マーガレットのブローチ④
「はい。ありがとうございます。あの、実は私、お付き合いしている人がいるんです。ものすごく私の理想通りの素敵な人で、その内、ご両親にも挨拶に行きたいね、なんて話もしていました。
でも、この間、彼氏から『もう会えない、さようなら』って連絡が届いて、突然、音信不通になってしまったんです。電話もメールも全然繋がらなくなってしまったんです。
前に彼氏からもらった名刺の会社の番号にも電話してみたんですけど、『この番号は使われていない』というアナウンスが流れてしまって……。
今日非番だったので、思い切って名刺に書いてある会社の住所に行ってみたんですけど、全然違う名前の会社のプレートが掛かっていました。
それで、もしかすると『リリア』に彼氏がいるかもしれないと思って、最後の望みをかけて『リリア』に来てみたんです」
「どうして、彼氏が『リリア』にいると思ったの?」
百合が質問する。確かにエミはなぜ音信不通の彼氏が「リリア」にいると思ったのだろうか。達也も引っ掛かりを感じた。
「彼氏と初めて出会った場所が、『リリア』だったんです。半年くらい前、彼氏がお客様として『リリア』に来て、その時に声を掛けられたのがきっかけで付き合い始めたんです。
彼氏、建築関係のお仕事をしていると言ってました。昔からイリーナ・ホテルのデザインのファンだったと。特にラウンジ『リリア』は素晴らしくて大好きだそうです。
フロントスタッフなら、ここの構造を詳しく知っているだろうと声をかけられました。彼、その後も良く『リリア』にお客様として来ていたので、だから、もしかすると今日もいるんじゃないかと思ったんです」
エミの言う通り、イリーナ・ホテルのデザインは世界的にも有名だ。
日本のホテルらしく和を取り入れながらもモダン。高級な雰囲気がありながら、どことなく畳の部屋のような心を和ませてくれる雰囲気もある。
日本人だけでなく世界中の人から「またイリーナ・ホテルに泊まりたい」「また来てみたい」と好評だった。
「だから、非番なのに『リリア』に来たのね」
「はい、で、今日『リリア』の入口から中を覗こうとしたら、彼氏が『リリア』の反対側の入り口から出ようとしているところでした。しかも、女性と二人で。何やら真剣な表情で話し込みながら、連れ立って歩いていて……」
エミはまた涙をあふれさせた。ティッシュを一枚抜き取って目頭に当てる。
なるほど、そういうことだったのか、と達也は悟った。
エミはいきなり彼氏から別れを告げられてしまう。音信不通の彼氏がいるかもしれないと、非番なのにわざわざイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」まで来てみた。
エミの予想通り「リリア」に彼氏はいたが、真剣な表情で話し込むような仲の女性と一緒だった、ということだったのだ。
悲しかっただろうな。達也はエミの気持ちを考えると、自分ももらい泣きしてしまいそうになった。
「そう、だったのね」
しばらく泣いていたエミが落ち着いた頃、百合が口を開いた。
百合は相変わらず無表情だったが、それでもその声には同情の気持ちが見え隠れしている。何かしら言葉を選ぶように、ゆっくりと話しているように聞こえた。
「はい。彼氏とその女の人はそのままホテルの外へ行ってしまいました。その後、私、いたたまれなくなってしまって、『リリア』から走って立ち去ろうとしたんです。
その時、ここにいる桜井さんの幼馴染の方とぶつかって、あんなことになってしまって……」
「じゃあ、あなたの彼氏は紺のチェックのジャケットを羽織って、窓際に座っていたあの男の人なのね。確かに女性と向かい合って座って、何か話し込んでいる様子だったけど」
百合がさらりと当たり前のように言う。この言葉から察するに、百合は客として来ていただけのエミの彼氏の顔をすっかり覚えてしまっているようだった。
多分、百合は今日ラウンジ「リリア」にいた客の顔を、ほぼ全員覚えている。別にエミの彼氏が真剣そうな話をしていて目についたから、というわけではない。
あの日本一の名探偵と名高い桜井栄一の娘らしく、百合は記憶力や洞察力が並外れているのだ。
だからこそ、達也の父親は百合と栄一がいる探偵事務所に達也を働かせている。
達也は作家業の傍ら、週に2~3日程度、栄一の探偵事務所でアルバイトをしていた。仕事内容は主に雑用だ。
達也には作家で食べて行けるだけの収入があるし、実家は果てしなく裕福だ。特にアルバイトする必要もないが、達也の父親が栄一に「息子を働かせてくれ」と頼んだのだった。
達也の父親は、せめて息子に「働く」経験をさせたいと思ったらしい。
達也は小さい頃から金持ちの坊ちゃんらしく、甘やかされて育った。その上、大学在学中には作家デビュー。就職はおろかアルバイトもしたことがない。
達也の父親は世間知らずな息子を心配し、親友の栄一とその娘の百合を頼ったのだった。