好奇心
一生の愛が、永遠の愛か。
否。だれであろうとも、それをイコールで結ぶことはできない。
なぜか。
それは、一生と永遠とを、だれもイコールで結ぶことができないからだろう。
永遠を生きる人など、どこにも存在しない。
そんなことはわかりきったこと。
僕でなくても、みんな、わかりきっていることと笑えるだろう。
ならば、どうして人は、永遠というときを持つのだろう。
存在しないものを、言葉として残そうとするのだろう。
永遠
その文字を見るたびに、なぜだか僕は苦しくなるようだった。
現実世界には存在しない永遠を、本の世界は持っていた。
言ってしまえば字面でしかない世界だから、想像の中に作られる世界だから、何もかもが存在し得るということなのだろう。
永遠を持つものが、そこには存在していた。
大抵、それは人に忌み嫌われるものであった。
大抵、それは刹那を望むものであった。
刹那は永遠を望み、永遠は刹那を望む。
結局は、どちらも同じことのように思えた。
少なくとも、僕の知っている、字面の上では同じものであった。
どちらも現実世界には存在していない、そういうことなのだろうか。
例え話を過ぎないもので、どちらも……幻想でしかない。
だからといって何と言うわけでもないが、なんだかそれは、ひどく空しいことであり、同時に素晴らしいことであるように感じられた。
永遠とは、なんと刹那的なものなのだろう。
この永遠を手にする手というものはあるのだろうか。
僕は考えた。
そもそも、そのどちらもが、比喩表現とするために存在する言葉でしかないのだとしたら。
永いときをただ永遠と呼び、一瞬をただ刹那と呼ぶ。
その程度を表すためだけに、それらは言葉となった。
過ぎ去った過去は刹那的で、まだ見ぬ未来は永遠で。
それもまた、例えの一つなのだろうかと考える。
仮説を立てて、推測をして、結論へと結びつけようともするのだけれど、所詮それは僕の推測でしかない。
文字列からなることが、現実でもまたそうと言えるとも思えない。
存在しないものならば、探そうとすること自体が、おかしな話なのかもしれない。
無駄なことなのかもしれない。
それならば僕は、何にこんなにも執着しているというのだろう。
果てしないことを、そして、仕方のないことを僕はしているような気がした。
そう思うと意地でも感じたくなった。
その、刹那とかいうものを。
更にその、永遠とかいうものを。