マーガレットのブローチ③
やがて、3人は百合が「来る?」と言った楽屋の前にたどり着いた。百合はドアを開けると「どうぞ」と後ろの達也とエミに入るよう促す。
楽屋はそんなに広くない。8帖くらいだろうか。洋室で奥と左の壁がいくつかのドレッサーになっている。部屋の中央には大きめの長方形のテーブルが置いてあり、イスが何脚か並んでいた。
天使のようにかわいらしいエリは、まだ赤く潤んだ瞳をしている。百合は無表情のまま、テーブルの上に置いてあったティッシュの箱を渡した。ハンカチよりもティッシュの方がよさそうだと判断したのだろう。
「大丈夫?」
「あっ、はい、ありがとうございます。すみません、さっきはラウンジの入り口で泣いてしまって……。あと、ごまかしてくださってありがとうございました」
エミは引き抜いたティッシュで目頭を押さえながら、百合に向かって深々と頭を下げた。そして、さっき渡されたレースのハンカチを丁寧なしぐさで百合に返す。
高級ホテルのフロントで働いていることだけあり、お辞儀の仕方が上品だ。達也は思わず目を見張ってしまった。
エミは隣にいる達也にも深々と頭を下げた。
「すみませんでした。いきなりぶつかっただけでなく、目の前で泣いてしまって。お客様に誤解されてしまったみたいで……」
「いえ、大丈夫です。誤解は解けたみたいですし、気にしないでください」
達也が首を横に振ると、エミはふわりと笑顔を見せて「ありがとうございます」と言った。
確かにエミが目の前で泣いていた時は、まるで自分が泣かせたみたいな状況になってしまって焦った。しかし、達也が「気にしないでください」と言った言葉は本心だ。達也はすでにラウンジ前でのできごとは解決したと思っている。
それよりも、どうしてエミが泣いていたのかの方が気になった。
フロントスタッフであれば、自分の感情に仮面をつけることには慣れているはずだ。今はプライベートの時間とは言え、人前で泣き出すなんて、よっぽどのことがあったのではないだろうか。
「ラウンジ『リリア』に良くいらっしゃいますよね? 桜井さんとお知り合いだったんですね?」
エミが達也の思考を遮るように言うと、百合が口を開いた。
「彼は達也っていうの。私の幼馴染。小さい頃に良く一緒に遊んでいたのよ。――ところで、西園寺さんはどうしたの? 私服を着ているし、今日は非番よね?」
百合は達也の正体がエミにばれるのを防ぐように、さりげなく話を逸らしてくれたらしい。
百合は達也と同じ24歳だ。さっき「女の子を泣かせた」ようになっていた自分を咄嗟に救ってくれたことといい、いつでもどんな時でも冷静で頭の回転が早い。
百合は幼い頃からいつもこんな感じだった。達也だって、作家をしているのだから決して頭が悪い方ではないとは思っている。しかし、百合の隣にいると、自分には超えられない線みたいなものを感じてしまう。
エミは百合の問いかけに再び目から涙をあふれさせた。あわててティッシュをもう一枚引き抜く。
どうもエミの事態は深刻なようだ。
達也はエミに声を掛けた方が良いのかどうか迷った。百合はエミを何の感情も交えないような瞳で見ていたが、やがて視線を逸すと、達也とエミにテーブル前のイスに座るように促した。
百合もイスに座ると、無表情のまま独り言のように言う。
「もしだったら、話聞くけど。私、そっちの方が本業だし」
百合の口調はぶっきらぼうだが、達也は彼女と付き合いが長いからわかる。
百合が無表情のまま視線を逸らすのは、相手に対して何か親切をしようとしている時の仕草なのだ。
「ありがとうございます。そうですよね、桜井さんって……」
エミが何かを思い出したような表情をする。
フロントスタッフのエミは、百合がどういう素性の人間か知っているらしい。
百合はこのイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」でピアニストをやっているが、ピアニストは副業だ。
百合の本業は探偵。普段は父親が経営している探偵事務所で働いている。
百合の父親の桜井栄一は「日本一の名探偵」と言われている。そして、母親は世界的に有名なピアニストの桜井葵だった。
娘の百合は有名な音楽大学のピアノ演奏家コースを卒業後、母親と同じピアニストの道を目指すかのように思われたが……。「父親の後を継ぐ」と、栄一の探偵事務所で働き始めたのだった。
ただ、ピアノを完全に辞めたわけではない。栄一の親友である達也の父親に誘われて、平日の夜や土日の昼間にラウンジ「リリア」でピアニストをやっている。
百合はエミの言葉に「別にお礼なんていいから、話をどうぞ」と視線を逸らしたまま言った。
相変わらず無表情だが、百合の周りに漂う雰囲気は決して冷たいものではない。
エミはその雰囲気を察したのか、少し安心したような表情になり、口を開いた。