プロローグ
風雨の勢いは嵐といってもいいほどまでに成長していた。
まだ日が落ちる時刻ではないが、分厚い雲が空を覆っているせいで、まるで夜のように暗い。鬱蒼とした森の中というのが暗さにより拍車をかけている。
雷光が閃き、一人が二人組と対峙している構図をくっきりと浮かび上がらせた。
雷光に遅れること数瞬、地鳴りのような雷鳴が暗い天蓋から降りそそいだ。
横なぐりの雨と強い風が衣服をかき乱しても、その場の三人は毛ほども気にしていないようだった。
「こんなに早く嗅ぎつけられるとはな。噂に聞く協会の探査部門も優秀なんだな」
二人組と対峙している男が禿頭をつるりと撫でて言った。風のせいで大声を出さなければならなかったが、それでもずいぶんと余裕の感じられる口調だった。野太い声に相応しい巨躯の持ち主で、服の上からでも盛り上がる筋肉が分かるほどだ。
風貌も体格に似て、武骨で濃い。鋭く険のある目が油断なく光っている。
左腰に剣を佩いていた。その剣も、やはり普通の男には手に余るような巨剣だ。黒と赤で塗り分けられた鞘には微細なレリーフが施され、宝石もちりばめられいる。
「そこに一番お金をかけてるようでしてね。もっともあなたが派手に活躍してくれたおかげでもありますがね、団長さん」
澄ました声の持ち主は、三人の中で一番背の高い男だった。こちらは対峙している巨漢と違って身体つきは針金のように細く、今にも強風に吹き飛ばされてしまいそうだ。さほど張り上げてるようでもないのに、よく通る声だった。
背の高い男もその隣の小柄な人物も、膝まである雨具用のケープを身にまとい、フードをかぶっていた。巨漢と違って、二人とも武器は身に着けていないようだ。
団長と呼ばれた巨漢は雨に濡れそぼった髭をぼりぼりと掻くと、すっと目を細めた。
「なぁ、手を組まないか? 見逃してくれればお前らにも美味しい思いをさせてやるよ。楽しいぞ、やりたい放題だ。殺したいときに殺す。食いたいときに食う。犯したいときに犯す。組織の犬には味わえない自由の味を、存分に味わえる」
「自由には責任がともなうという話を聞いたことがありませんか? だからたいていの人間は自由を恐れるのだと」
巨漢は馬鹿にしたようなにやにや笑いを浮かべ、自分の耳を指さした。
「さぁ、ないね。その手のお説教は、右から左さ」
「責任というのは、私たちのことですよ」
「ハッ! 何だそりゃ。俺はお前のいうたいていの人間に当てはまらないんだろうさ。怖くないからな。──ところで、本当に手は組みたくないのか? 何でも言うことを聞く女をはべらせたことがあるか?」
「せっかくのお誘いですが、お断りしますよ。協会の追っ手も怖いですし、何より――」
長身の男はそこでちら、と隣を見る。
「彼女が怒りますから」
「別に怒らない」
彼女と呼ばれた小柄な人物はまったく感情の篭ってない口調で言った。
「あなたが、本当にそうしたいなら」
フードが鬱陶しくなったのか、手で跳ね上げて顔を風雨にさらす。
「へえ──ずいぶんな別嬪さんじゃねえか。まだ別嬪と言うには若すぎるがな」
巨漢が感嘆の声を上げたのも無理からぬことだったろう。
鮮やかな金髪と碧い目は、薄暗い森の中でもその煌びやかさを失うことはない。端整な顔立ちは時おりの稲光に白く映え、長い睫が滑らかな肌に影を作った。
年のころは十代の半ばから後半か。風雨の中で武器を持った巨漢と対峙するという異常な状況に、どういう感情も抱いてないようだった。冷静であるのとは異なり、感情の欠落を強く感じさせる表情だった。
「参りましたねぇ――」
背の高い男は困ったようにまだ少女といっていいように見える<彼女>を見た。少女はことの成り行きに全く興味が無いような様子で、ただ巨漢を見つめている。
「へへ。だってよ。どうするよ?」
「まぁ、お断りしておきましょう。実際の話、何でも言うことを聞いてくれる女性より暖かいところで飲む温かいミルクのほうが魅力的でしてね。早くケリをつけてミルクを飲んで寝たいんです」
「話をつけてミルクを飲んで寝ればいいんじゃないか? すぐに済むぜ」
「訂正しましょう。仕事をきっちりこなしたという充実感を感じながら寝たいんです。それが私に許された自由なのですよ」
「けっ、ああそうかい。シケた自由だ。ま、期待はしてなかったがな」
巨漢の体勢がゆっくりと、しかし目に見えるように変わっていった。リラックスした状態から緊張したそれへ。猫背気味になり、いつでも剣を抜けるように右手がぶらりと垂れ下がった。
「で、どうするんだ? 交渉決裂のあとは?」
「降伏勧告ですよ。おとなしく捕まりなさい。そうすれば怪我はしないですみます」
目の前の筋肉隆々の男がそうするとはまったく信じていないような、雑で適当な棒読み口調だった。
「へっ。ここに来るのにどんだけ苦労したと思ってんだ」
巨漢はぺっ、と唾を吐いた。大人の頭も軽々と掴めそうな大きな手で顔をつるんと撫でると、
「さぁ、やるんだろ? かかってこいよ。どっちが来るんだ? 俺は同時にでも全然構わないぜ」
「闘志満々ですね。おまけに自信も満々ときたもんだ」
「大人しく帰るかい? ――いや、そこのお嬢ちゃんは置いていってもらおうか」
巨漢が卑しい笑みを浮かべた。
「女は何人いてもいいからな。特にお嬢ちゃんみたいな別嬪ならなおさらだ」
「はぁ。あなた、こういう年頃の女の子が好きなんですか? 自分に自信のない男は少女を好むようですが」
「ぎりぎり下限だよ」
巨漢はもはや舌なめずりせんばかりだった。
「――だ、そうですが。どうします?」
少女は短く答えた。
「もうはじめていいの?」
目の前で自分の話題が――それもきわめて不快な――交わされているのがまったく気にならないらしい。
背の高い男はいたって真面目な口調で「私が下がるまで待って下さい」と言うと、巨漢と少女を視界にとらえたまま、ゆっくりと後ずさりして距離を取った。
巨漢は下がっていく背の高い男を唖然と見ていた。どっちが来るんだとはいったものの、それは優男風の風貌に対する当てこすりで、当然男のほうが戦うとばかり思っていたのだ。
「何だ? こっちのお嬢ちゃんがやるのか?」
巨漢は戸惑った様子で背の高い男と少女に視線を送った。
「降伏しますか?」
「するか、馬鹿。……お前、恥ずかしくないのか? 男のくせに」
「ええ、私は自分が恥知らずということを知っていますよ。しかし自分が恥知らずだということを知らないあなたよりはマシなのです。無恥の知というやつですね。……いや、何か違うな?」
男は真剣な様子で考えだした。
「何なんだお前らは」
巨漢は二人組のあまりの余裕ぶりに気味が悪くなったようだった。自分とこのような場面で対峙して平気でいる人間がいるはずがない。ましてまったく強そうに見えない、背が高いのだけが取り柄みたいな男と、人形のような少女が……。
それから何かに思い当たったように目を見開いた。
「いや、待てよ──お前らまさか──<でくのぼう>と<氷人形>か? <氷人形>、てめえがあの大戦のただ一人の生き残りなのか!?」
背の高い男は大仰にのけぞり、雑で適当な棒読み口調で、
「ええーっ、まさかそんな。違いますよ。私たちはあんなに評判の悪い二人組じゃありません。ちょっと訂正すると、評判の悪いのは<氷人形>のほうですけどね。もう乱暴すぎて。<でくのぼう>のほうはそれでほとほと困っているようです」
少女は背の高い男をじろりと見たが、何も言わなかった。観察眼の鋭いものが見れば、少女がため息をついたように感じたかもしれない。
「えーと、機嫌が悪そうですね? 待ちくたびれちゃいました?」
「……別に」
「けっ。しょうがねえ、奴隷にしてやろうかと思ったが、殺るしかねえか。相手が<氷人形>ときちゃな」
巨漢は舌打ちすると、剣を抜くと、天に突き刺すようにかかげた。
稲妻が光り、剣は雷光を浴びて、まるで光そのものでできているかのように激しく輝いた。
驚くべきことに、稲妻が消えても剣の光は消えなかった。──光を反射していたのではなく、剣自体が光っているのだ。
「この剣がある限り俺は無敵よ。見ろ! 神剣レーヴァテイン!」
対する反応は──無言だった。背の高い男と少女は──巨漢の言を信じれば、<でくのぼう>と<氷人形>は互いに顔を見合わせ、無言のまま巨漢に向き直った。
白けたような雰囲気が漂った。
「なんだぁ? ずいぶんつれねぇじゃねえか。何か言えよ」
巨漢は気にする様子もなくニヤニヤ笑う。
「あなた、それ、本気で言ってるんですか? 見ろ! 神剣レーヴァテイン! ……申し訳ないですけど、そういうのはちょっとねぇ……私たち、もういい大人なので」
「ここはよ、こういうのが効くんだよ。それっぽい言い伝えとか苦労話とか付け加えてな。それと、別にこけおどしじゃねえぜ」
巨漢は二人の大人が手を回しても抱えきれないほどの幹回りがある大木に近寄ると、裂帛の気合いとともに剣をふるった。
剣は大木を通り過ぎた。──そうとしか言いようがないほどスムーズに木を斬った。
巨漢は幹に手を触れて、軽く押した。木はゆっくりと倒れていった。切り口は赤ん坊の肌のようにひどく滑らかでつるつるだった。
「どうよ。この剣に斬れねえものはねえ。<氷人形>、てめえの首なんかひと撫でだ。それとも頭のてっぺんから可愛いケツまで真っ二つにしてやるか?」
巨漢は下卑た笑みを浮かべ、光輝く剣の切っ先をエリーに向ける。
雷鳴が轟いた。今までで一番激しく、びりびりと空気が震えている。まさに轟音だった。
「?」
巨漢が眉をひそめた。
少女が笑みを浮かべたように見えたのだ。
可憐な姿に似つかわしくない、獰猛な笑みを。
しかしそれは雷光のように一瞬で消え、あとには人形のような無表情だけが残った。
……何か途方もない間違いをしたのではないか?
ふいに湧いた巨漢の疑問は、長身の男の真剣味のない台詞に中断された。
「真っ二つにされないよう、がんばってくださいね。応援してますよ~」
「てめえもすぐにあの世に送ってやるよ。このガキのあとでな」
少女は巨漢の言葉を聞いても顔色一つ変えなかった。
顔色一つ変えずに、巨漢に向かって無造作に歩きはじめた。
ゆっくりと──まるで親友に挨拶しにいくような気楽な歩調で。
それはすぐに、疾走に変わった。