援軍と秀久軍、対峙する
小笠原秀正は飯田城から高遠城へ向かう。
物見の者の調べによると、高遠城に寄せている将の中に仙石秀久がいると言う。
(仙石秀久か。剛の者じゃな。いけいけのように見えるが、彼は戦は上手い)
秀正は仙石秀久を高く評価している。戸次川での失態で秀久の評価は「功を焦る愚鈍な将」と見なされているが秀正はそうは思っていなかった。
(戸次川の戦で功を焦ったのは、実は秀久殿の臣や寄騎であったとも聞く。特に寄騎の意を押さえこめなかったのだろう。何しろ故・太閤殿下を古くから支え、数多の戦を生き残って来た御仁。生き残るだけでも凄い事じゃ)
秀正の仙石秀久評は概ね正しい。この時分、仙石秀久を高く評価していたのは徳川家康、前田利長、真田昌幸らであり、低い評価なのは徳川秀忠、黒田官兵衛・長政親子らである。
家康は幾つかの戦を共にしていて秀久の武勇を認めている。前田利長や真田昌幸は内政面で秀久を評価している。秀忠は将としては評価していなかったが、関ヶ原の遅参の失態を家康にとりなした秀久に多少の恩義と親しみを感じている。
(さて高遠城を囲むは大手に真田信幸本隊二千五百、搦め手に仙石秀久千か。我らは千余りで普通であれば仙石勢に当たるのが良いと見えるがな。仙石は二度も改易されながら不死鳥のように返り咲く。こ度、真田配下となった初の戦であれば、意気盛んであろう)
秀正は高く評価する仙石秀久と当たるのを嫌った。数の不利はあるが真田信幸と当たる事を選ぶ。秀正は真田家に対しては「守るに強い」と評していた。家康、秀忠の攻めを凌いだ上田城での真田昌幸の事は良く知られている。その血を引く信幸である。攻めるよりも守る方が得意と見ていた。
「よしっ!大手の方へ回るぞ!高遠城が見える所まで進んだ後に大手の真田軍の背後に寄せる!」
高遠城まであと一里となった所で、秀正は率いる兵達に告げる。
進軍を続け、やがて高遠城が見えてきた。南から北上してきた秀正軍から城を見ると、左手が大手、右手が搦め手となる。城の手前には三峰川が流れている。
秀正軍は三峰川の手前まで進み、左に進路を変える。
「殿。飯田勢は大手の方に向かうようです」
秀久へ物見の者が告げた。
「何!? 我と当たるのを避けたか? ならばこちらも進むぞ!」
秀久は搦め手前から南へ軍を下らせる。搦め手から城兵が出張ってくるかもしれないので十分に背後に注意しながら進む。城兵に動きは感じられなかった。
秀久隊は素早く三峰川を渡河して、三峰川手前から左に進路を変えた秀正隊の背後に回った。
となれば秀正隊は渡河し大手の信幸軍に向かう事が出来ない。三峰川を挟み背後に高遠城を望みながら、仙石秀久軍千兵と小笠原秀正軍千兵は対峙する。
(兵力は互角。ここは無理せずとも良い。向こうが仕掛けてくらば交わしながら引く。信幸様へ向かわぬよう押さえればいいのだ)
秀久の「飯田からの援軍は任せよ」との言葉通りに秀久は援軍を抑えた。ここで高遠城と信幸軍との戦が始まれば小笠原秀正隊は秀久に向かってくるであろう。その時は秀久は南に引き高遠城から小笠原軍を遠ざけるつもりである。
(うむ。迂闊には動けぬな。真田本隊が動いた時には渡河して城を助けねばならぬが、上手くやらねば背後を突かれる。難しい戦となるか。目の前の仙石軍に向かえば真田本隊より分隊が渡河して、やはり背後を取られかねん)
小笠原秀正もまた動けない状況となったのであった。
真田信之は三峰川向こうの動きを見て安堵する。
(上手くやりましたな、秀久殿。我らはこのままで良い。無理をせず、損害は極めて小さくするよう構えておればよい。搦め手より兵が出てくる可能性もあるが、それは低いじゃろう。さて、大阪の衆達よ、首尾よくされよ)
姉川甚八は諏訪のはずれ、高島城と高遠城の丁度中ほど辺りに陣を構えている。高島城から出た五百余りの兵と対峙している。高島城主・諏訪頼水は慎重であり寄せてくる気配は感じられない。
実は諏訪頼水と高遠城主・保科正光は仲が良くない。共に徳川に与する以前からの所領を巡る諍いの経緯があったからである。それゆえに諏訪頼水は積極的ではないのだ。兵も少ない。ただ日和見を嫌う家康の手前、援軍に向かう姿勢を見せただけである。
甚八率いる兵は七百であった。
甚八が陣を構築している際に一人の武将が面会を求めて来た。甚八が話を聞くと「陣借りを願いたい」とのことだ。その武将は元は諏訪大社下社を警護していた家柄であるが諏訪頼水に叩きだされて、土豪と成り果てていたらしい。従者を含めて三十程であるという。
甚八は半ば訝しみながら陣借りを認めて柵の手前、いわゆる最前に配置した。すると同様の理由で、その後にも陣借りを求める輩が押し掛けて、計八十ほど膨らんだ。甚八隊は総勢七百八十ほどになったのであった。
膠着する高遠城回りに比べ、戦機が高まる甚八隊だった。