帰宅
翌日の朝になれば、街は騒がしくなっていた。
僕を探してのことであろう。
逃げ延びることができるなど、安易な考えであった。
向こうには、僕を逃がすわけにはいかない理由がある。生きるためという、重要で重い理由がある。
興味本位で僕に逃げ出されては、迷惑なのだ。
命が掛かっているのだ。
それだけで済まされるようなことではないのだ。
己の不注意、そして僕に疑問を持たせたこと。
恨むのならその二点だね。
「思っていた以上に、時間はないようです。早急に僕の家へと逃げ込みましょう」
物語に登場した女性とは違って、繊細でも柔らかくもない、力強い手をキュッと握る。
温かくて、どこか懐かしいものを感じた。
「着替えとかしなくて大丈夫なんか? 汚い服だし、失礼に値しちまうんじゃねぇかと……」
「服くらい、着いてから着替えればいいだけのものでしょう。その程度ならば、すぐに用意できるかと思いますし、今のうちにどのようなものをご所望か、考えておくとよいと思います」
謙虚な彼女の姿勢に感心しつつも、あまりの低姿勢にどうも笑ってしまう。
人の服を非難するなど、安い心の持ち主がすることだ。
服に限らず、といったところだろう。
人のことを非難するような人は、その人自身が、かなり乏しく安い人であるということがすぐにわかる人でもある。
哀れ。その他、言い表しようがない。
「服くらい、か。そうだな。お前ぇなんかにとっては、……そうなんだろうな」
呟いた言葉は聞き取れなかったが、どこか寂しそうに思えた。
「ただいま帰りました」
「どうして帰ってなど来たのです?」
「彼は僕に暴行を振るいます。彼は僕に食事を与えません。彼は僕のことを嫌い、僕を傷付けようとするのです。彼は、僕を人形だと思っているようなのです」
「なるほど」
「隙を盗んで、夜に逃げて参りました。それに伴い、途中で彼女と出会い、彼女は僕を導いてくれたのです」
そう遠いわけではないので、辿り着いて両親に会うと、そのように説明をした。
嘘を吐いてはいるけれど、そのようなこと、気にするほどのことでもない。
死人に口なし。
次に彼が僕の前に現れるときは、間違えなく死後なのだからね。
僕の両親は、僕を疑ったりなどしない。
僕を愛してくれるから、僕を疑うようなことはしない。
「それはありがたいですね。うちの子を助けてくださって、ありがとうございます」
「いや、助けたってほどのことはしてねぇっす。一緒にいて楽しいし、あたしの方が助けられてるっていうか、なんて言ったらいいんだろう?」
緊張しているような彼女に、母は微笑みを向けた。
久しぶりの家は温かくて、昨日までのことなど、忘れてしまうようであった。
本を読むことは楽しかったけれど、もう十分だと思った。
僕は本が好きだ。
僕は勉強が好きだ。
けれどあの男のところで本を読むことより、今は両親と、そして彼女との時間を過ごしたいと思った。
これは読書が齎した僕の変化だと思う。
今はそう思っておきたい。
僕を変わらせたのは、本を読むことだと。