四つ辻亭
王都テルスから西方一の大都市バックスへ伸びる街道は、いにしえの偉大な王にちなみ<ピウス大街道>と名づけられてはいるが、実際は<葡萄酒街道>としか呼ばれていない。
バックスで生産された葡萄酒が出荷の季節になると王都へ大量に輸送されていくことから自然とそう呼ばれるようになったのだ。ピウス王が大の葡萄酒好きだったからというのは後付けの理由に過ぎない。
王都を出発し、その葡萄酒街道を三日ほど歩くと、サリアという中規模の街に着く。
王都に行く者は旅の終わりを実感し、陽気に──あるいは陰気になる場所であり、バックスに行く者はこの先の長旅に備え、鋭気を養う場所である。
サリアで一番繁盛している食堂と言えば<四つ辻亭>であろう。
三十人あまりを一度に収容できる大きさといい、三人のコックが作る食事の美味さといい、サリアを代表すると言い切っても住民からは文句は出ないはずだ。
もっとも<四つ辻>といっても、初代の経営者が四つ辻にあるがごとく繁盛すべしと願って名づけたもので、十字路にあるわけではないのだが、願いが叶ったのか、客足が途切れることはない。
その<四つ辻亭>には昼時のピークを過ぎてもそれなりに客がいた。街道筋にあるために、客の出入りが絶えないのだ。地元の客は数人で、あとは旅行客が占めている。
年季の入った調度品が備えつけられた店内は、客の話し声やフォークやナイフが立てる音で、蜂の羽のようなざわめきに満ちていた。
新客が入ってきたとき、女給のメーサはからかい半分に腰に手を伸ばしてきた酔っぱらいの手を叩き落としたところだった。もうすぐ二十五になろうかという歳で、両親からは結婚をせっつかれているが、メーサはのらりくらりとかわして気ままに日々を送っている。給料は悪くなく、こうして酔っぱらいの相手をすることをのぞけば、満足している。
「はぁい! 今案内するわね」
いい機会とばかりに素早く酔っぱらいの席から離れると、入り口に駆け寄った。
入り口に立つ客の姿を目の当たりにして、一瞬メーサは戸惑った。
奇妙な男女の二人組だった。
一人は黒いケープを羽織った長身の男で、脱いだばかりの帽子を手にしている。癖っ毛のある茶色がかった髪の下は、二十代の後半でもおかしくなく、四十代のはじめと言われても納得するような年齢不詳気味の容貌だった。身体は針金のように痩せていた。
もう一人は十代半ばと思われる小柄な少女で、鮮やかな金髪と海のような碧い目がまず目についた。控えめにフリルがついた白のブラウスに薄茶色のスカート、黒のコルセットと、恰好はいたってシンプルだが、匂い立つような気品がある。めったにお目にかかれないような整った顔立ちをしていた。
まるで人形のように無表情なのが玉に瑕だとメーサは思った。笑った顔が想像できないのだ。美しいだけに、鋭い刃物が持つ、ひやりとするような冷たさすら感じられた。
二人がどういう関係なのか、類推不能だった。親子や兄妹というには共通点が思い当たらないほど似ていない。恋人同士――にはとても見えない。年齢の差もあるが、女の直感で、一番可能性が低いと判断した。何というか、その種の情を通わせている雰囲気が全くないのだ。
主の娘とその従者なのかもしれない。服装から判断すると、そこそこの家柄なのは間違いないが(高貴な身分は二人きりでここに来たりはしない。金持ち専用の宿屋があるのだ)、王都へ旅行にでも来たのだろうか。
メーサはここで首を振ってとめどない憶測をとめた。自分の噂好きの性格に少し呆れてしまう。
「こんにちわ、お嬢さん。とても良い宿だと評判を聞きましてね。今日は――いや、しばらくここに宿泊しようかと思っているんですが、私たち、馬で来てましてね。納屋をお借りできないかと」
男が帽子を手に取って丁寧に話しかけてくる。かすかな笑み――単に自分は礼儀正しい態度をとっているだけだというような、押し付けがましくない上品な微笑。
メーサは好感を持った。物腰は柔らかいし、よく見ると顔もなかなか整ってるではないか。何と言っても自分をお嬢さんと言ってくれたのだ。この店にはそんなことを言う常連客はいない。
「ええ、あるわよ。旅人に必要なものはここに来れば全部あるっていうくらい色々揃ってるんだから」
「無いのはお淑やかな女ぐらいだな」と、常連の一人が声を上げた。どっと笑いがおこる。
「うるさいよ、あんたたち! どこにお淑やかなレディがいないんだって? そんなことをいう口には馬の小便しか飲ませてやらないよ!」
メーサはよく通る声で怒鳴った。再び笑い声がおこる。
気が強く、口も悪いメーサであったが、反面、面倒見が良く人懐こい性格で人気があった。常連客の中には彼女の怒鳴り声を一週間も聞いてないと落ち着かないというのもいるくらいだ。
「これメーサ、あんたはまたお客さんに何て口きくんだい」
奥でコックの手伝いをしている初老の女性がメーサを叱りつけた。これもいつものことである。
「はーい、お客さんを案内してきまーす。こっちのお客さんには、そんな口はききませーん」
笑い声を背に、メーサは長身の男を外に連れ出して納屋に案内した。少女は先に席に座っていた。ちょこんとした仕草が人形めいて、愛らしい。
「ちょっとうるさいかも知れないけど……」
「いえいえ、活気があって素晴らしいですよ。この街が安全であること、すなわち統治の良さが窺い知れます。俗に夫を知ればその妻が分かり、子を知ればその親が分かり、宿屋を知ればその街のことが分かるといいますしね」
「へぇ、そうなんだ。確かにそうだね」
「今思いついたことですがね」
メーサはずっこけかけ、思わず男の顔を見直した。最初の印象を修正したほうが良さそうだ。
「さ、ここだよ。まだ十分空きはあるから好きなところに繋いでちょうだい」
「はい。ありがとうございました。料理をお願いしてよろしいですか? すぐに行きますから」
メーサはくすりと笑った。
「お腹減ってるんだね。何がいい?」
「そちらのお勧めで結構ですよ。あの繁盛してる様子を見ると、きっと美味しいに違いありませんから」
「そのとおりだよ。用意しておくね!」
メーサはうなずくと、小走りで宿に帰っていった。
男はダリオ、少女はエリーと名乗った(正確には少女の名はダリオが告げた)。
「いやぁ、実に美味しかった。特にスープがいい」
ダリオは満足したようにお腹のあたりを撫でると、スプーンを置いた。見た目通りに小食なようで、干し葡萄入りのパンを一切れと、野菜スープを一皿。それとワインを一杯飲んで十分らしい。
「それはどうも。ま、作ったのは私じゃないけど。それだけで足りるのかい?」
「十分です。あまり食べると眠くなるので」
「ちゃんと食べないと身体に良くないよ。あんた、背もずいぶん高いんだしさ」
「ご忠告、ありがとうございます……。えーと、それを……」
男の指さす先を見て、メーサは袖を引っ張られることにはじめて気がついた。
「何だい? お嬢さん」
「おかわり」
「え、また? いや、別にいいけど。パンは一つでいい?」
「三つ。茸入りのスープも。それとイノシシの肉のステーキも」
メーサは先ほどまで食事が乗っていたとは思えないほどぴかぴかに光る皿を見つめた。三度目のおかわりだった。
「ずいぶん食べるんだね。ちっちゃいのによく入るもんだ」
「ええ。彼女は……栄養を摂る必要があるので。こう見えて、よく運動するんですよ」
ダリオがエリーの代わりに説明する。エリーはこの店に来てから食事に関することしか喋っていない。
「そう。まぁ、よく食べるのはいいことだよ。こっちはお金さえ払ってくれればいくらでも出すからね」
メーサは笑って注文をコックに告げた。
湯気を立てるおかわりをエリーが平らげてる間、ダリオはメーサと世間話をしていた。
ダリオがレオノールから来たと告げると、メーサは驚いて、
「これはまたずいぶん遠くから来たんだね」
「でも、この街みたいな王都への街道にある場所だと、珍しくはないんじゃないですか?」
「まぁ、そうだけど……いや、でもレオノールからはなかなかないわね。巡礼かい?」
聞きながら、とてもそうには見えないとメーサは思う。地母神を祭る大神殿への巡礼は熱心な教徒なら一生に一度は果たしたいと思う宗教儀式である。特に地方の民は王都への憧れもあり、観光がてらの巡礼者が<四つ辻亭>に立ち寄ることもたびたびであった。
とはいえ、レオノールはメーサにとっては地の果てとでも形容すべき遠方の地であり、事実、彼の地から来る者には滅多に会うことはなかった。
それにしては旅の垢が感じらないが……。日に焼けた様子もない。
「いえ、私たちはあまり信仰心に富むほうではなくてね……。世界を回って、見聞を広めてるんですよ。と言えば聞こえはいいかも知れませんが、まぁ、基本的には観光です。信仰心はともかく、王都に行けば大神殿も見るつもりですよ」
「なるほどね」
メーサはうなずいた。観光は最も納得のいく理由ではある。
「じゃあ、お金持ちなんだねぇ」
「まぁ、それなりに」
しれっとのたまうダリオにメーサが何か言おうと口を開きかけたときである。
<四つ辻亭>に一見してそうと分かる、ゴロツキ風の男が五人入ってきた。
「ケッ、何だ。シケた店だな」
先頭の髭面の男が、大声を出した。
店の雰囲気が一気に微妙なものになる。
「シケた店で悪かったね。嫌なら別の店に行ってもいいんだよ」と、メーサが鋭く答えた。メーサはこの店が好きだから、馬鹿にされるのは我慢ならない。
「ちょっと、メーサ……」
女給の同僚が慌ててメーサの袖をつかみ、引っ張った。
「すいませんね。こっちの席にどうぞ」
「へっ」
男たちはどかどか音を立てながら席に着き、口々に注文を言いはじめた。
「気分悪いね。さっさと食って、さっさと出てけばいいのに」
メーサはふん、と鼻を鳴らし、男たちを睨みつける。
しかし事態はメーサの希望とは反対に進んでしまう。