マーガレットのブローチ⑤
百合に「紺のチェックのジャケットを羽織っている人が彼氏か?」と言われたエミは、小さく頷いた。
「はい、確かに今日、彼氏はチェックのジャケットを羽織っていました。それで、私、彼氏が女性と真剣そうに話しているのを見て、全部悟ったんです。彼氏は私の他に好きな人ができたんだって。だから、私と無理矢理別れるために音信不通になったんだって」
エミは彼氏が女性と話している場面を思い出したのか、またティッシュを一枚引き抜く。少しの間、ティッシュで目頭を押さえていたが、突然座っていたイスから立ち上がった。
「どうしたの?」
百合の言葉に、エミは首を横に振った。
「いいんです、もう、諦めます。だって、直接会わず突然音信不通になるなんて、最低な男ですよね。名刺の会社の場所もウソだったなんて、私、きっとだまされていたんです。
でも、私、あの人が本当に好きだったんです。優しいけど頼りがいがあって、私の理想通りの人だったのに。だから、最後の望みをかけて『リリア』に来てみたのに……」
エミは徐に羽織っていた上着の襟についていたブローチを外し始めた。
それはカメオのブローチだった。
よくあるカメオのように女性の横顔をかたどったものではない。マーガレットの花の彫刻が施されているものだった。
「このブローチ、彼氏が『母親の形見だ』って、『僕だと思ってずっと持っていて』って言ってプレゼントしてくれたものなんです。だから、彼氏も私が好きだと信じていたのに、私の勘違いだったみたい」
エミは持っていたブローチを、近くのゴミ箱に向かって投げた。
「あっ」
達也は反射的にゴミ箱に手を伸ばそうとしたが、エミはまた首を横に振った。
「いいんです、もう捨てます。すみません、私のこんな馬鹿な話を聞かせてしまって。でも、話して気持ちが吹っ切れました。ありがとうございました」
エミは百合と達也に向かって頭を下げると、そのまま部屋を出て行った。
達也は出て行ったエミが心配になった。
「吹っ切れた」なんて言っているけど、そう簡単に彼氏を忘れられるわけがない。自暴自棄になりはしないだろうか?
達也はエミの後を追おうとしたが、百合に呼び止めた。
「一人にさせておいた方がいいんじゃない? これ以上、誰かに泣いている姿を見られたくないだろうし」
確かに百合の言う通りかもしれない。達也はエミを追いかける代わりに、さっきエミが投げ捨てたブローチを拾った。
ブローチはゴミ箱の中に入らず、ゴミ箱の近くに落ちている。楽屋の床はフローリングだが、ブローチは壊れたりヒビが入ったりはしていなかった。
達也はブローチを拾い上げると、じっと見つめた。ブローチを見ながら、さっきのエミの話を思い出す。
エミは理想通りの男性と出会って嬉しかっただろう。しかも、自分が勤めているホテルのデザインのファンだなんて、仕事をしている人間にとっては誇りに思えることだ。
そんな男性から突然別れを切り出されて音信不通になってしまうなんて、エミの傷心は計り知れない。女性と一緒にいる場面を目撃したのも、「辛かったのだろう」と同情してしまう。
しかし、達也はエミの話に何か引っかかる部分を感じていた。
別に好きな人ができて、いきなり音信不通になる。恋愛ではそれなりにある話だ。達也も自分の書いた小説の中で、一回くらいはエピソードとして使ったことがあるかもしれない。
ただ、名刺に書いてあった会社の電話番号も偽造だったなんて、あまりにも手が込み過ぎていないだろうか。
まるで、初めから音信不通になるためにエミにウソの情報を与えていたかのようだ。
いや、それだけではない。他にも何か引っかかる部分があるような気がする。
達也はブローチを見つめながら、想像を膨らませた。
達也の頭の中には、さっき聞いたエミの話が物語となって蘇って来る。
エミが彼氏を「リリア」で目撃し、ショックを受けて泣きながら達也とぶつかる直前までは、まるでその場面を見たかのように鮮明に思い浮かべることができた。
しかし、それ以外の部分は何だか映像がぼやけている。
小説を書く時と同じだ。何か自分の中で腑に落ちないところや引っかかるところがあると、頭の中で映像が上手く流れない。
「何をそんなにじろじろとブローチを見ているの?」
百合に声をかけられて、達也は想像の世界から、突然現実の世界に引き戻された。
「あっ、うん、ちょっと」
「でも、西園寺さんの話、何か引っかかる。このブローチ、母親の形見の割には高価そうに見えないし」
達也は自分が持っているブローチを改めて見た。確かに百合の言う通り、高価そうには見えない。
カメオは貝や宝石に彫刻を施して作るものだが、このブローチの土台となっている瑪瑙はそれほど質がよいものとは思えなかった。
マーガレットの彫刻も雑に見える。
小さい頃からありとあらゆる高級品に触れてきた達也だ。自分がそう思うのだから、このカメオのブローチは高級品の部類ではないのだろう。
「確かにこのブローチ、高価ではないだろうけど、形見が高価なものとは限らないんじゃないの? 本人に思い入れがあれば、高級品よりも遥かに価値があるものになるし」
達也が本当にそう思っているような表情で言う。
達也は財閥の人間として贅沢を極めた生活を送って来た割には、お金よりも愛や美や希望を大切にする人間だった。
経済的に苦労したことがなく、周りから大切にされて育てられたから「愛こそはすべて」みたいな思考になったのかもしれない。時々「高級品よりも遥かに価値がある」なんて作家らしい感傷的なセリフを言う。
聞く人にとっては嫌味にも取られかねない言葉だが、百合は慣れているらしく相変わらず無表情のままだった。
「達也の言う通りだけど、私が引っかかっているのは、このブローチが高級とかそういうことだけじゃないの」
百合もエミの話とこのブローチに引っ掛かりを感じているらしい。
百合は理性的で達也は感傷的。2人はまったくタイプが違うように思えるが、仕事では同じ部分が気になることがよくあった。
その「気になること」が仕事で重要なことであることも多い。
あの「日本一の名探偵」と呼ばれる栄一が、百合と達也の「気になる」部分を徹底的にこだわって調べることもあるほどだった。
「そう、僕も引っかかるんだ。『何が?』って言われても、何とは言えないけど……」
達也はしばらく黙って「何か」が何なのか考えた。百合も無表情のまま黙っていたから、達也と同じように考えていたのだろう。
しかし、今の状態では答えが出ないとわかると、百合は軽く首を横に振った。