で、逆に言えばそれだけ医療スタッフ達はもっと凄まじいケースを多数日常の業務内で見続けている、という事なのだろう。
医療関係者、修羅の門くぐり過ぎだろ。
やっと1本目の点滴が終わりその旨を看護師に伝えたのだが、次の点滴はまだか、という強いリクエストが複数回あったので、その旨も合わせて伝えておいた。
「出来るだけ早く次の投薬が開始出来る様に、リクエストは出しておいたよ」
部屋に戻りそう言うと、黙ってうなずいた。
どうも痛みは手術を行い管を通した下半身からだけでは無い様だ。
頭から腕から、足に至るまで全身のあちこちに痛みが生じている様で、その時に特に強く痛む部分をマッサージしてくれ、と言われたので私が足や腕を、母が頭をマッサージしてあげた。
そうする事によって気分がほぐれ、少しは楽になるのだそうだ。
麻酔が切れて痛みで目が覚めて以降、定期的に父の足や腕をもみほぐす様なマッサージを継続して続けていると、
「・・・あいあどな・・・あいあどな」
と細い声で言って来た。
「い・・・いままで・・・あいあどな」
オイ、変な事言ってんじゃねぇよ。
「大丈夫だからねぇ。痛いのは仕方が無いからぁ。投薬も急いでもらうしぃ。こっちも痛い所とかぁ。マッサージするとぉ。痛みがほぐれる部分があればぁ。言ってくれればぁ。やるからねぇ」
意図的に間延びする様にゆっくりと言う。
痛みをずっと堪える、というのは体力も気力も消耗するものだ。
ましてや麻酔が切れた瞬間に痛みで目が覚めて以降、ずっとイタイイタイ続きでメンタル的にこれはもうダメかも、と思い始めているのかも知れない。
「問題無いからねぇ。今ぁ全身のあちこちが痛いのはぁ。細胞がぁ過剰反応しているからぁ。だからぁ。貴方の身体はぁ。正常にぃ。反応しているだけだからぁ。心配しなくてぇ。良いからねぇ」
(作者注・手術によって傷ついた細胞から炎症を引き起こす物質だったり、サイトカインの様な痛みの誘発物質が放出される事によって痛みが発生する可能性があるそうです。勿論他の原因も色々あるそうです。私のこのセリフに関してはエビデンスのある医療知識云々の根拠をベースにしているのではなく、親族である父の不安を取り除く目的で自身の今までの経験、情報をベースとしてとっさに言っているだけなので(よく戦争映画等で負傷兵相手に<大丈夫だ、傷は浅いぞ!>的なセリフを言うのと同じ感じでしょうか)、読者の皆様におかれましては正しい医療エビデンスに当たって頂ければ幸いです。)
この様な声掛けをしながら、引き続き足部や腕部のマッサージを継続する。
マッサージがどれ位役に立つのかは判らないが、少なくとも本人がその行為を望んでいて、それで気分が楽になり、痛みがまぎれる、あるいは緩和されるなら、それなりに意味はあるのだろう。
母が看護師に確認をしたところ、取り立てて中止を求められる行為ではない、との話だったので継続して行う。
手当てって言葉はこういう事が由来なのかしら?と思いながら、定期的に場所が変わる痛みに対応する為に手を動かす。
そうしている間に2本目の点滴投与の時間になり、看護師が新たな点滴をスタンドに掛けチューブに接続させた。
相変わらず痛みは定期的に来て、その都度その個所に手を当てマッサージを行う時間が続く。
その間は痛みがまぎれるのか治まる様で、イタイイタイとうめく事は少なくなっていた。
しかし、2本目の点滴の投与中に劇的に痛みが治まる、という事は無く同じ様な状況が点滴の投与が終わるまで継続していた。
そして3本目の投与の開始時間について看護師と話をしていたら、
「もう直ぐ退館の時間になりますので、宜しくお願いします」
と館内放送で言われたので、驚いた。
まだ6時にもなっていないのに退館しないといけないのか?
「いや、ちょっと待って下さい。今日泊りで診たいのですが。父の様子もこんな感じですし」
「ええ、お気持ちは判るのですが、このコロナの関係で病院への入退出、特に入院フロアへの入退出に関しては、かなり厳格化されたんです。申し訳ありませんが・・・」
ここでもコロナかよ!
しかし幾ら心の中で毒突いた所で状況が改善出来るでも無し、仕方が無く退館の準備をする事になった。
「じゃあまた明日来るからね」
退館の準備が整い、私が母のバッグを背負い今日最後の挨拶をした時、
「・・・おお、おまえは、あじだはこなぐて・・・いい・・・」
「しごどのこどがしんばいだ・・・あじだからはがあざんに・・・ぎでもらうがら・・・」
「もっど・・・しっがりしろ」
この期に及んで仕事の心配をされるのも、今の私では仕方が無いのかも知れない。
父に比べれば、私はそら甘いし温いし抜けている自覚もある。
ただ、この状況で内臓切りたてホヤホヤ状態で麻酔明けで術後痛真っ只中な父にこんなセリフを言わせちゃぁダメなんだろうなぁ、と言う自覚もある・・・多分。
「ああ、判った。退院日には迎えに来るから。仕事の件は貴方が気にしなくても良い様にするから。・・・そんでもって退院したら早くリハビリ進めて、体調万全にして、来年、絶対に3人で笑ってアメリカ行こうな」
もっと良いセリフがあるんだと思う。
こういう時にもっと言うべきセリフが、もっと気の利いたセリフが世間には色々と溢れているんだと思う。
でも、少なくとも彼の願いを、そしてそれは私達の願いでもある、私達共通の目標成就を今日この場で再び高々と掲げる事こそが、このコロナ禍が何時収束するのかも判らないという暗闇の中で、今現在痛みに苦しめられていて明日の光が全く見えてこない父にとっての、そして共に歩んでいく私達にとっての、私達の足元をそして行く先々を照らし続けるトーチとなるのだろうな、という事は確信を持って言えた。
作者注・の部分の情報について、術後痛に関する情報引用は以下のサイトを参考にさせて頂きました。
富山大学附属病院の先端医療
http://www.hosp.u-toyama.ac.jp/guide/amc/74.html
卵巣膿腫摘出手術で体験した痛み
http://www.totucare.com/ippan_content3-13.html